【49】うなじに触れた指先
ため息をつくほど幸せは逃げてしまうって、誰が言い出したんだろう。確かにため息をつくばかりでは何も解決しないし、だったら前を向いてやるべき事をやればいい、って話なんだとは思う。
でも。
自分の迂闊さや足りないところを常に目の当たりにしていれば、ため息なんてつかずにはいられないだろうに。きっと言い出した人はそんな事態にはなったことなんてないんだろう、と若干八つ当たり気味に落ち込んでいると。
「穂奈美ちゃん、お待たせ!さっきはすぐに返事出来なくて悪かった。」
慌てたように瑞穂さんがカウンター裏に戻ってきた。
悪かっただなんて、瑞穂さんに悪いと言わせるようなことはひとつもなかったのに。
「いえ、あの場の空気を読めない私が悪かったんです。本当にごめんなさい。」
「いや、穂奈美ちゃんこそ何も悪くないんだ。あの時、ちょっとびっくりするようなこと言われてたもんだから、反応が一瞬遅れた。」
「びっくりするようなこと…ですか?」
「ああ…何でも白瀬さんたちの昔持ってた工房にデカいサーバーがあるらしくて、そこのメンテナンスを頼まれてたんだよ。かなりの規模だから数日かかるって話で…。」
「まぁ、そうだったんですね。」
「それと…。」
ふと、そこで言葉を探すように一拍置いて、
「例のマーカーの石、アイスジェイドってやつ。あれ、原石を持ってるらしいんだ。」
「え?!あの石の…原石???」
「そう、だから驚いてて…。」
あの時、一瞬よぎった「見られてると思わなかった」表情はそのせい…?
「あー、その、原石持ってるから、必要になったら分けてくれるって、そう言われたもんだからちょっと下心がバレたかと思って焦ったんだよ!」
「下心??」
「…穂奈美ちゃんに色々贈り物出来るかな、と…。」
一気に顔に血が昇ってきた。どうしよう、こんな事、これまで聞いたことも言われたこともなかった…。
どんな顔をしたら良いのかわからなくて、そもそも自分がどんな顔になってるのかすらわからなくて、思わず俯いて顔を覆ってしまった。
そしたら。
「す、すまねぇ、ドン引きしたよな!昨日の今日で更に何か寄越そうと企んでるとか、下心しかないって思われても」
「違、違います!引いてなんかなくて…こんな時、どうしたら良いのかわからなくて…!」
「どうしようも何も…」
言葉に詰まったような瑞穂さんを俯いたままちらっと見ると、何故か顔を赤らめて困ったように微笑んだ。
「そのままでいてくれればそれだけで良いんだよ、穂奈美ちゃんは。つか、今の上目遣いも心臓やられそうなくらい魅力的で困るっちゃ困るんだが…。」
「〜〜〜!!」
「悪いな、厄介なのに捕まったと思って諦めてくれ。」
大きな手で頭を撫でられて、その温かさに少し泣きそうな気持ちになった。
幸せな気持ちでも、泣きたくなるんだと。
これが嬉し泣きっていうのかな…?
少しして落ち着いてから、聞きたかった通販について質問していると晴ちゃんが休憩だとバックヤードにやってきた。いつの間にかそんな時間になっていたなんて…。
ある程度質問に目処がついたところでお店に出て、カウンターとホールを行き来しながらお店を回す。
店内を動き回りながらも、さっきのやり取りが頭の隅から離れない。注文やお会計にミスがないように気をつけてはいるものの、ふとした瞬間にフラッシュバックしてしまって内心慌てたり、赤面していないかこっそり確認したり。
とうとう、ママさんにまで「少し落ち着くまで裏で休んできたら?」と気を使わせてしまった。
こんなことではいけない、と気合を入れる頃には夕食を軽く済ませたいお客様たちが来店する時間帯になった。
忙しくしていれば少しはマシになるのではないか、と思っていたタイミングでバックヤードから声がかかった。
「おふくろ、穂奈美ちゃん、ちと出てくる。一時間ちょいで戻れると思うから、あとはよろしく。」
「あら、どこまで行くの?」
「ちょっとな。じゃ、あとは頼むわ。」
「いってらっしゃい。」
「いってらっしゃい…。」
いったいどこへ、と疑問を抱くのも束の間、すぐに昨日の会話を思い出して再び顔に血が昇ってしまった。
「あらあらあら、そういうことね。穂奈美ちゃん、タイミングもちょうど良いからあと30分くらいしたら休憩に入ってちょうだい。」
「え、だ、大丈夫です!お店も混んできますし!」
「晴ちゃん、今日は延長お願いできる?」
「はーい!問題ないでーす!むしろバイト代ありがとうございます!」
「ね?」
ここまで言われては、周りの視線もあって頷くしかなかった。
そうして30分後。休憩室で所在なく瑞穂さんの帰りを待っていると、車の止まる音がした。続けてバタン、と閉まるドアの音。
駆け足で戻ってきた足音が、休憩室の扉の前で一度止まった。
一呼吸の間が空いて。
それから、少し照れくさそうな顔で扉を開けたのは……。
「……ただいま。待たせちまって、悪かった。」
「瑞穂さん、おかえりなさい……あ、あの……」
逸る胸の鼓動を抑えながら立ち上がった私の視線の先には、瑞穂さんのポケットから取り出された細長い箱。
「これ、受け取ってきた。穂奈美ちゃんのマーカーを身につけるための、チェーン。」
箱を開けると、室内の明かりを反射して、少し角ばった繊細な銀色の筋がキラリと輝いた。
マーカーを差し出して、チェーンにセットする。
最初から誂えたかのように、それはしっくりと馴染んでいた。
「……綺麗……。」
「俺がつけてもいいか?少し金具が特殊で扱いにコツがあるんだと。それと……あー、少し、近くなるけど……どうだ?」
瑞穂さんの声が、さっきより少し低くなった気がした。部屋の照明の加減か、彼の表情ははっきりとは見えない。
返事の代わりに小さく頷いて、私は背中を向けた。
瑞穂さんの、大きな体の気配が背中から感じられて…抱きしめられているようだった。
「……髪、少し避けるぞ」
大きな手が、私の髪をそっと掬い上げる。
剥き出しになったうなじを、夜の冷気ではなく、瑞穂さんの熱い吐息が撫でて――。
指先が、ほんの一瞬、私の首筋を掠めた。
その熱に、全身が痺れるように甘い戦慄が走る。
留め金を弄るカチカチという小さな金属音と、私の激しい鼓動。
「……できた。……すごく、似合ってる。」
耳元で囁かれた少し掠れた声と、離れていく指先の余韻。
振り返るのが怖いくらいに、私の心は今、瑞穂さんで満たされてしまっていた。
翌々日から、瑞穂さんは白瀬さんの工房でのメンテナンス作業へ向かった。
おおよその帰りの目安は聞いていたけれど…正直、お店をママさんと二人で回していたこともあってあっという間に過ぎてしまって。
あれから寝る時も肌身離さず身につけるようになったマーカーとチェーンに、気付いたら触れていることに気付いたのはいつだったか。
「まるであの子がいないのを、それでしのいでるみたいに見えるわよ?」
そんな風にママさんにからかわれたりもしたけれど…だからといってやめられるものでもなかった。
そして5日後。
「やっと…やっと帰ってきたぁぁぁ!!!」
開口一番そんな風に叫んで抱きすくめられた私は、衝撃のあまりだいぶ固まってしまって、再起動するまでにかなりの時間を要したと後から聞かされて悶絶してしまったのだった。




