第十章 地下に眠るもの
四日目の朝、空島を出ることにした。
決めたのはリコリスだったが、セレナも反対しなかった。持ってきた食料が残り少なくなっていたこと、採取した素材をいったん整理したいこと、そして地上の様子を確かめたいこと。理由はいくつかあったが、一番大きかったのは、セレナの記憶が少しずつ動いているなら、無理に急かさない方がいいと判断したからだった。
出発前に、ノルンが建物から出てきた。
「また来ますか」
リコリスに向かって聞いた。
「来ます。セレナの記憶が戻るまで、何度でも」
ノルンは少し間を置いた。
「ならば、塔の装置に触れておくといい。次に使うとき、起動が早くなる」
それだけ言って、セレナに視線を移した。
「また話しましょう」
「うん」
セレナが頷いた。ノルンはそれを確かめてから、建物へ戻った。
装置に触れてから、光の筒が降りてきた。今度は体が慣れていたので、下を見なかった。前を見た。セレナの背中を見た。雲を抜けて、地上が見えてきた。森が広がっていた。
塔の頂上に着いたとき、リコリスは地上の空気を吸った。
重かった。空島の薄くて澄んだ空気と違う、水気を含んだ濃い空気だった。でも、懐かしかった。
「帰ってきた感じがする」
セレナが言った。
「ここが帰る場所になってる」
「なってる?」
「うん。空島より、こっちの方が帰ってきた感じがした」
リコリスはそれを聞いて、何も言わなかった。でも、胸の中に何かが静かに入ってきた。
塔を降りて、森を戻った。
家に着いたのは夕方だった。
荷物を下ろして、採取した素材を棚に並べた。浮遊石、空草の露、星霧水晶の粉、風結びの糸。空島でしか取れないものが、薬棚の隅に並んだ。見慣れない色と形が、いつもの薬草たちの間で浮いていた。
「調べるのに時間がかかりそう」
「手伝えることはある?」
「今夜は整理だけにする。調べるのは明日から」
「じゃあ夕食作る。何がある?」
「豆と、干した月草と、芋が少し」
「芋のスープにしよう」
セレナが台所に向かった。リコリスは棚の整理を続けた。
静かな夜だった。
けれど、いつもと同じではなかった。棚には見慣れない素材が増え、台所からは野菜を切る音がしていた。
モクが棚の上に乗って、浮遊石を眺めた。
「これは確かに面白い素材じゃ。調合に使えば、重いものを浮かせる薬ができるかもしれん」
「そこまで考えてたの?」
「我も考える。食うことだけ考えておるわけではない」
「そうは見えないけど」
「失敬な」
夕食を食べながら、リコリスは地上の状況を考えた。騎士団がどこにいるか分からない。村の様子も分からない。四日間、外のことを気にする余裕がなかった。
「明日、ミラのところへ行ってみようと思う」
「情報収集?」
「そう。騎士団の動きが気になる。それと、機械兵の痕跡がどのくらい残ってるか」
「あたしも行く?」
「今回はわたし一人で。目立たない方がいい」
セレナは少し考えた顔をしたが、頷いた。
「分かった。素材の整理を手伝ってる」
「ありがとう」
「でも木の実パンも焼いておく」
「モクのために?」
「みんなのために」
モクがこちらを見た。表情が少し柔らかくなっていたが、すぐに戻った。
翌朝、リコリスは一人で村へ向かった。
帽子は外套の中にしまった。薬袋は小さいものに替えた。なるべく普通の旅人に見えるように。
村は静かだった。市の日ではないから、露店も出ていない。朝の仕事をしている村人が何人かいるだけだった。
ミラの家は村の東寄りにあった。三度来たことがあるから、場所は覚えていた。戸を叩くと、すぐにミラが出てきた。
「リコリスさん」
「おはよう。少し時間、いい?」
「はい、どうぞ」
ミラは迷わず招き入れた。家の中は狭かったが、きれいに片づいていた。弟が奥の部屋から顔を出して、リコリスを見てから引っ込んだ。
「騎士団のこと、何か知ってる?」
座りながら聞くと、ミラは少し考えた。
「四日前に、隊長さんが戻ってきました。北の方を調べていたみたいで、何かを見つけたような様子でした。でも何を見つけたかは、村人には話さなかったです」
「今はどこにいる?」
「村に泊まっています。今日も朝から出かけていたから、また調査してると思います」
戻ってきた。北へ向かって、何かを見つけた。リコリスが北へ誘導した機械兵を追っていたなら、その痕跡に行き着いたかもしれない。
「機械兵の目撃情報はある?」
「ここ四日は聞いていないです。静かになった、って村の人たちは言ってます。でも油断しない方がいいって、隊長さんが言っていたそうで」
アルヴィンも慎重だった。静かになったからといって終わったとは思っていない。
「ミラは、何か困ってることはない?」
「特に。あ、でも」
ミラは少し迷った顔をした。
「首の傷は治りました。リコリスさんの薬が効いて、三日で」
「それは良かった」
「それと、村の人たちの中に、体の具合が悪い人が増えてます。特に年配の人。熱が出たり、関節が痛んだり。季節の変わり目だからかもしれないですけど」
「薬が要るかもしれない。次に来るとき持ってくる」
「ありがとうございます」
ミラはそこで少し声を落とした。
「リコリスさん、気をつけてください。隊長さん、あなたのことを諦めていないと思います」
「そう見える?」
「調査の方向が、ずっと森の方を向いてる気がして」
リコリスは立ち上がった。
「ありがとう、ミラ。教えてくれて」
「また来てください。できれば薬を持って」
「持ってくる」
村を出て、森へ戻った。
その途中で、石橋のそばにアルヴィンがいた。
一人だった。橋の欄干に手をついて、森の方を見ていた。リコリスが近づく気配に気づいて振り返った。
目が合った。
逃げるか、と一瞬思ったが、逃げなかった。逃げたら確実に怪しまれる。
「また会ったな」
アルヴィンが言った。
「そうですね」
「森に住んでいると言っていた」
「はい」
「四日間、見なかった」
「用事があって、少し遠くへ」
アルヴィンはリコリスを見た。何かを測っている目だった。
「北の方を調べてきた」
「そうですか」
「機械兵の痕跡が北へ向かっていた。途中で消えていたが、かなり奥まで続いていた」
リコリスは表情を変えなかった。
「機械兵が北へ向かったんですね」
「誰かが誘導したような跡だった」
「誘導」
「意図的に魔力の痕跡が作られていた。機械兵がそれを追った形跡がある。魔法を使える者の仕業だ」
アルヴィンはそこで止まった。続きを言わなかった。でも、視線がリコリスから外れなかった。
「それがわたしだと思ってるんですか」
「思っている」
直接的だった。リコリスは少し驚いたが、顔には出さなかった。
「なぜ村を守るために魔法を使っているのに、追われなければならないんですか」
「魔女は危険だ」
「機械兵は危険ではないんですか」
「機械兵も危険だ。だが、原因が魔女にあるなら、魔女を捕らえることで問題が解決する」
「原因がわたしにあると思ってますか」
アルヴィンは少し間を置いた。
「正直に言えば、分からない」
その答えは意外だった。断言しなかった。
「あの夜、機械兵が村の方へ向かっていたのを、あなたが止めた。それは事実だ。魔女が機械兵を呼んだのなら、止める理由がない。だが、機械兵があなたを追っているようにも見えた」
観察力がある。あの夜の動きから、かなりの部分を読んでいた。
「機械兵はわたしを追っていません。わたしの連れを追っています」
言ってから、言いすぎたかもしれないと思った。でも、嘘をつくより事実を一部だけ言う方がましだと判断した。
「連れ」
「わたし以外の事情がある。そのせいで機械兵が来た。わたしが呼んだわけじゃない」
「その連れは今どこにいる」
「森の中です。安全な場所に」
アルヴィンはしばらく考えた。
「信じる理由がない」
「信じなくていいです。ただ、機械兵の原因はわたしじゃない。それだけは本当のことです」
「魔女が本当のことを言うと思えない」
「魔女だから嘘をつくとは限らないですよ」
アルヴィンの表情が少し動いた。何かを考えている顔だった。怒ってはいない。
「過去に、魔女に家族を害された者がいる。私もそうだ」
それが出た。リコリスは黙って聞いた。
「だから信じることが難しい。感情として」
「それは分かります」
「分かるのか」
「人間に怖がられて、追われて育ちました。感情として、人間を信じることが難しい。それは似てると思います」
アルヴィンは少し黙った。
「似ているとは思っていなかった」
「わたしもそう思っていなかった。今気づいた」
橋の上を風が渡った。
「一つだけ聞いていいですか」
リコリスが言うと、アルヴィンは頷いた。
「今すぐわたしを捕らえようとしないのは、なぜですか?」
「証拠が不十分だ」
「それだけですか」
アルヴィンは少し考えた。
「あのとき、機械兵が村へ向かっていたのをあなたが止めた。その事実を、整理できていない」
整理できていない、という言葉が正直だった。任務と目の前の事実の間で、迷っている。それがアルヴィンという人間の、真面目さの表れだった。
「また来ると思います。村の人たちに薬を届けたいので」
「捕らえるかもしれない」
「そのときはそのときです」
リコリスは橋を渡った。
アルヴィンがあとを追ってくる気配はなかった。
森の中に入ってから、少し息を整えた。手が震えていた。今日は誤魔化せたが、次は分からない。アルヴィンは賢い。少しずつ、真実に近づいてくるだろう。
家に戻ると、セレナが素材の整理をしていた。浮遊石を並べて、それぞれの重さを手で確かめているところだった。
「おかえり、リコ」
「ただいま」
靴を脱ぎながら、リコリスは状況を整理した。今日分かったこと。アルヴィンが戻っている。北への機械兵の誘導を把握している。でも、まだ確信がない。村人の体調が悪い者がいる。薬が要る。
「どうだった?」
「色々あった。話す」
「うん」
リコリスは卓に座った。セレナが向かいに座った。モクが棚から降りてきた。
一通り話すと、セレナは冷静に尋ねていた。
「アルヴィンって、悪い人じゃなさそうだね」
「悪い人じゃないと思う。でも、任務に忠実な人だから」
「リコのことを、いつか分かってくれると思う?」
「分からない。でも、今日の話し方は、最初と少し変わってた気がした」
「変わってる方向に進めばいいね」
「そうなれば助かる」
モクが浮遊石を転がした。
「して、地下の話はいつ考えるつもりじゃ」
リコリスは顔を上げた。
「地下?」
「空島と地上と地下。三つに分かれた世界じゃろ。封印の核が空島にあるなら、地下にも何かがあると考えるのが自然ではないか」
リコリスは黙った。
言われてみれば、そうだった。
空島のことばかり考えていた。セレナの飾り、ノルン、封印の核。けれど世界は、空だけで成り立っているわけではない。
「まだそこまで考えが及んでなかった」
「及ぼせ。空島のことだけ考えておっては、全体が見えん」
モクが言うのは正しかった。空島、地上、地下。三つが繋がっている世界で、一か所だけを見ていても足りない。
「まず地上を安定させてから。騎士団の問題と、村人の体調の問題を片づけてから、地下のことを考える」
「順番を決めたか」
「今できることから」
「ふむ。それでよかろう」
モクは浮遊石をもう一度転がして、棚に戻った。
リコリスは薬棚を開けた。村人に届ける薬を考えた。熱冷まし、関節の痛みを和らげるもの、体の巡りを良くするもの。材料は家にある。今夜から作り始めれば、三日で揃う。
セレナが隣に来た。
「手伝う」
「助かる。月草を砕くところから始めようか」
「やる」
夕方の光が、窓から差し込んだ。
棚に並んだ空島の素材が、その光を受けて少し輝いた。浮遊石が、白く光った。リコリスはそれを横目に見ながら、薬草を取り出した。
まだ分からないことだらけだった。
地下に何があるか。封印がいつまで保つか。セレナを落とした者が誰か。アルヴィンがどこまで近づいてくるか。
でも今夜は、薬を作る。
それだけでいいと、リコリスは思った。




