14 アシ牧場
数日後の朝。
神の秩序たる「緑の空」が、夜の帳を明けたばかりの柔らかな光に満たされていく。
シエンは、短い草の絨毯が広がるなだらかな丘の上で、野宿の眠りから覚めた。身を包んでいた簡易毛布をそっと押し退け、冷ややかな朝露をはらんだ風を胸いっぱいに吸い込む。朝日の薄金の光が、彼の黄色いニット帽と防塵眼鏡を優しく照らした。
愛用のアシに跨がり、再び目的地を目指して広大な丘を歩み始める。果てしなく続く緑と砂の境界線を眺めながら、シエンはふと、握るハンドルに視線を落とした。
「なあ…エルウイの積み荷って何だろーな」
広大な丘にシエンが一人、答えは帰ってこないのにアシにしゃべりかけた。
ただ風の音だけが吹き抜ける静寂の中、相棒のアシはのんびりとあくびで返す。緊張感のないその仕草に、シエンは苦笑交じりに声を尖らせた。
「あくびすんなよ」
一人と一羽の影は、朝日に引き延ばされながら、ゆるやかに丘の向こうへと消えていった。
◇
場所は変わり、ここは牧場。
遮るもののない大空の下、複数のアシがのびのびと放牧されている。
普段、旅や戦闘で身につけるスクーターのような金属質の装甲はすべて取り外され、その素肌が剥き出しになっていた。中身は黒い体毛に覆われて、クチバシと二本の脚が出ている。その野性味を残した奇妙な生物たちの群れの中に、ぽつんと草原に座る一人の少女がいた。
少女は、丘の上で一定のリズムを刻みながら回り続ける発電用の風車を眺めていた。大きな羽根が風を切り裂く様を、その瞳に映している。
ふと、少女は立ち上がり、首に下げたホーンを鳴らした。
甲高い音が静かな牧場に響き渡る。畜舎に戻る時間だ。その合図を理解しているアシたちは、少女の後に従うようにぞろぞろと動き出す。少女は従順なアシを引き連れて、草の香りが残る小道を歩いて畜舎に戻った。
薄暗い畜舎の中、外の暑さから逃れたアシたちは、思い思いに水を飲んだりくつろいだりしている。
少女は小さな両手で木製の箒を握り、床を清掃している。決して手慣れた様子ではない。この家の主がしていたのを見よう見まねで覚えた、拙くも懸命な動作だった。
「アズキ」
不意に、家主の男が呼びかける。
少女――アズキは振り向くと畜舎の出入り口で家主の男がいた。
その脇には、カゴにみずみずしい果物をたんまり乗せたアシが、誇らしげに佇んでいる。
家主の男は手招きし、柔和な表情を見せた。
「好きなだけ食え」
「えへっ」
アズキは無邪気な笑顔で答えた。
彼女は畜舎の隔離柵の上のパイプにちょこんと座り、もらった果実を両手で大事そうに抱えながら頬張る。
パチンと果皮が弾け、爽やかなフルーツの香りがたちまち畜舎の空気に広がった。その甘い匂いに釣られて、一頭のアシがぬうっと横から近づいてくる。アシは丸い瞳を輝かせ、アズキの小脇にかかえている果実を狙ってきた。
「やー」
アズキは独り占めにしたかったので、下あごに膝蹴りをする。
小さな足から放たれた容赦のない一撃。不意を突かれたアシは、ムッとして一旦、水飲み桶で水を飲んだふりをしてアズキを油断させた。
アズキがふたたび果実を口に運ぼうとした、その一瞬の隙。
アシはゆっくりと力強い動きでアズキの身体を押して、そのままアズキを水飲み桶に落とした。
バシャアアアンッ、と激しい水しぶきがあがる。
アズキは水しぶきをあげながら、尻もちをついた。びしょ濡れだ。
頭から冷水を浴びて呆然とするアズキの視線の先で、当のアシはといえば、素知らぬ顔して、アシは奪った果実を頬張っていた。クチバシを器用に動かし、果汁を滴らせている。
その頃、畜舎の外では牧場を訪れて外を歩くエルウイの姿があった。
現地に溶け込む民間人の服装で、乾燥した土を踏みしめて歩く。
エルウイは水しぶきの音に気が付いたが、特に問題がないと思ったか、歩調を緩めることはなかった。畜舎に注意を払うこともなく、家主が住んでいる畜舎の脇にある玄関へ向かった。
家に上がったエルウイは外が見える小さな客室に案内された。
テーブルには紅茶とケーキがのっている。
辺りに漂う微かな茶葉の香りを楽しみながら、エルウイは紅茶を飲み終えるとテーブルに置いた。
静寂が満ちる室内の空気をまとわせながら、彼は家主の奥さんの方を向いて、静かに口を開いた。
「アズキを預けてもらって助かってます」
元々、少女には名がなかったのだが、不憫だったのでエルウイが名付けた。
いろいろと候補を挙げた中で、なぜか彼女がこの響きを気に入ったようだったから。
彼の心根をよく知る家主の奥さんは微笑んで返す。
「いいえ、あの子がいろいろと手伝ってくれるので、こちらが助かっているよ」
「素直な子じゃ」
家主の男は紅茶のカップを片手に持ちながら答えた。
二人の温かな言葉を聞き、エルウイは匿われたアズキがうまくいっているようだったので安心した顔をした。
だが、すぐにその表情から柔らかさが消える。彼は真剣な顔をして、本題を切り出した。
「実は一週間後くらいに旅立つ予定です」
その言葉の重みを受け止めるように、三人は窓の外を見る。
「そうか、アズキにはずっといてもらいたかったのじゃが…」
残念がる家主だったが、皇子が匿っている場所を突き止められたら大変だ。世界の秩序を揺るがす彼女の存在は、決して敵に知られてはならなかった。
窓の外の庭ではアズキが洗濯板をごしごしと濡れた服を洗っていた。
先ほどアシに落とされた水が、まだ彼女の髪を湿らせている。
ジャブジャブと音を立てて洗濯が終わり、少女は服をぎゅっと絞って脱水する。
その時、ふと、建物の中にいる気配を感じ取ってアズキは振り向いた。
「あっ」
窓の奥ではエルウイが紅茶のカップを片手にアズキを見ていた。
ガラスを隔てて重なる視線。
アズキの脳裏に、かつて人脳器が開けられて、初めて見た顔であるエルウイを思い出し、蘇る記憶の残滓。
けれど、忘却の霧のせいでうまく言葉を紡ぐことができない。アズキはこのモヤモヤを言葉にできない不満で頬をふくらませた。
静かに回り続ける丘の上の風車だけが、これからの激動を物語るように、彼女たちの姿を見下ろしていた。




