第16話「歯車の、終わり」
赤い宝珠が、ヴェルダンの手の中で、砕けた。
その瞬間、荒野の地面が、裂けた。
十年前、エルを呑み込んだ淀んだ魔力が、赤黒い間欠泉となって、地の底から噴き上がる。大地が揺れ、灰色の砂塵が、天高く舞い上がった。その奔流が、ヴェルダンの体へと、津波のように殺到していく。
「これが、原初の獣の、力の残り香だ! 十年前、この地に染み込んだ、莫大な魔力! 私は、これを浴び、この地の主となる!」
ヴェルダンの体が、膨れ上がった。
骨が軋み、肉が裂け、再生し、肥大する。白髪の老紳士だったものは、見る間に、三階建ての家屋ほどもある、赤黒い異形へと変貌していった。四本の腕。背を裂いて生えた、骨質の翼。その全身から、瘴気が、湯気のように立ち上っている。
「ガアアアアアアアッ!!」
咆哮が、衝撃波となって、荒野を薙いだ。
俺は、とっさに腕で顔をかばう。それでも、突風に煽られ、足が、地面を滑った。背後の岩が、声の振動だけで、砕け散る。
――でかい。そして、速い。
異形のヴェルダンが、四本の腕を振り上げ、俺めがけて、振り下ろした。
一撃が、大地を抉る。土砂が爆ぜ、衝撃が、足の裏から脳天まで突き抜けた。俺は、横へ跳んだ。だが、二の腕、三の腕が、間髪入れず、追撃してくる。避ける。避ける。避けきれず、三発目の風圧が、肩を掠めた。それだけで、肉が裂け、血が、宙に散る。
「ぐ……っ」
「どうした、ヴァン君! 力の差を、思い知ったか!」
まずい。
今の俺に、あの巨体と正面から打ち合う力はない。全盛期なら、真っ向から斬り伏せられただろう。だが、その力は、十年前に、失った。
ならば――読むしかない。いつものように。
俺は、退きながら、異形の動きを、観察した。
四本の腕。それぞれの、振りの速度。瘴気の、噴き出す間隔。翼の、はばたく周期。乱打されているように見える攻撃にも、必ず、リズムがある。それを、頭の中で、数字に変えていく。
だが、まだ足りない。一人では、あの巨体に、刃を届かせる隙を、作れない。
「ハク!」
俺は、叫んだ。
「やれるか!」
「きゅうっ!!」
応えと同時に、白銀の光が、爆ぜた。
手のひらサイズだったハクが、一瞬で、全長十メートルの白銀の獣へと、膨れ上がる。だが、今度のハクは、ただ巨大なだけじゃなかった。その全身の毛が、一本残らず、銀色の刃のように、逆立っている。守るためではなく――戦うために、研ぎ澄まされた姿だった。
「グルルルルルッ!」
二頭の巨獣が、灰色の荒野で、激突した。
◇
ハクが、地を蹴る。十メートルの巨体が、矢のように跳んだ。
その牙が、異形の一の腕に、食らいつく。骨の砕ける、鈍い音。異形が、絶叫した。だが、残る三本の腕が、ハクの脇腹を、強かに打ち据える。
「キャゥッ!」
ハクが、横ざまに吹き飛び、大地を、抉りながら、転がった。砂煙が、舞い上がる。
「ハク!」
「きゅるるるる……!」
すぐに、立ち上がった。脇腹の銀の毛が、いくらか、抜け落ち、血が滲んでいる。だが、その金色の瞳は、闘志に、爛々と燃えていた。
ハクが、天を仰ぎ、咆哮する。その大きく開いた口腔に、白銀の光が、渦を巻いて収束していく。次の瞬間、放たれたのは、極太の、光の奔流――原初の獣の、魔力の砲撃。
異形のヴェルダンが、四本の腕を交差させ、防いだ。
光と瘴気が、真っ向から激突し、荒野に、目も眩む閃光が満ちる。衝撃で、半径数十メートルの砂塵が、円を描いて、吹き飛んだ。大地が、鳴動する。
拮抗。
だが、わずかに、異形の方が、押していた。この地の淀んだ魔力を、吸い続けているからだ。時間が経てば経つほど、ヴェルダンは、強くなる。
「ぐ、ぬ……効かんなあ! その程度の力では! この地のすべてが、今や、私の味方だ!」
異形が、押し返す。ハクの光の砲撃が、徐々に、押し戻されていく。
ハクの四肢が、地面に、めり込む。歯を食いしばり、それでも、踏みとどまろうとする。だが――限界が、近い。
「キャ……ゥ……!」
「ハク、もういい! 無理を、するな!」
長期戦は、こっちが不利だ。ハクの体力が、削られ続けている。このままでは、押し負ける。
ならば――決着は、一瞬で、つけるしかない。
俺の頭の中で、これまで観察してきた、すべての数字が、一つの「解」を、導き出していた。
◇
「ハク! 聞け!」
俺は、駆けながら、叫んだ。
ハクの光が、異形のすべての注意を、引きつけている。その隙に、俺は低く、地を這うように、異形の死角――その足元へと、回り込んでいく。
「あと一回だけ、ありったけの力で、撃て! 押し込め! ほんの、数秒でいい!」
「きゅ……う……きゅううううっ!!」
ハクが、残された力を、すべて、振り絞った。
光の砲撃の出力が、跳ね上がる。白銀の光が、二回り、太くなった。
異形のヴェルダンが、それを防ごうと、四本すべての腕を、前へと突き出す。
その瞬間――胴体が、がら空きに、なった。
四本の腕が、すべて防御に回り、瘴気の噴出が、攻撃から防御へと切り替わる、コンマ数秒の、空白。力の、息継ぎ。
そこに、俺は、いた。
数えていた。異形の瘴気の噴出周期。攻撃の手数の合間。翼のはばたきが生む、体勢の揺らぎ。それらすべてが、たった一度だけ、重なる、この一瞬を。
「言っただろう、ヴェルダン」
俺は、跳んだ。
「どんなに巨大な力にも――無防備になる、一瞬がある」
全盛期の膂力は、ない。だが、いらない。
必要なのは、たった一点を、寸分違わず貫く、正確さだけだ。十年間、数字を読み続けてきた、この一突きに、すべてを懸ける。
俺の刃が、異形の胴の、ただ一点――肥大し、剥き出しになった、魔力の核へと、吸い込まれるように、突き立った。
「が……ぐ、あああああああっ!?」
核を、貫かれた異形が、内側から、崩壊を始めた。
膨れ上がった肉が、赤黒い魔力ごと、急速に、しぼんでいく。骨の翼が、砕け、四本の腕が、崩れ落ちる。荒野に吸われていた淀んだ魔力が、行き場を失い、悲鳴のような音を立てて、霧散していった。
やがて、灰色の大地に残ったのは。
膝をつき、肩で荒く息をする、ただの、白髪の老人だけだった。
◇
俺の傍らに、巨体を引きずるようにして、ハクが、寄り添ってきた。
その体は、傷だらけだった。銀の毛は乱れ、あちこちから血が滲んでいる。だが、勝った。こいつが、最後まで、戦い抜いてくれたから。
「よくやった、ハク。お前のおかげだ」
「きゅぅ……」
ハクは、満足げに鳴くと、光に包まれ、元の、手のひらサイズに戻った。よほど、力を使い果たしたのだろう。俺の腕の中に、ぽとんと、落ちてくる。俺は、それを、しっかりと受け止めた。
俺は、膝をつくヴェルダンの前へ、歩み寄った。
「……なぜ、だ」
ヴェルダンが、掠れた声で、呟いた。
「なぜ、私が、負ける。私は、国家のために、すべてを捧げてきた。感傷を捨て、非情に徹し、最も合理的な選択を、し続けてきた。それなのに……なぜ、貴様のような、感傷家に……」
「それが、答えだよ」
俺は、静かに言った。
「お前は、一人で、戦った。あれだけの力を得てもな。誰も、お前のために、命を懸けちゃくれない。だが、俺には、ハクがいた。表では、リンが伏兵を、ハルがノアを、ガレスが増援を、引き受けてくれた。――力の差じゃない。お前が負けたのは、独りだったからだ。それが、お前と俺の、たった一つの、だが決定的な違いだよ」
ヴェルダンは、何も、言い返せなかった。
荒野に、長い、沈黙が落ちた。
「お前を、殺しはしない」
俺は、刃を、鞘に収めた。
「お前は、生きて、裁かれろ。エルで消えた、十二万人の名のもとに。お前が『コスト』と切り捨てた、一人ひとりの人生の、重さを背負ってな。それが、お前への、本当の罰だ」
その時、荒野の向こうから、複数の足音が、近づいてきた。
ガレスだった。彼が手引きした、国の良心派――ヴェルダンの暴走に、かねてから疑問を抱いていた、心ある官僚たちを、引き連れている。
「兄貴! こっちは、片付いた! そいつの身柄は、俺たちが預かる」
ガレスが、膝をつくヴェルダンを、見下ろした。かつて、絶対の権力者だった男を。
「監察卿。あんたのやってきたことは、すべて、明るみに出る。エルのことも。原初の獣のことも。俺たちが、証言する。この国を、正しい場所に、戻すために」
ヴェルダンは、もはや、抵抗しなかった。
ただ、抜け殻のように、項垂れているだけだった。何十年も、国家という機械の、最も冷たい歯車であり続けた男の、終わりだった。
◇
「ボス!」
安全圏から戻ってきたノアが、俺の胸に、飛び込んできた。
「ボス、ボス……! こわかった……でも、信じてた。ボスが、絶対、助けに来てくれるって!」
「ああ。遅くなって、すまなかったな、ノア」
俺は、その小さな体を、しっかりと、抱きしめた。
温かい。生きている。無事だ。腕の中のハクが、ノアを見て、嬉しそうに、きゅう、と鳴いた。
「ハクも! ハクも、いっぱい、頑張ったんだね……! ありがとう、ありがとう……!」
ノアが、傷ついたハクを、そっと抱き上げ、ぼろぼろと、涙をこぼした。ハクは、その頬を、ぺろりと舐めて、慰めるように、目を細めた。
リンが、ハルが、ガレスが、俺たちの周りに、集まってくる。
十年前、すべてが終わった、灰色の荒野に。
今は、確かに、温かいものが、満ちていた。
「終わった、のね」
リンが、ぽつりと、言った。
「いや」
俺は、首を振った。
「一つの、区切りがついた。それだけだ。ヴェルダンは、終わった。だが、国の膿は、まだ、すべて出しきれちゃいない。原初の獣の檻に、囚われたままの仲間が、まだ、いるかもしれない。やることは、山積みだ」
俺は、空を、見上げた。
いつの間にか、荒野を覆っていた淀んだ魔力が薄れ、十年ぶりに、澄んだ青空が、覗いていた。
「だが――今日だけは、いい。今日は、家族が、全員、無事だった。それで、十分だ」
灰色の大地に、風が、吹き抜けていく。
その風は、もう、痺れるような毒を、含んでいなかった。
ただ、優しく、俺たちの頬を、撫でていった。
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<あとがき>
第16話を読んでくださって、ありがとうございます!
ついに、ヴェルダンとの決着。今回は、ヴァンとハクの連携戦を、迫力重視で描きました。圧倒的な力を得て異形と化したヴェルダンに、まずヴァンは追い詰められる。そこへハクが本気の戦闘形態で参戦し、巨獣同士が激突する。ハクが注意を引きつけ、その隙にヴァンが「力の息継ぎ」を突く――二人の連携で、格上の敵を仕留めました。
勝敗を分けたのは、やはり「独りか、家族がいるか」。あれだけの力を得てなお、ヴェルダンは独りでした。ヴァンには、ハクが、仲間がいた。この物語のテーマが、最後の戦いそのものを決めた――そんな決着にしたつもりです。
物語は、大きな一区切り。ですが、ヴァンの戦いは、まだ続きます。
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