第九章 千年前の星落ち
空島に来て三日目の朝、セレナがノルンのところへ行った。
今日は自分から申し出た。昨日のように許可を求めるのでもなく、ただ「行ってくる」と言って立ち上がった。リコリスは頷いた。それだけで足りた。
モクと二人で採取の続きをしながら、リコリスは建物の方を時々見た。声は聞こえない。でも、何かが動いている気配はあった。
午前中が過ぎた頃、セレナが戻ってきた。
来た方向が違った。建物からではなく、島の奥の方から来た。どこへ行ったのだろうと思ったが、セレナの顔を見て、先に聞くのをやめた。
いつもと違う顔をしていた。
明るさが消えたわけではない。でも、重いものを持った顔だった。
「どうだった」
「ノルンに、神殿を見せてもらった」
「神殿?」
「島の奥にある。さっき帰ってきた」
セレナは草の上に座った。リコリスも隣に座った。
「中に記録があった。古代の記録。ノルンが読んでくれた」
「セレナのこと?」
「それも含めて、全部のこと。千年前のこと」
千年前。星落ち。世界が三つに分かれた、あの出来事のことだ。
「聞かせてもらえる?」
「うん。でも、長い」
「大丈夫」
セレナは少し間を置いた。それから話し始めた。
「千年前、世界はひとつだった。空も地上も地下も、全部繋がってた。人間も、魔女も、古代の人たちも、同じ場所に住んでいた」
「師匠の書き付けにも、そう書いてあった」
「そこに、星が落ちてきた。ひとつじゃなくて、たくさん。空から降り注いで、地上を割った。地下まで届いた。世界が崩れていった」
リコリスは黙って聞いた。
「そのとき、魔女たちが動いた。世界が完全に滅びる前に、空の部分と地上の部分と地下の部分を切り離して、それぞれを安定させた。世界をひとつのまま救えなかったから、三つに分けることで、それぞれを守った」
「魔女が」
「魔女たちが、世界を分けた。それが星落ちの真実だって、ノルンは言ってた」
リコリスは草を見た。
魔女が世界を壊した存在として恐れられている。村でもそう言われていた。でも、本当は逆だった。魔女は世界を守った。世界を分けることで、滅びを防いだ。
「わたしたちが災いだって言われてるのは、逆なんだ」
「逆だった。でも、千年かけて話が変わっていったみたい。魔女が世界を分けた事実は残ったけど、なぜ分けたかが伝わらなくなった。世界を割った者として、恐れられるようになった」
リコリスは手の中の薬草を見た。自分が毎日煮て、混ぜて、作っているもの。師匠から習ったもの。その前の魔女から受け継がれてきたもの。
それが世界を守ったものの末裔から来ている。
「続き、聞いていい?」
「うん」
セレナは話を続けた。
「世界を三つに分けるとき、封印が必要だった。空と地上と地下を切り離して、それでも繋がりを保つための封印。完全に切り離したら、それぞれが別々に壊れていくから。繋がりを残しながら、でも崩れないように保つ、そういう封印が必要だった」
「その封印を、今も保っている?」
「空島がその封印の核になってる。ここが安定していれば、三つの世界は安定する。でも、封印は千年かけて少しずつ弱まってる」
リコリスは空島の地面を見た。光る草。透明な木。魔力を含んだ空気。これが全部、封印の一部だということか。
「セレナの飾り、あれも封印に関係してる?」
「ある」
セレナは自分の手首を見た。
「あたしの一族は、千年前に封印を作った人たちの末裔。封印を維持するために、空島に残った」
「セレナ自身は」
「封印の鍵。正確には、封印が弱まったときに作り直すための鍵。あたしの中に、封印を更新するための力が眠ってる」
リコリスは少し黙った。
封印の鍵。守護機械が言っていた言葉の意味が、今になって繋がった。セレナは偶然落ちてきた少女ではなく、世界の封印を保つために育てられた存在だった。
「怖い?」
セレナが聞いてきた。自分の話をしながら、リコリスの方を心配していた。
「怖くない。ただ、重い話だと思って」
「うん。あたしも重かった」
「ノルンはどんな様子で話してたの?」
「淡々としてた。でも、声が少し違った。いつもより、ゆっくりだった」
ノルンにとっても、簡単な話ではないのだろう。千年前の重さを、ずっと知っていた。知りながら、守護者として空島にいた。
「封印を更新するって、どうやってするの?」
「そこまでは教えてもらえなかった」
「なぜ?」
「あたしが自分で記憶を取り戻してから、自分で選ぶべきことだって。今は、まだ話せないって」
自分で選ぶ、という言葉が引っかかった。
選ぶということは、選ばない可能性もある。封印の更新が義務ではなく、選択であるなら、セレナには断る権利がある。でも封印が弱まれば世界に影響が出る。選べるようで、選べない。
その形が、リコリスには少し苦しく思えた。
リコリスは草を一本抜いた。
「セレナは、どう思った。聞いて」
「重かった。さっき言ったけど」
「重かった、以外に」
セレナは少し間を置いた。
「怒りみたいなものがあった。生まれる前から決まってた、みたいなことを言われた気がして。でも怒る相手が分からなくて、どこにもぶつけられなかった」
「ノルンに怒るわけにはいかないし」
「ノルンも選んでない。ノルンもあたしを守るために決められた立場にいるから」
二人とも、生まれる前から役割を決められていた。ノルンはセレナを守る者として。セレナは封印の鍵として。
「それと」
セレナが続けた。
「もうひとつ、聞いた」
「何を」
「封印を更新する儀式には、代償がある」
リコリスの手が止まった。
「代償」
「あたしの中にある力を、封印に捧げる。それが儀式の方法。でも、どのくらい捧げるかによって、あたしに何が残るか変わる」
「最大限捧げたら」
「ノルンははっきり言わなかった。でも、言い方から察した。全部捧げたら、あたしはあたしでなくなるかもしれない」
風が吹いた。
草が揺れて、光が散った。空獣が遠くを泳いでいた。
リコリスは草を見たまま、動けなかった。
セレナがここへ来たのは偶然ではなかった。空から落とされた。誰かが意図的に落とした。それは儀式から逃がすためだったのか、それとも別の理由があったのか。
「ノルンはそれを知ってた?」
「知ってた。だから、あたしが儀式に立つ前に落ちてしまったことを、自分の失敗だと思ってたみたい」
「失敗じゃないのに」
「ノルンは守護者だから、そう考える」
リコリスは顔を上げた。
「セレナを落としたのが誰かは」
「分からない。ノルンも分からないって言ってた。島の外から干渉できる誰かがいるとしか」
島の外から。地上から、あるいは地下から。
機械兵がセレナを追ってくることと、繋がるかもしれない。誰かがセレナを空島に戻させたくないのか、あるいは自分たちの手で儀式を使おうとしているのか。
考えるほど分からなくなった。
モクが草の上で耳を立てた。
「リコリス、セレナ」
「何」
「おぬしら、今どんな顔をしておるか分かっておるか」
「どんな顔」
「暗い顔じゃ。二人揃って」
リコリスは自分の顔を確かめようとして、できなかった。でも、モクが言うなら暗い顔をしているのだろう。
「仕方ないじゃないですか」
「仕方ないのは分かっておる。じゃが、今すぐ解決できることでもなかろう」
「そうだけど」
「ならば今できることをする。今日の分の採取が終わっていない。腹も減った。木の実パンはまだあるか」
セレナが小さく笑った。
「モクって、食べることしか考えてないよね」
「食べることは大事じゃ。腹が減れば判断も鈍る」
「そうだね」
セレナは立ち上がった。リコリスも続いた。
昼食にした。固パンと干し肉と、昨日汲んだ池の水を少し。水は成分が分からないからリコリスは飲まなかったが、セレナは少し飲んで特に変化がなかったと言った。
「美味しかった。甘みがある」
「体に問題なければ、後で成分を調べてみる」
「問題なかったら、もっと飲んでいい?」
「問題がなければ」
「リコって慎重だよね」
「知らないものに対しては」
「それは大事なことだね」
昼食の後、もう一度採取をした。
モクの言う通り、今できることをする。考えるのは後でもできる。今ここにいて、できることをする。それがリコリスの長年の習慣だった。
採取を終えて、夕方にリコリスたちで建物の前に戻った。ノルンが外に出ていた。いつの間にか、リコリスたちが来ても驚かなくなっていた。
「今日も泊まるのですか」
「もう一日、いてもいいですか」
リコリスが尋ねた。ノルンは少し考えた。
「構いません」
「ありがとうございます」
「感謝はいりません」
ノルンはセレナを見た。
「今日の話は、重かったと思います」
「重かった」
「それでも、聞いてくれてよかった」
セレナはノルンを見た。
「ノルンは、あたしに儀式を受けてほしい?」
ノルンは答えるまでに時間がかかった。
「封印が弱まれば、世界に影響が出ます。それは事実です」
「それは聞いた。ノルン自身は、どうしてほしい?」
また間があった。
「私は、守護者です」
「守護者じゃない部分は」
ノルンの表情が、かすかに動いた。昨日より大きく動いた。
「ノルンとしては、どうしてほしい?」
ノルンは答えなかった。でも、答えなかったこと自体が、答えだった気がした。
リコリスにはその意味が分かった。
ノルンはセレナを犠牲にしたくない。でも守護者として、それを言えない。だから黙っている。
セレナもそれが分かったのか、それ以上は聞かなかった。
「また明日、話しかけてもいい?」
「構いません」
ノルンは建物の中へ戻っていった。
夜、テントの外に出て、みんなで星を見た。
二日目よりさらに慣れてきた。星が多すぎて目が回るような感覚が、今夜は落ち着いていた。
「ねえ、リコ」
「うん」
「さっきの話、全部聞いてどう思った」
リコリスは星を見たまま、少し考えた。
「重い、というのは正直なところ。セレナが封印の鍵で、儀式があって、代償があって」
「うん」
「でも、今すぐどうにかなることじゃない。記憶が戻ってから、セレナが自分で考える話だと思う」
「リコは何も言わないの」
「言う立場じゃないと思ってた」
「立場とか関係なく」
リコリスは少し考えた。
言う立場じゃない、という言葉が正確だったかどうか、考えた。本当は、言いたいことがあった。
「儀式を受けてほしくない、って思った」
「うん」
「代償がある儀式を、受けてほしくない。でもそれは、わたしの都合だから」
「都合でいいじゃん」
「世界の封印の問題を、都合で言うのは」
「リコの気持ちは、リコの気持ちじゃん。世界がどうかと、リコがどう思うかは別の話だよ」
リコリスは草を見た。
「セレナはどう思ってる」
「まだ分からない。記憶がないから、使命を自分のこととして感じられない。でも」
「でも」
「リコが受けてほしくないって思ってくれてるのは、分かった。それだけで、今は充分」
風が吹いた。
モクが二人の間で丸くなって、小さく鳴いた。眠そうな声だった。
リコリスは毛布を引き寄せた。
明日、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも今夜は、この島の星の下で、二人と一匹でいる。




