【31】パジャマパーティーと優しい世界
母の記憶で一番印象に残っているのは、いつも笑顔だった母が必死の形相で私を突き飛ばした場面だ。
直前まで、母と私は買い物を楽しんでいた。おねだりして買ってもらったお菓子を母が「すとれーじ」から取り出そうとした、その時。
空間が、ねじれて弾け飛んだ、のだと思う。
詳しいことはまだ思い出せない。けれど、今日聞かされたたくさんの情報が、私の古くしまい込まれた記憶の一部を引っ張り出してくれた。
幼い私が理解できなかったあれこれが、意味を持って蘇ってきたともいう。
恐らく母は、私を危険から遠ざけるために突き飛ばしたんだと今なら理解できる。だが、5歳だった私にはいきなり母が怖い顔で突き飛ばした、そしていなくなった事しかわからず、捨てられた、いらなくなった、嫌いになった…そういう子供が理解できる範囲でしか受け取ることができなかった。
それは子供にとって、それこそ自分の世界を揺るがす大事件で(実際に世界そのものが揺らいでしまった大事件だったわけだが)、その痛みから逃れるために、その記憶ごと心の奥底にしまい込んだのだった。
突き飛ばされて、痛みに泣きべそをかきながら起き上がると、そこは知っているようで知らない場所だった。母はおらず、人はいてもごった返していて誰が誰だかもわからない。泣きながら母を探し歩いていると、店の制服を着た女性が話しかけてきて、いろいろなことを聞かれた。答えながら連れて行かれたのは迷子センターだったように思う。そこで泣きながら待って、待って、待って…。
母は、来なかった。
捨てられたのだと、自分はいらない子だったのだ、と思うのも仕方ないことだった。保護され、様々な手続きを経て養護施設で暮らすようになった。名前は聞かれて答えたものの、漢字があっているかどうかはわからずじまいだった。ただ、母が言っていた「稲穂が実って波のように見える、っていう素敵な名前なのよ」という言葉は覚えていたので、穂の字は確実に私の名前だと、逆に言えばそれ以外は私のものだと思えない日々を過ごした。
一人取り残されてから、しばしば軽いめまいが起こるようになった。それはふわっとするような、ざわっとするような、身のうちを柔らかい羽で撫でられたような、それでも不快な感覚で。しかし、周りの子供に聞いても大人に聞いてもそんな感覚はわからないと言われ、しまいには人の興味を引くための仮病だと言われるようになり…誰にも聞くことはなくなった。しかし、それがなくても私には思い違いや覚え違いがしばしば起こった。どんなに努力しても、どんなに頑張ってもそれはなくなることはなく、「やる気がない」「覚えられない」「人をバカにしている」などと言われるようになってしまった。
当然そんな私に友人が出来るはずもなく、施設でも学校でも、長じては職場でも孤立した。
仕事もケアレスミスがしばしば生じていたために評価は落ち、正社員となることも出来なかった。
全てを諦めきって、ただ漫然と生きているだけの生活を送っていた時に出会ったのが白瀬夫妻だった。
いつものようにあの「めまい」が起きたあと…普段とは違う感覚に思わず狼狽えていると声をかけてくれた。ふと漏らした「いつもの場所のはずなのに、また変な感じがする」という言葉を拾い、たったそれだけで私の状況を分析して把握し、そして助け出してくれた。
私や白瀬夫妻にとって、都会…文明や科学技術の発達した場所で人の多い場所はあまり好ましくない環境なんだそうだ。詳しい説明はほとんど理解できなかったが、無数の世界があって、それが大きな事故によって境界が曖昧な場所が出来てしまったと。そして都会では広い範囲でそれが生じたために私は世界を渡り続けていたそうだ。
「ちょっとした違いしかないから転移した実感も記憶もないんだろうけど、その世界との差分が日時だったり細かい数字の違いだったり、そういうありがちな覚え違いで済まされそうなことばかりだったからこそ、世界が違うだなんて発想にならなかったんだろうねぇ…。」
「普通は異世界なんておとぎ話扱いなのそろそろ覚えようか、かあさん?」
「おとぎ話ならともかく、決算書の数字間違いなんてロマンもへったくれもないわねぇ!」
缶チューハイを手にけらけら笑い上戸となっている呉羽さんは、昼間のしっとりした知的美人とは違う印象で驚いた。逆に凪さんは既に日本酒を3合ほど飲んでいるのに顔色ひとつ変えず、次に何を飲もうかと酒瓶とにらめっこしている。
パジャマパーティーと称して晴ちゃんの部屋で始まった酒盛りで、問われるままにぽつぽつとこれまでの生活を抵抗も感じずに話してしまった自分にも驚いている。こんな踏み込んだ内容を会ったばかりの人たちに話すなんてリスクの高いこと、これまでしたことはなかった。いつも信じようとしては裏切られ、見捨てられ…それが当たり前だったから。
でも。
『ずっと一人で抱えてこられたんですね…今まで辛かったですね。なのにずっと頑張ってこられたんですね、すごいです。』
そう言って抱きしめてくれた晴ちゃん。
優しい笑顔で難しい話を噛み砕いてくれて、気さくな振る舞いで緊張をほぐしてくれた凪さん。
美味しい食事と細かい気配りで先回りして私の気持ちを癒してくれた呉羽さん。
雪雄さんも唯くんも、ちょっとしか話せなかったけど隼瀬さんも。
私をそのまま受け止めて、生きていてくれて、会えて良かったと言葉で、表情で、仕草で、行動で示してくれた。
今、この世界で初めて、生きてきて良かった、そう思えた。心から笑顔で過ごすことが出来た。
もし明日、これが夢だったとしても。また世界を渡ってしまっても。
今この瞬間のこの人たちだけは、私を想っていてくれたんだと、そう胸を張って言える。
そんな強い想いをわずかな涙と目一杯の笑顔に忍ばせて、私も缶チューハイを空けるのだった。




