16 悪夢
昼の緑を吸い込んだ空が、群青の夜へと融けていく頃、国境警備隊の詰所は静まり返っていた。
酒場の喧騒から逃れ、深い眠りに落ちたトレンの意識は、濁った泥のように暗い、過去の記憶へと引きずり込まれていく。
それは、故郷を失ってから彼の魂に焼き付いた悪夢だった。
◇
道脇に転がる切り傷の複数の死体。
鼻を突く強烈な血生臭さが立ち込める戦場。少年兵だったトレンは、それらの凄惨な光景に目もくれず、ただただ走る。周囲の戦況などどうでもよかった。今はただ、自分にとって何よりも大切な人の安否が心配で、胸が張り裂けそうだった。
息を切らし、ようやく辿り着いた食堂の入り口。
そのドアの前に立ち尽くしたトレンは、激しく上下する呼吸を整えながら、薄暗い部屋の奥へと視線を走らせた。
そこには、頭を抱え怖がっている少女が床に壁を背に座り込んでいた。
栗色の髪を震わせ、絶望に身をすくませていた少女は、荒い足音に顔を上げ、そこに立つトレンの姿を確認すると、弾かれたようにすぐ立ち上がった。
「トレン!」
少女はトレンの方へ駆け寄ってきた。その瞳には、救いを見出した光が宿っている。
トレンもまた、愛おしい少女の方に駆けた。
だが、残酷な運命は二人の再会を許さない。
天井に音もなく待機していた不気味な骸骨頭の怪物――赤刃兵が、獲物を見定めた蜘蛛のように、しなやかに床へと舞い降りて着地した。
その圧倒的な殺意と威圧感を前に、二人はその場で止まってしまい、息を潜めて、気配を殺しながら、ただ見るしかなかった。
赤刃兵は、なぜか武器をもっていない少女の方を襲いだす。
「ミキ!」
トレンは叫び、全速力で駆ける。
少女の名を呼ぶ彼の声が、血塗られた食堂に木霊した。
「届け!俺の手」
トレンは必死に彼女に手を伸ばす。
ミキの伸ばした手のひらが、トレンの手に届きそうになった――まさにその瞬間だった。
瞬きの次に見たのは、死神のような滑らかな横転ジャンプで自分の左腕を斬った赤刃兵の姿。
石の脳で紡ぐ人工筋肉を軋ませる、冷徹な一閃。
鮮血と共に空中に舞う左腕。そして、その奥で、何が起きたのか理解できずに涙目で口を開けたまま止まっているミキの姿。
激痛を感じるよりも早く、残酷に散った自分の鮮血が、窓から差し込む鈍い日差しに美しく、あまりにも美しく映っていた。
だが、すぐに赤刃兵は立ち止まることなく、ミキに追撃をしようとする。
自分の怪我など気にしている暇はないのだ。トレンは夢中で、残された右手に持つボウガンを、渾身の力を込めて赤刃兵の頭に叩きつける。
けれど勢いをつけすぎたため、トレンはそのまま硬い床に頭を強くぶつけて、意識を失い気絶してしまう。
凄まじい衝撃音が響き渡る。
赤刃兵の刃が迫り、誰もがやられたと思ったその時。
ミキは恐怖のあまり手のひらを顔にかざしていたが、衝撃音がしたけど無事だったので、恐る恐る周りを見ると、そこには床に激しくぶつけられ悶絶しているトレンと赤刃兵がいた。
ミキはボロボロと涙を流しながら、倒れたトレンに駆け寄る。
「トレン」
反応がない。トレンは微動だにしない。
「トレン」
もう一度ミキは声をかける。その悲痛な呼びかけに、トレンは薄く意識を取り戻し、薄く目を開けた。
だが、その視界に飛び込んできたのは、世界の終わりだった。
愛しいミキの胸を、赤刃兵の刃が後ろから刺し貫いていた。突き抜けた傷口から、鮮烈な血しぶきが宙に散る。
「ミキ――ッ!!」
トレンは叫んだ。
◇
「ミキ――ッ!!」
詰所の粗末なベッドの上で、トレンは叫びながら目を見開き、勢いよく跳ね起きた。
全身にびっしょりと酷い寝汗をかいている。心臓が早鐘のように鳴り響き、視界が激しく揺れていた。
「ふぅー」
何度も荒い呼吸を繰り返し、ようやくそれが冷たい現実の夜であることを理解する。トレンは手で顔を覆い、大きく呼吸を整えた。
「また、あいつの夢か…」
ぽつりと漏らした呟きは、誰に届くこともなく暗闇に溶けていく。
窓の外を見上げれば、世界はまだ深い夜中だった。トレンは重い身体を再び横たえ、呪われた過去の余韻に耐えながら、静かに眠りについた。
◇
夜が明けても、その日のトレンは非番だった。
警備隊の詰所の敷地内なので安全ではある。トレンはそんな厳重に守られた場所の縁側で、心地よい朝の光を浴びながらのんびりと寝ていた。
その時、寝ているトレンを静かに見下ろす男、エルウイが立っていた。赤い服をまとったその男は、しばらく無言で無防備な傭兵の寝顔を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「トレン」
起きないトレンにエルウイは声をかけた。
だが、微動だにする気配はない。
「トレン」
もう一度言ってみる。
まどろみの中、トレンの耳にはどこか懐かしい女の声で自分の名が呼ばれたような気がしていた。しかし、再び鼓膜を震わせた言葉は、冷徹な男の声に変わっている。
「あー?」
寝ぼけた目を開け、眩しそうに空を見上げると、そこにはエルウイが見下ろしていた。トレンはまだ完全に覚醒していない頭で、彼の制服へと視線をやる。
「モトラ兵か」
「エルウイだ」
まだ名前を覚えてもらっていないようなので、男は静かに念を押す。
エルウイはかつての人脳器との激闘でトレンに怪我をさせてしまったので、今日はその見舞いに来たのだ。
縁側に座るトレンと、その横の壁によりかかり、静かに腕を組むエルウイ。
しばらくの沈黙の後、エルウイは無骨な傭兵に向けて、
「たいした怪我じゃなくてよかった」
労いの言葉をかける。
「へっ」
うれしいのかトレンはエルウイに表情を見られないように顔を下に向け、不器用に照れ笑いをする。しかし、すぐに照れている自分を誤魔化すように、平静を装う。
「仕事の怪我だ。気にすんな」
トレンはぶっきらぼうにそう吐き捨てると、ふと、胸の奥で燻っていた疑問を思い出した。
「なあ、エルウイよぉ」
トレンは初めてエルウイの名を呼んだ。エルウイは表情を変えず、トレンの方を向く。
「怪物どうなったんだ?」
そういえばトレンはアズキのことを知らない。あれがどのような存在なのか、あの死闘がどう結末を迎えたのか、何も聞かされていないのだ。任務の機密情報なので言うことでもないかと思い、エルウイは言葉を選ぶ。
「リオの放った毒矢で倒した。リオの援護ご苦労だった」
エルウイは、あえて別の真相を話す。それを聞いた瞬間、トレンは重大なことに気付かされ、驚きと悔しさで顔を歪める。
「俺のトドメじゃなかったのかよ」
トレンと別れた後、エルウイがリオと酒場で密会していたことも、今のトレンは知らない。あの時、酒場でリオは不敵に笑いながら「傷口に撃てばいいのだろ?」と言っていた。すべては、あの怪物に引導を渡すために仕組まれていたことだったのだ。
「出発の前日に用意しておいたんだ」
エルウイは、自分がその毒矢をあらかじめリオに渡していたのだという事実を、トレンに静かに伝えた。
トレンは、手柄をかっさらっていった相棒の顔を思い浮かべ、不満そうに呟く。
「にゃろーめ、あいつ一言も言わなかったぞ」
リオは俺の出番と散々アピールしてたような気がするが、とエルウイが思慮している横で、リオは完全に気配を消しながら二人の背後に近付き、
「トレン♪」
いきなり後ろからトレンの首に肘をかける。
あの軽薄で調子の良い狙撃手は、ニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべながら言った。
「パトロールのコンビがいないんだ。いっしょに来てくれ」
リオはトレンの耳元で囁く。しかし、今日は非番だ。昨日は飲み会で二日酔いだ。せっかくの休みの眠りをこれ以上邪魔されてたまるかと言わんばかりに、
「断る」
トレンはリオを睨みつけきっぱり言った。




