【59】境界線の向こう側
ふと、隣を見る。真っ青な顔の穂奈美ちゃんと、いつも通りの雪雄さんの顔。
飛んだ時特有の、内側を撫でていくような不快な違和感は今回も前回と変わりなかった。
でも、私の右手を握る穂奈美ちゃんの手は必死に握りしめられていて、関節が白くなるほどだった。
「さて、飛んだのはわかったね?また飛んじゃうのも気持ち悪いからね。瑞穂くんのところまで戻るよ。」
そう言って握りしめた手を握り返して引いた。青白い顔色で、それでも遅れないように足を踏み出す穂奈美ちゃんの足元で、枯れ葉がさく、と音を立てた。
瑞穂くんが見守る中、境界としたプレートの木のところまで戻ると、へなへなと穂奈美ちゃんが私の手を握ったまま崩れ落ちた。
「穂奈美ちゃん?!」
「大丈夫です、来ないで!」
「…?え?」
「…すみません、でも、瑞穂さんを巻き込む可能性があったら、と思うと…!」
「…わかった。充分離れるまでは…。」
「ごめんなさい…心配してくれてるのに…。でも、怖くて…!」
「はーいはい、よしよし。大丈夫。おばちゃんと手をつないだままで山道、降りられそう?」
「…はい。大丈夫、です。」
そう言うと、震えながらも立ち上がって、息をついた。視線を上げて私と雪雄さんを見て、そして。
瑞穂くんを見て、一瞬切なそうな表情を見せるとふい、と視線を逸らした。
「行きましょう。ここから戻るのって、時間かかりますよね…。」
「そうね。車に戻るまで歩けそう?下りの方が足は辛いけど。」
「行けます。…行けると、思います。ダメそうになったら、ちゃんと申し出ますから…。」
「おっけ。じゃ、さっさと降りようか。」
下りの山道は、全員無言だった。
私は穂奈美ちゃんの挙動と会話、あの視線の意味するところを苦手ながらも探ろうとしていた。あの必死な「来ないで!」という叫び…瑞穂くんを守るため、というには切実すぎる響きで…。むしろもっと根源的な、彼女自身に起こりうる何かに恐怖したような…?
考えながら、先を行く雪雄さんの背中を追う。
雪雄さんは下りのルートを先導しながらも穂奈美ちゃんの様子だけでなく、いつも通り周囲の違和感、差分の解析をしていたと思う。
穂奈美ちゃんは…多分いっぱいいっぱいだったのだろう。自分に起きた事柄と、あの言葉の処理で。
だから、気付くのが一瞬遅れた。
「きゃっ…!!」
「危ねえ!」
足元の岩がグラついて、穂奈美ちゃんが滑り落ちそうになったのを私の手と瑞穂くんの両腕が支え、抱きとめた。
「ごめん!!あの岩、気付かなかった…!」
「僕もあれはわからなかった…助かったよ、瑞穂くん、凪ちゃん。」
「…良かった…!」
大きく息を吐いた瑞穂くんの腕の中で、言葉も出せずに身を固めてしまった穂奈美ちゃんに一瞬違和感を感じたものの、二人の怪我の有無を確認すると車まで辿り着くことを優先して歩き続けた。
「よっし、着いた!クルマがある生活って良いなぁ…!」
「スンマセンけど、凪さんたちは諦めてくださいよ。世界の平和のために。」
「ぐうの音も出ないほど正論だけど、ちょっと腹立つ…!」
「まぁまぁ、凪ちゃん。僕たちが運転できないのは仕方ないじゃないか。これからもお世話になるんだから…。」
「良いこと言ってる風でオレに運転させる気満々なのバレてますよ?!」
「あれ?」
ここで、やっと穂奈美ちゃんの表情が和らいでクスクスと笑みがこぼれた。
よし、気持ちが立ち直ったところで…まだ道の駅は開いてなかった…お腹空いたな。朝ご飯どうしよう?
「ねー、お腹空かない?」
「そうだね…僕もだいぶ空きっ腹だね。近くに何かしらなかったかな?」
「あ、そんならインターまでの間にコンビニあったはずですよ。そこで何かしら腹ごしらえ出来れば…。」
「あ、あの…ここの私が作ってれば、なんですけど。お弁当、あります…。」
衝撃が走った。特に、瑞穂くんに。
「穂奈美ちゃんの…手弁当…だと…?!」
「すごいな、用意がいい。穂奈美さんはしっかり準備してきたんだねぇ。」
「ごめんねぇ、雪雄さん。奥さんが準備できない人でー。」
「凪ちゃんだってしっかり準備してきてくれたじゃないか。上着とか、飲み物とか。いつも通り、いや、いつも以上にばっちりだよ?」
「……!んもー!雪雄さん!そういうトコだぞ?!人たらしめ!!」
いつものようにニコニコすぱーんと背を叩いて話題を変えたけど、瑞穂くんには少し顔が赤くなったの、バレたかも知んない。良いけど、別に。
そんなわけで、車の中で穂奈美ちゃんの手弁当…おにぎりと鶏の唐揚げ、卵焼き、プチトマト、キュウリというシンプルだけど完璧なお弁当をいただきながらの報告会となった。
「さて…どうだったかな。今回は私たちがいつも転移してる方法で飛んだわけだけど…。飛んだ時の感覚、いつもと比べて違いはあったかい?」
「はい…そうですね…あの、変なザラッとしたふわっとした、内側を撫でられるような気持ち悪さは同じだったと思います…ただ…。」
「ただ?」
「…少し、強いというか、長いというか…うーん…そう、『濃い』、という感じだった気がします。」
「『濃い』?!それは…またどう解釈すれば良いのかな…?」
また面白い表現というか比喩というか。あの感覚が『濃い』というのって、どういう基準なんだろうか…?
いや。もしかして。
「ね、雪雄さん。穂奈美ちゃんと初めて会った時、私たちも転移したわよね?」
「そうだね。すぐにはわからなかったけども…。」
「あれ。翻って私たちには『薄かった』ってことにならない?」
「…!なるほどね…!」
「てことは、都市部とこういうポイントでは転移する場所としての違いが大きいと見積もったほうが良いってわけね。」
「となると…ふむ。」
ひとつ頷くと、雪雄さんは端末に諸々入力し始めた。
「ちょっと、雪雄さんこうなるとなかなか戻ってこないから、お弁当の残り、食べちゃって出発しましょ。」
呆気にとられたような二人を促すと、コクリと頷いて残りを食べ始めた。
それにしても、美味しい…!この唐揚げの下味、呉羽ちゃんのとは違う方向に美味しさが飛び出ている。呉羽ちゃんの唐揚げが華やかなヨーロッパの風なら、穂奈美ちゃんの唐揚げは水面の月が美しい日本の澄んだ湖だ。…何言ってんだ、私。美味しすぎるって、罪。
そして、家へと出発したのだが、道中は気が付いた差分があるかないかの話となり…。
「今のところ、私はわかんなかったのよねぇ、差分。雪雄さんは…こっちに意識が戻ってきたら聞いてみようね…。」
「あの…。私、少し違うなって…。」
「お!いいね!教えて?」
早速メモを構える。
「実は…瑞穂さん…今朝、喉元に剃り残しのヒゲが一本あったんです。」
ブホッ!
運転席から吹き出す音がした。
「穂奈美ちゃん…オレのそんなトコ見てたの…?!」
「す、すみません!!で、でも、その、こちらの瑞穂さんにはその剃り残しが、その、場所が違ってて…!それで、あ、違う世界に来たって、それで実感してしまって…!」
………。そーか。それでか。あの妙な固まり方と距離感。
「あと、履いてる靴、色が違っていて…私たちの世界の瑞穂さんはネイビーの靴でしたけど、こちらの瑞穂さんは、紺色の靴だったん「「その違いってどこ?!わかるもんなの?!」」…えっ、と?」
「穂奈美ちゃん?ネイビーと紺色の違いについて百字以内に述べよ。」
「えっ、えっ、えと…!ネイビーは、黒に近い濃い青色、で…紺色は、それよりも薄めの、少し紫っぽい、藍染の濃い色というか…!」
「うん、それ、素人にはどっちも紺色だから!!」
「ひゃー…ガチで観測者向きかも…?」
瑞穂くんと二人で驚きのあまり目を見合わせていると。
「あの!た、多分ですけど…!その…瑞穂さんだから、かもしれない、です…!」
ひと言毎に赤くなっていく穂奈美ちゃん。
こーれは…晴ちゃんが堕ちるのも無理ないわー…何このぴゅあっぴゅあな35歳。可愛すぎだわ。
しかし。聞き捨てならん言葉があったぞ?
「ねー…瑞穂くん限定ってこと?その観察眼。」
「わ、わかりませんけど…!その、お気持ちいただいてるのもあって、その、普段から目がいってしまうというか、見ている時間が、長いと…思うので…」
恥ずかしさからか、強制的に証言させられてるからなのか、だんだんと尻すぼみになっていく。
そーっと瑞穂くんを見ると…おお…!耐えている…!嬉しさと悶えたい&叫び出したい衝動をギリッギリで耐えている!
そうだよねわかるよ、運転放り投げて全身で喜びのダンス踊り狂いながら奇声を発して穂奈美ちゃん抱きかかえてどこぞに連れ去りたいよねえ…最早、犯罪だけど。この予想、あながち間違ってないと思うんだ。
「うん。そっか。そしたら、今後も瑞穂くんは差分観察対象として連れ歩こうねぇ…。」
チェックシート、作り足さないとなぁ…。
その後、無事に白瀬家に辿り着いた私たちはこちらの晴ちゃんたちに出迎えられ、ルーティンのチェックシート記入と晴ちゃん、唯くんチェックを経て(あだ名は「ヒゲを見分ける穂奈美さん世界」だそうだ)、端末を接続した。
データ移行の間、これまでと違って穂奈美ちゃんと瑞穂くんがパソコン部屋にいるのが不思議に感じたけど、これからはこの二人も否応なく巻き込むことになる。慣れちゃいけないけど、馴染んでいかなきゃね。
データ移行が終わって、一足先に私と雪雄さんはこの部屋から自分の世界に戻る。その後は、この世界の私たちと瑞穂くんに穂奈美ちゃんを託さなきゃいけない。ほんの少しだけ不安に思ってしまったのは、穂奈美ちゃんの未来を私たちが握ってしまった事を再認識したからだろう。
でも。私は世界を跨いでも私で、雪雄さんも雪雄さんだ。ちょっとの差分はあるかもしれないけど。私が私でいようとする間は、どの世界の私も同じだと、そう信じることにした。
だから。
「じゃ。一足先に帰ってるね!青い鳥で待ってるよ!」
「それじゃ、こっちの瑞穂くん。よろしく頼んだよ。」
そう手を振って、扉をくぐった。
居間で待っていてくれたのは、晴ちゃんと唯くん。
そして、程なく降りてきたここの瑞穂くんと、転移してきた穂奈美ちゃん。
「じゃ、青い鳥に行こう。きっと待っててくれてるよ。」
「…はい!」
三度、車で揺られること十分足らず。青い鳥に到着すると、緊張した顔の穂奈美ちゃんが胸元のマーカーを握りしめてバックヤードへと足を進めた。
この先、扉をくぐるのは彼女ひとりだ。私たちは、ついていかない。
これは、この先の調査に参加するかしないか、その覚悟を示す最後の試練だからね。
「あの、ここまでありがとうございました。戻っても、きっと忘れません…!」
「おう。あっちのオレもウズウズして待ってるだろうからな。早く帰ってやりな。」
「はい…!」
瞳を潤ませながらも、握っていた座標マーカーを起動し、扉を出現させる。
そして、扉を開き、マーカーをそっと外して…。
「行ってきます!」
そして、扉を閉めた。
と同時に瑞穂くんがその壁を回り込むと、開いた扉から穂奈美ちゃんが現れて…
「ただいま戻りました…!」
と、瑞穂くんの胸に縋り付いた。
一瞬の出来事に目を見開いて、それでも躊躇なく抱きとめた瑞穂くんが低い声で囁いた。
「おかえり。…寂しかったぞ。」
うん。ここで出しゃばったらおばちゃんたちは馬に蹴られちゃうね。そーっと気配を消して裏口から外に出た。雪雄さんもここは空気を読めたようで何より。
「はー、やっと一段落ついたね。」
「凪ちゃんもお疲れさま。僕よりも凪ちゃんの方が気を張ってただろう?すまないね、僕はこういうの得意じゃなくて…凪ちゃんにおんぶに抱っこだよ。」
「はっは、私だって雪雄さんにいろいろ丸投げしてるからね。おあいこさまだよ。でも上手くいったようで良かった。あとはうちに帰ってのんびりデータ解析しよう?」
互いに肩を組んで、おでこをすり合わせた。
若い連中も仲良しで良いこったけど、こっちも仲良く帰ろう。今日の一杯が楽しみで仕方ない帰り道だった。




