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第10話「監察卿が、自ら動く」

 国家管理局、最上階。

 分厚い絨毯が足音を吸い込む、静謐な執務室。その窓辺に、一人の男が立っていた。


 ヴェルダン監察卿。

 年の頃は六十手前。白髪を隙なく撫でつけ、仕立ての良い礼服に身を包んでいる。一見すれば、温厚な老紳士。だが、その瞳には、温度がなかった。

 人を、駒としてしか見ない男の目だ。


「特務隊が、全滅。一人の死者も出さずに、無力化された、と」


 ヴェルダンは、部下の報告を聞きながら、窓の外を眺めていた。眼下には、国の繁栄を象徴する、煌びやかな都市の灯り。声に、怒りはない。あるのは、純粋な「興味」だけだった。


「面白い。殺せたはずなのに、殺さなかった。三十人の特務を制圧しておいて、誰も殺さない。つまり、あの『獣』を操る者には、力の余裕がある。……それとも、何か、別の意図か。自分は無闇に殺す側ではない、とでも示したかったのかな」


 ヴェルダンは、ティーカップを口に運んだ。優雅な手つき。まるで、午後のお茶でも楽しむように、部下の死を語る。


「報告では、その獣、巨大化したそうだね。白銀の。……ふむ。やはり、間違いない。あれは、外に出してはならないものだ」


 彼は、机の引き出しから、一枚の古い写真を取り出した。

 十年前の、ある探索者の写真。誇らしげに勲章を授けられている、若き日の――ヴァンだ。


「やはり、君か。ヴァン君。生きていたとはね。あの崩落から、よくぞ」


 ヴェルダンの口元に、ぞっとするほど穏やかな微笑みが浮かんだ。

 旧友を懐かしむような、慈愛すら感じさせる笑み。だが、その目だけは、氷のように冷えきっていた。


「十年前、君を『処理』したのは、正しい判断だった。私は今でも、そう確信している。君は、優秀すぎたのだよ。優秀な人間は、与えられた仕事だけをこなさない。見てはいけないものを見て、考えてはいけないことを考え、そして――守るべき秩序を、揺るがそうとする」


 彼は、写真の中のヴァンを、指の腹で、そっと撫でた。


「国家とは、巨大な機械だ。一つ一つの歯車が、決められた役割を、黙々とこなす。それで、すべてが回る。なのに君は、自分が歯車であることに、耐えられなかった。歯車のくせに、機械全体を、見ようとした。……それは、罪だよ、ヴァン君」


 彼は、写真を、静かに机に置いた。


「だが、今回は少々、厄介だ。君は『原初の獣』を、手にしてしまった。あれだけは、絶対に、表に出してはならない。あれが何であるか、民が知れば――この国という機械は、根幹から、止まってしまう」


 ヴェルダンは、ベルを鳴らした。音もなく、影のような部下が現れる。


「調べはついている。死んだはずの君の周りには、守るべきものが、ずいぶんと増えたようだね。子供が一人。素性の知れない女が一人。そして――かつての君を知る、老いぼれが一人」


 その言葉に、控えていた部下が、わずかに身じろぎした。


「『ザイル』。あの臆病者が、まだ生きて、舌を動かしているとはね。十年前、実験施設から逃げ出した、裏切り者だ。彼は、知りすぎている。君に、余計なことを吹き込む前に――まずは、そこから片付けよう」


 ヴェルダンの声は、最後まで、穏やかだった。

 人を一人、この世から消すことを決めるのに、眉の一つも、動かさずに。


「ああ、それと。その『始末』は、ガレス君には伏せておきなさい。あの子は最近、少し……感傷的だ。使い物にならなくなる前に、見極めなければ」


  ◇


 その頃、俺は。


 ザイルの店へと、急いでいた。

 ハクの正体を知った夜から、数日。約束していた「物証」を受け取るためだ。


 だが、店の前まで来て、俺は、足を止めた。


 ……空気が、違う。

 店の扉が、わずかに開いている。中から漏れる、かすかな血の匂い。

 俺は、リンとハルに目配せをし、慎重に中へ踏み込んだ。


「ザイル!」


 店の奥。古文書の山に埋もれるように、老人が、倒れていた。

 脇腹を、深く刺されている。一目で、助からないとわかる傷だった。


「……来た、か。死人、さん」


 ザイルが、掠れた声で、笑った。


「やられたよ。監察卿の、使いだ。儂が、お前さんに『何か』を渡すと、読んでいた。……あの男は、いつも、一手も二手も、先を読む」


「喋るな。今、手当てを――」


「無駄だ。儂の体は、儂が一番、わかっとる。……お前さんも、わかっとるだろう。数字を読む男なら」


 その通りだった。この出血量、傷の位置。どんな治療を施しても、もう間に合わない。俺の頭の中の冷徹な計算が、それを告げていた。

 だが、それでも、認めたくなかった。


 ザイルは、震える手で、俺の袖を掴んだ。驚くほど、強い力で。


「聞け、死人さん。物証は……渡せなかった。すまん。奴らに、奪われた。儂が、隠し場所を吐く前に、口を割らせる暇も惜しんで、刺しおった。……あの男の使いは、徹底しとる」


「ザイル……」


「だが――一つだけ。一つだけ、奴らにも奪えなかったものが、ある。儂の、頭の中の記憶だ」


 老人の目が、最後の力を振り絞るように、見開かれた。


「十年前の、お前さんの事件。あれはな……ただ、お前さんが秘密を見たから、消されたんじゃない」


「……どういう、ことだ」


「あの『崩落』。あれは、事故でも、お前さん一人を消すためのものでも、ない。――もっと、大きな『何か』の、隠蔽だったのだ」


 ザイルの声が、途切れ途切れになる。


「一つの、都市が……まるごと、消し飛ぶほどの……大事故の、な」


 俺は、息を呑んだ。

 都市が、消し飛ぶ。そんな災害、記録にも、記憶にもない。聞いたことすら、ない。


「な……何の、話だ。そんな大事故が起きてたなら、国じゅうが大騒ぎになってるはずだ」


「だから、隠蔽されたのだと言っとる」


 ザイルは、血を吐きながら、それでも、伝えようとした。


「原初の獣の、実験。あれが、暴走した。一度だけ、制御を失ってな……結果、一つの都市が、住民ごと、地図から消えた。国は、それを『なかったこと』にした。お前さんの事件は、その、もっと大きな嘘を覆い隠すための……ほんの、外側の、蓋に過ぎん」


 ザイルの手から、力が抜けていく。


「すまない……儂が、知っていたのは、ここまでだ。消えた都市の、名は……『エル』……あとは……お前さんが、その目で……」


 言葉は、最後まで、続かなかった。

 老いた研究者は、十年越しの罪を、俺に託すように――静かに、息を引き取った。


  ◇


 ザイルを、静かに看取った後。

 店の中には、重い沈黙が、満ちていた。


「……一つの都市が、消し飛ぶ大事故」


 リンが、低い声で繰り返した。


「そんなもの、あたしも聞いたことがないわ。国の歴史に、そんな記録はない」


「記録がないこと自体が、答えだ」


 俺は、こぶしを握りしめた。


「国は、原初の獣の存在を隠してる。実験のことも隠してる。そしてその上に――都市一つぶんの『大事故』まで、なかったことにしてる。十年前の俺の事件は、その、いくつもの嘘の、一番外側の蓋でしかなかった」


 ハルが、青ざめた顔で言った。


「ボス……それ、相手が、デカすぎませんか。国の、最高幹部が、何百年もかけて隠してきた秘密、ですよ」


「ああ。デカいさ。デカすぎる」


 俺は、ザイルの亡骸に、そっと布をかけた。


「だが、デカい嘘ほど、暴かれたときの衝撃もデカい。ヴェルダンが、こんな老人一人を消すために、わざわざ自ら動いた。それは、奴が『焦ってる』証拠だ。俺たちは、確実に、核心に近づいてる」


「ボス……」


「ザイルは、命がけで、最後の手がかりを残してくれた。無駄にはしない」


 俺は、立ち上がった。

 胸の中に、静かな怒りが、燃えていた。十年前に俺を消した男。罪悪感もなく、人を駒として消していく男。

 その顔を、まだ俺は、知らない。だが――。


「ヴェルダン。次は、お前の番だ」


 その夜、アパートに帰ると、ノアが、また、眠れずに俺を待っていた。

 その腕の中で、ハクが、低く、唸っている。いつもの甘えた声ではない。何かを警戒する、張り詰めた響きだった。


「ボス……あのね。今日、こわい夢を見たの」


 ノアの声は、震えていた。俺は、そっとその隣に腰を下ろす。


「白髪の、おじいさんが……いっぱいの人を、檻に入れて、笑ってるの。すごく、やさしい顔で笑ってるのに……目だけが、ぜんぜん笑ってないの。こわかった」


 俺は、息を呑んだ。

 白髪の、老人。やさしい顔と、笑っていない目。

 会ったこともないはずのヴェルダンの姿を――その本質までも、ノアは、夢に見ている。


「大丈夫だ、ノア。怖い夢は、俺が追い払ってやる」


 俺は、ノアの頭を撫でた。だが、内心では、別のことを考えていた。

 この子の夢は、ただの予知ではない。人の「本質」まで、見抜いている。それは、いったい、何を意味するのか。


 ハクの金色の瞳が、暗闇の中で、静かに、燃えていた。

 まるで、これから始まる戦いの深さを、誰よりも知っているかのように。


-----


<あとがき>


第10話を読んでくださって、ありがとうございます!


ついに姿を現した、真の敵・ヴェルダン監察卿。暴力的な悪ではなく、人を駒としか見ない、冷徹で穏やかな「官僚の怖さ」を出してみました。熱いガレスとの対比も感じていただけたら。


そして、命がけで手がかりを残したザイル。彼が遺した「都市一つが消し飛ぶ大事故の隠蔽」――物語の最も深い謎が、ついに顔を出しました。ヴァンの事件すら、その「蓋」に過ぎなかった。スケールが、一気に跳ね上がります。


ノアの夢も、ついにヴェルダンを捉え始めました。彼女の力の意味も、これから明らかに。次回、ヴァンたちの反撃が始まります。




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それでは、次話「消えた都市の、消えた記録」でまたお会いしましょう!


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