第9話「もふもふが、本気を出した」
白い光が、爆ぜた。
俺の腕の中にいたはずのハクの体が、ぐにゃりと歪み、膨張していく。
まるで、俺が――そしてアパートで待つノアが――脅かされていることに、我慢の限界を超えた、とでも言うように。守るべき家族に向けられた刃に、この小さな獣が、本気で応えようとしている。
手のひらサイズだった体が、見る間に膨れ上がる。一抱え、二抱え――やがて、路地を埋め尽くすほどの、巨躯へ。
「な……なんだ、これは!?」
ガレスの部下たちが、悲鳴を上げて後ずさった。
光が、収まる。
そこに立っていたのは、もう、あのモフモフではなかった。
全長、十メートルはあろうかという、白銀の獣。
四肢は鋼の柱のように太く、背には氷の結晶めいた鬣がたなびく。雪のように白い毛並みは健在だが、その一本一本が、今は刃のように研ぎ澄まされている。
そして、その双眸は――燃えるような、金色。
「これが……ハクの、本当の姿」
俺は、思わず呟いた。
あの卵を初めて抱え上げたときに感じた、あの「密度」。竜が一頭、折りたたまれているような――いや、違う。竜などでは、ない。
これは、ダンジョンそのものを生み出す、根源の獣。原初の獣の、真の姿だ。
「……ねえ、ボス」
いつの間に現れたのか、隣にリンが立っていた。今夜も、約束を破って、こっそり後をつけていたらしい。さすがの彼女も、その顔は、わずかに引きつっていた。
「あたし、結構な修羅場をくぐってきたつもりなんだけど。……これは、ちょっと、規格外すぎない?」
「同感だ」
「あの手のひらサイズが、これ。あなた、家で一緒に寝てるのよね、これと」
「ノアが、な」
「……あの子の心臓、強いわね」
「グルルルルル……」
ハクが、低く唸った。その振動だけで、路地の石畳が、びりびりと震える。
金色の瞳が、ぎろりと、ガレスの部下たちを睥睨した。
「ひっ……」
歴戦の特務隊員たちが、腰を抜かして、武器を取り落とす。
無理もない。これは、生き物としての「格」が、違う。格闘や剣技で抗える次元の存在ではない。目の前にいるだけで、本能が「敵う相手ではない」と、悲鳴を上げる。
◇
「ハク、待て」
俺は、巨大な獣の足元から、静かに声をかけた。
「殺すな」
ハクの耳が、ぴくりと動いた。金色の瞳が、ちらりと俺を見下ろす。
「こいつらは、命令で動いてるだけだ。本当の敵は、こいつらじゃない。――威すだけでいい。それで、十分だ」
ハクは、しばらく俺を見つめていたが、やがて、小さく喉を鳴らした。
わかった、とでも言うように。
そして、巨大な獣は、天に向かって、咆哮した。
ゴオオオオオオオオッ――!!
空気が、震えた。
咆哮は、目に見えない衝撃波となって、路地を一直線に駆け抜けた。だが、それは肉を裂き骨を砕く咆哮ではない。突き飛ばし、なぎ倒すだけの、ぎりぎりまで手加減された威圧。
特務の隊員たちが、木の葉のように吹き飛ばされ、壁に背を打ちつけ、ずるずると崩れ落ちていく。何人かは、白目を剥いて気を失った。何人かは、武器を投げ捨てて、這うように逃げ出した。
だが――一人として、命を奪われた者は、いなかった。
血の一滴も、流れていない。ただ、絶対的な力の差を、魂の奥底に刻みつけられただけだ。
俺は、内心で唸った。
これだけの力を持ちながら、加減して、誰も殺さない。それは、この獣の「気性」が、本来どれほど穏やかなものかを、物語っていた。
こんな獣を、国は、何百年も檻に閉じ込めて――搾り取り続けてきたというのか。
数秒後。
立っていたのは、ただ一人。
腰を抜かしながらも、それでも逃げずに踏みとどまった、指揮官の、ガレスだけだった。
◇
ガレスは、剣を取り落とし、呆然と、巨大な獣を見上げていた。
その顔から、血の気が、引いていた。
「これは……こんなものが……国が、隠していた、だと……?」
俺は、巨獣ハクの足元から、ガレスに歩み寄った。
「見ただろう、ガレス。これが、お前たちが『資源』と呼んでいたものの、正体だ」
「資源……? いや、これは、生き物じゃ……」
「そうだ。生きてる。心も、ある。そして、国は何百年も、こいつを――こいつの仲間を、檻に閉じ込めて、生かさず殺さず、魔力だけを搾取し続けてきた。お前が今、回収しようとしてたのは、そういう『命』だ」
ガレスの体が、震えていた。
今度は、剣を握る手の震えではない。もっと根本的な、十年間信じてきたものが、足元から崩れ落ちていく――そんな、震えだった。
「嘘だ……国が、そんな、むごいことを……あり得ない。俺たちは、人々のために、資源を……」
「その資源が、どこから来てるか、考えたことは?」
俺の問いに、ガレスは、言葉を失った。
「ダンジョンに潜れば、いくらでも魔石が手に入る。モンスターを狩れば、素材が剥げる。当たり前のように、そう思ってきただろう。だが、その『当たり前』が、どこから湧いてくるのか――誰も、問わなかった。問わせないように、国が仕向けてきたからだ」
「……っ」
「答えが、これだ。お前の目の前にいる、この獣の苦しみが、お前たちの『豊かさ』の正体だよ」
ガレスは、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。
信じてきた正義の、裏側。それを、これ以上ないほど残酷な形で、突きつけられて。
「信じたくないなら、信じなくていい。だが、お前は今、自分の目で見た。お前が守ってきた国が、何を隠してきたのか。その『答え』を、な」
俺は、ハクの巨大な前足に、そっと手を置いた。
巨獣は、まるで子供のように、その手に、頭をすり寄せてきた。さっきまでの威容が嘘のような、甘えた仕草で。
「こいつは、ハクだ。俺たちの、家族だ。資源でも、実験体でも、ない。――それを忘れるな、ガレス」
「……ヴェルダン監察卿は」
ガレスが、絞り出すように言った。
「監察卿は、これを……この『真実』を、知った上で、回収しろと?」
「ああ。あの男は、何もかも知ってる。知った上で、隠し、利用し、邪魔者を消す。十年前の俺も、今日のお前も、あの男にとっては、秘密を守るための駒に過ぎない」
ガレスは、奥歯を噛みしめた。自分が、誰の手駒として動かされていたのか。その重さに、耐えるように。
◇
その時、異変が起きた。
巨獣ハクの体が、ふいに、ぐらりと傾いだ。
「グ、ル……」
「ハク!?」
白銀の体が、急速に光を失い、しぼんでいく。十メートルの巨躯が、みるみる縮み――やがて、元の、手のひらサイズのモフモフに戻った。
ぽふん、と地面に転がったハクを、俺は慌てて抱き上げる。
「きゅぅ……」
ハクは、ぐったりと、俺の腕の中で目を閉じていた。荒い息。あの姿を保つのは、まだ幼いこの体には、相当な負担だったらしい。
「……無理を、させたな」
俺は、小さな体を、そっと撫でた。
切り札ではある。だが、無尽蔵じゃない。この力は、本当に守りたいものがあるときの、最後の一手だ。
そして、俺は、ガレスを振り返った。
「行け、ガレス。今日見たものを、どう受け止めるかは、お前次第だ」
ガレスは、長い間、立ち尽くしていた。
気を失った部下たちと、俺の腕の中の小さなモフモフを、交互に見つめて。
やがて、彼は、何も言わずに、ただ一度だけ、深く頷いた。
そして、部下たちを担ぎ、闇の中へと消えていった。
その背中は、来たときよりも、ずっと、迷っているように見えた。
――いや。迷いを、抜けかけているのかも、しれない。
ガレスの足音が完全に消えると、リンが、ふう、と長い息を吐いた。
「行っちゃったわね、あの真面目くん。……ねえ、ボス。あいつ、見逃してよかったの? あれだけのものを見られたのよ。国に報告されたら、終わりじゃない」
「報告は、しないさ」
「どうして言い切れるの」
「できないんだよ、あいつには。『原初の獣を見ました、しかも逃しました』なんて報告を上げたら、ガレス自身が消される番だ。ヴェルダンは、秘密を見た人間を生かしておかない。俺がそうだったように、な」
「……なるほど。あいつは、見たことで、こっち側に片足を突っ込んだわけね」
「ああ。あいつはもう、国を百パーセント信じる場所には、戻れない」
リンは、感心したように、肩をすくめた。
「こわい人。敵を、追い詰めるんじゃなくて……『戻れなくする』のね」
「とんでもないものを、家族にしちゃったわね。あたしたち」
リンは、話を変えるように、俺の腕の中で眠るハクを覗き込んだ。
「ああ。だが――」
俺は、腕の中で眠るハクを見下ろした。
「家族ってのは、選んで増やすもんじゃない。気づいたら、そこにいるもんだ。ノアも、こいつも……お前も、な」
リンが、一瞬、虚を突かれたような顔をした。
それから、ふっと、今まで見せたことのない、無防備な笑みを浮かべた。
「……ずるい人。そういうことを、さらっと言うんだから」
その横顔が、いつもの底の見えない仮面ではなく、ただの一人の女のものに見えて。
俺は、なぜだか、目をそらしてしまった。
夜風が、路地を吹き抜けていく。
俺の腕の中で、原初の獣の幼体は、家族の温もりに包まれて、安らかに眠っていた。
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<あとがき>
第9話を読んでくださって、ありがとうございます!
ついに、ハクが本気を出しました! 手のひらサイズのもふもふが、全長十メートルの白銀の獣へ。それでいて、誰一人殺さず、威圧だけで制圧する――原初の獣の「格の違い」を感じていただけたら嬉しいです。そして戦いの後、元のちびっこに戻ってぐったりするハク。可愛さも、忘れていません。
ガレスは、国が隠していたものの正体を、その目で見てしまいました。彼の「迷い」は、いよいよ核心へ。そしてリンの、最後の無防備な笑顔も……ヴァンとの関係に、少し変化が?
次回は、この騒動を受けて、ヴェルダンがついに本格的に動き出します。そして、ザイルが約束した「物証」とは――。
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それでは、次話「監察卿が、自ら動く」でまたお会いしましょう!
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