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アマデウスの力学  作者: 芦野里実


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01 悲しい匂い


【レオポルト・モーツァルト『ヴォルフガングのための音楽帳 ブーレ(ホ短調)』の演奏をかけてお読みください】





ヴァイオリン、クラーヴィア、歌い上げる愉快な声。


ザルツブルクのモーツァルト一家の住む部屋からは、

いつも誰かしらの奏でる音楽と、

平民らしく大きな声の、明け透けな家族のやりとりが聞こえてきて、


この街に住む人々は、貴族でなくても、

モーツァルト一家の家の近くを通れば、

ほんのり旋律を楽しめる瞬間が1日に何度もあった。



今日も、ナンネルが、練習曲を弾いている。

父レオポルトが子供の楽器の上達のために作曲した、小さな小さな音楽だ。


ザルツァハ川の近い市街地で、爽やかな風が通りぬける明るい部屋。

風に乗って、音楽が街中に響く時もあるので、

この部屋から音楽が聞こえていることを街のみんなは知っていた。


朝は、二日酔いが抜けないおじさんたちが、

気持ちいい風を受けながらモーツァルト親子の曲を聴こうと

アパートの下で溜まっていたりで、

そんなだらしない酔っ払いたちは

父レオポルトがシュラッテンバッハ大司教の元へ出勤する時に、

しっしと撒いて退散させられたり、


夕方には、茜泣きする赤子を抱いたお母さんたちが、

子が泣き止むように、ナンネルの弾くクラーヴィアの可愛い演奏の

おこぼれをもらいに来たりしていた。



今日は、ザルツブルクに午前中、冷たい雨が降って、

ナンネルは悲しい匂いを持っていた。

鼻の奥がツンとするのだ。


なので、珍しく、短調の曲を弾いていた。

父レオポルトが作った、クラーヴィアの練習曲を。


短い曲だが、音が響きだすとすぐに、

台所のママのそばにいるヴォルフィが慌てて

ナンネルのいる部屋へ飛び込んできた。


「おねえちゃん!おねえちゃん!

ナンネル!ねえ、ねえ!

やめて!やめてよぉー」


ヴォルフィは、椅子に座ってクラーヴィアを弾く姉ナンネルの足に抱きついて

しがみついて、

その場にうずくまった。


「ヴォルフィ、どうしたのよ、弾けないわ」


「その曲いやなの!

ぼく、いやってまえにも、いったでしょ!」


そう、2歳になる弟ヴォルフィは、

なぜかこの曲を弾くと、表情を歪め、

ナンネルを拘束してるつもりで抱きついて拒否してくるのだが、

ナンネルは、そんなぷくぷくの弟が密着してくるのが可愛くて、

つい、意地悪をしてこの曲を弾いてしまう。

特に、今日みたいに、雨の名残で肌寒い日には。


乳臭い弟のあったかい体温が、この何処か悲しい冷たい気持ちを溶かしてくれる気がするからだ。



ナンネルには、ヴォルフィ以外にも、弟と妹がいた。

ヴォルフィほど健康にぷくぷくと育つ前に、

意思を喋り出す前に、死んでしまった。


なので、ナンネルは、おしゃべりできるくらい成長したこの弟ヴォルフガングが

表情をコロコロ変えるのが、可愛くて可愛くて、

意地悪できることすらも、嬉しくて心が温かかった。



「ヴォルフィ、なんで嫌なの?

これだって、大司教様に仕える、お父さんが作った曲よ。

私がクラーヴィアが上手になるための曲なのよ」


弟は、頑なに聞かない。


「でも、いやなの!ほかの曲にして!」


まだ舌っ足らずで呂律が回らない弟が、イヤイヤ半泣きしそうな顔が可愛い。

どれ、もう少し意地悪してみようか。


ナンネル「なんで嫌なのか、ちゃんとおねえちゃんに言ってみてちょうだい」


ヴォルフィ「だって、だって、

その曲、おむねもおなかもせなかも、かなしいんだもの。

かなしくて、からだがつめたくて、

お、お、、」


ナンネル「お?」

ヴォルフィ「おしっこにいきたくなっちゃうんだもの!」

うわぁーーーん、と泣き出す弟。


しがみついてくる弟のほうから、生温かい湿り気がスカートに広がる感覚に、

ナンネルの血の気が引き、

密着してる弟を引き剥がし、抱き上げて確認すると、

天井へ向かって叫んだ。


「ママーー!!ママ大変ー!!」


家事を手放した母アンナマリアが駆けつける。


「どうしたんだい??」


「ヴォルフィが、、おしっこ漏らした!!」


「なんだってー??!」


ヴォルフィはお漏らししながら大泣きしている。


母は、ため息をついて、ナンネルのお尻をペチンペチンとと叩く。


「ナンネルお前、またヴォルフィをいじめてたろう?

その曲が聞こえてたから、ママはわかっているよ!」


「だって…ヴォルフィの泣く前が、可愛いんだもの…」


「可愛くても!

おしっこ漏らす前にやめておくれよ。

この子はおしっこ漏らすほどその曲が怖いんだから」


アンナマリアは、慣れた手つきでヴォルフィが下に履いてるものをつるんと脱がすと、

大泣きが収まってきた。


ナンネルも、もらい事故で濡れたスカートを脱ぎながら疑問に思う。


「でもさママ、ほんとうにふしぎね。

なんでこの曲がそんなに怖いのかしら。

ねえママ、ヴォルフィの前に死んじゃった赤ちゃんたちが、

いなくなっちゃった時に似てるのよ、この曲…


鼻の奥がツンとするの…

ふつうのことよ…」


母は、手を止め、自分もさよならをした子供達を思い出す。

ナンネルは知らないが、彼女には、姉も兄もいたのだ。


ナンネルの言う2人の子が亡くなったのは、

まるで示し合わせたみたいに、

今日みたいにザルツブルクに午前中に冷たい雨が降った日だった。


「ナンネル…、ママもわかるよ、

ママは楽器を弾けないけれど、あの日のツンとした感じは。


パパはあの日の感じを曲にしたのかねぇ」


モーツァルト一家でも、3人だけが、わかる感覚なのだ。


「ママぁー」

アンナマリアは、下着は変えたが、まだむずがっているヴォルフィを抱き上げる。

ヴォルフィは母の首に抱きつく。

母は子の尻を抱えて揺らしてあやす。



「ヴォルフィは、知らないからね。

寂しい感じが続くのをさ。」


そう、今のモーツァルト一家は、

音楽が日常にあって、

ヴォルフィも、ナンネルの練習中の楽しい演奏のリズムで育ったので、

パパと姉の演奏を聞くのが大好きで、

今は、とびきり楽しい一家なのだ。


「ヴォルフィは、まだまだ、知らなくていいよ。

知らないでいいように、パパもママも、ずっといるからね。」




ナンネルは、この曲をヴォルフィが一緒の時に弾くのをやめた。


でも、午前中に雨が降った日は、

鼻の奥がツンとして、悲しい匂いがして

どうしても、もういないあの子たちに会いたくなるので、


自分の頭の中だけで、この曲を弾いた。






父レオポルトの作った練習曲を聴くと、彼の作曲の才能もすごいなあ、って感じます。

可愛いのに感情が凝縮されている感じがして、

娘と息子が練習する、この練習曲ブーレホ短調には、

他の亡くなった幼い子供達への愛しい気持ちも入っているんだろうなぁと。


ヴォルフィが、自分の心身で、本当の悲しみを知った日には、短調を受け止められるのでしょうね。


モーツァルトをお好きな方なら、

モーツァルトがのちに作る短調ってあの曲やん、って

もう分かってますね。(K304…)


モーツァルトはあの時期まで、長調の曲が圧倒的に多くて


三つ子の魂百まで的な、

なんで前半戦、短調作ってないんかな、を創作してみました。

ナンネルもヴォルフィも聡い敏感な子なので、

パパの曲に、死の悲しみを嗅ぎ取っていたんではないかと。


短調の悲しい感じが、幼い子には腹部の不快感と直結してお漏らしして、

成長しても、短調が、なんとなく幼少期の不快感としてインプットされて

通常時はあえて短調を作曲したくはない、多幸感を作曲したい、に直結していたんじゃないかなあ。


人生で、本当の悲しみに直面するその瞬間までは。


悲しみを表現しないと気が狂ってしまいそうな瞬間が,人間には来てしまうので。

その時期に悲しみを抱えながら作った短調が至極の美しさで。


今2歳なのでちょーっと先になるかもですが、

お付き合いくださると嬉しいです。

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