第八章 空島の守護者ノルン
空島に来て二日目の朝、セレナが夢を見た。
起きた瞬間に分かった。目が覚めてすぐ、ぼんやりと宙を見ていた。リコリスが声をかけると、少し間があってから返ってきた。
「夢を見た」
「どんな夢?」
「白い部屋にいた。ノルンがいた。二人で何かを話してた。でも内容が思い出せない。目が覚めたら消えてた」
「怖い夢だった?」
「怖くはなかった。たぶん、大事な話だった。あたしが何かを選ばなきゃいけなくて、ノルンが、それを急がなくていいって言ってた」
リコリスは毛布を畳みながら、それを聞いた。夢だとしても、ノルンが出てきたなら、記憶が動いている証拠だと思った。
「ノルンのことを、昔から知ってるって感覚はある?」
「ある。どこで知ったかは分からないけど、遠い人じゃない感じがする」
「近い人?」
「ずっと一緒にいた、みたいな感じ。でもはっきりしない」
朝食をとりながら、リコリスは空島の空気を感じた。昨日より馴染んできた。魔力が肌に入ってくる感覚は変わらないが、抵抗が減っていた。
セレナはどうだろうと見ると、セレナは固パンを食べながら遠くを見ていた。昨日より少し、落ち着かない顔をしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ただ、ここにいると何かが引っ張られる感じがして」
「島の魔力に反応してるのかもしれない。飾りが」
「飾りというより、もっと体の奥の方から」
リコリスはそれを聞いて、少し考えた。飾りは外付けのものだ。でもセレナが感じているのが体の奥なら、セレナ自身に何かがある。生まれつきのものか、育ちの中で植えつけられたものか。
それがノルンの言う使命に関係しているかもしれない。
午前中は昨日の続きで素材採取をした。
光る池は、近づいてみると底が見えないほど深かった。水面が鏡のように空を映していて、空島の空がそこにもあるように見えた。水に触れると冷たく、指先に微弱な魔力が伝わった。
「飲めるかな?」
「飲まない方がいい。調べてないから」
「そっか」
リコリスは小瓶に水を汲んだ。後で成分を調べれば、何かに使えるかもしれない。
白い木の群生には、見慣れない実がなっていた。透明に近い白で、触ると表面がわずかに光った。モクが嗅いで、食べられると判断した。
「食べてみる?」
セレナが尋ねた。
「モクが食べてから様子を見る」
「我を試食係にするでない」
「あなた、何でも食べるじゃない」
「食べるのと試食は違う」
「どう違う?」
「試食は仕事じゃ。報酬が要る」
結局、木の実パンを一枚渡してモクに食べてもらった。半刻待っても異常がなかったので、みんなで食べた。
甘かった。地上の果物より薄い甘さで、口の中に残らない。
「おいしい」
「うん。でも食べすぎない方がいいかもしれない。成分が分からないから」
「分かった」
採取を続けていると、昼前にセレナが足を止めた。
建物の方向を見ていた。
「ノルンに話しかけてきていい?」
「一人で?」
「うん。あたしだけの方が、何か話してくれるかもしれないから」
リコリスは少し考えた。ノルンが敵意を持った相手だとは思っていない。でも、何を言うか分からない。セレナに、記憶を急かすようなことを言うかもしれない。
「何かあったら戻ってきて」
「分かった」
「すぐに戻ってこなかったら探しに行く」
「そんなに心配しなくていいよ」
「心配してない」
セレナが少し笑った。
「顔が心配してる顔してる」
「してない」
「してる。でもありがとう」
セレナは建物の方へ歩いていった。リコリスはその背中を見送って、視線を素材採取に戻した。
モクが肩に乗ってきた。
「行かせて良かったのか」
「ノルンはセレナを傷つけるような相手じゃないと思う」
「思う、か」
「そうじゃなかったら行かせない」
「ふむ」
採取を続けながら、リコリスは耳を建物の方に向けていた。声は聞こえなかった。距離がありすぎた。
セレナが戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
表情が昨日と違った。明るさは変わらないが、何かを胸の中に抱えた顔をしていた。
「話せた?」
「うん。少し」
「何を話した?」
セレナは草の上に座った。リコリスも隣に座った。
「ノルンはあたしのことを、昔から知ってた。やっぱり。子どもの頃から一緒にいたって言ってた」
「友達?」
「友達というか、ずっとそばにいた人、みたいな感じ。ノルンはあたしの守護者として空島にいたって言ってた」
「守護者」
「セレナを守るために、この島にいた、って。でも守るためにいたのに、あたしは落ちてしまったって」
ノルンが昨日、感情を少し動かした理由が分かった気がした。セレナが落ちたことを、自分の失敗だと思っているのかもしれない。
「ノルンは、セレナが何者か知ってる?」
「知ってた。でも、今は話せないって言ってた」
「なぜ?」
「あたしが自分で思い出さないと意味がないって。教えてしまったら、それはあたしの記憶じゃなくて、もらった話になってしまうから」
リコリスはその理屈を、少し理解した。記憶とは自分のものだ。他人から聞いた話はどれだけ正確でも、自分が経験したものにはならない。
「ひとつだけ教えてくれたこともある」
「何を」
「あたしが地上に落ちたのは、事故じゃないって」
リコリスは顔を上げた。
「事故じゃない、って」
「誰かに、落とされたって。それだけ教えてくれた。誰がどうしてかは話さなかった」
落とされた。
空島から、地上へ。意図的に。
リコリスは草を見た。光る草が、風に揺れている。事故でないなら、誰かがセレナを空島から落とした。機械兵が追いかけてくることも、その誰かが関係しているかもしれない。
「怖かった?」
「少し。でもノルンが言い方を選んでくれたから、いきなりじゃなかった」
「ノルンが選んだんだ」
「うん。あの人、無表情に見えるけど、気は使ってると思う。言い方が、丁寧だったから」
リコリスはノルンの顔を思い出した。確かに感情が見えにくかったが、話し方は冷たくはなかった。
「また話しかけてもいい?」
「ノルンに?」
「うん。少しずつ話してくれるかもしれないから」
「いいと思う。無理はしないで」
「しない」
モクが草の上で耳を立てた。
「リコリス」
「何」
「守護機械が動き始めた。南の方じゃ」
守護機械。昨日、建物を調べているときに遠くから見えた、島に元々あるらしい機械のことだ。地上の機械兵とは別物に見えたが、確かめていなかった。
「こちらへ来る?」
「来る。でも急いでいる様子はない。ゆっくりじゃ」
「様子を見る」
リコリスたちは建物の陰に入った。しばらくして、守護機械が草原に現れた。
人の形をしていたが、地上の機械兵より細かった。動きが滑らかで、草を踏みにじらない歩き方をした。頭部に光る目があったが、機械兵の赤い光ではなく、青い光だった。
守護機械はゆっくりと草原を進んで、リコリスたちの近くで止まった。
頭部が向いた。こちらを見ている。
リコリスは動かなかった。攻撃する素振りがない。ただ見ている。
そのとき、守護機械が音を出した。
言語ではなかった。音楽に近い、規則的な音の並びだった。モクが耳を立てて、その音を聞いた。
「モク、分かる?」
「少しだけ。古代文字と共通する部分がある。鍵、という言葉が含まれている。それと、確認、という言葉も」
鍵。ノルンの映像でも、地上の機械兵も、セレナを鍵と呼んだ。
守護機械がセレナを見た。青い光が、セレナの飾りに向いた。
飾りが反応した。薬で抑えていたが、ここの魔力が濃いせいで効き目が薄れているらしかった。かすかに光り始めた。
守護機械の音が変わった。
「何と言ってる?」
リコリスが聞くと、モクは耳を立てたまま答えた。
「確認が、完了した、と言っておる。それと、もうひとつ」
「何」
「鍵は、有効、じゃ」
有効、という言葉の意味を、リコリスはすぐには理解できなかった。鍵として有効、ということだろうか。何かを開ける鍵として。
守護機械は音を止めて、来た方向へ戻っていった。草を踏まない静かな歩き方で、視界から消えた。
セレナが自分の飾りを見た。
「あたしって、鍵なの?」
「守護機械はそう言ってる。何の鍵かは分からないけど」
「ノルンが言ってた使命っていうのも、その鍵のことかな」
「たぶん」
セレナは少し黙った。
「怖いかどうか分からない。自分のことなのに、他人事みたいな感じがする。記憶がないから」
「無理に感じなくていいと思う。記憶が戻ったら、自分のこととして感じられる」
「うん」
セレナは草の上に寝転がった。空を見た。
「ねえ、リコ」
「うん」
「リコって、もともとここに来るつもりなかったよね」
「そうだね」
「あたしが来なかったら、今も森の奥で薬草採取してたんだよね」
「してたと思う」
「その方が良かった?」
リコリスは少し考えた。
良かったかどうか、という問いは答えにくい。危険が増えたのは事実だ。騎士団に目をつけられた。機械兵が来るようになった。今は空島にいる。どれも、セレナが来る前にはなかったことだ。
「分からない」
「分からない?」
「良かったとか悪かったとか、そういうふうに考えたことがなかった。だから分からない」
セレナは空を見たまま、少し笑った。
「そっか」
「でも、来て良かったかどうかより」
リコリスは続けた。言うつもりがなかったことが、口から出た。
「セレナが来た方が、毎日の見え方が違う。それは本当のこと」
セレナが起き上がった。リコリスを見た。
「見え方?」
「同じ草でも、セレナが面白いと思うものが分かると、わたしも気になるようになる。ずっと見てた森なのに、気づいてなかったものが出てくる」
「それって」
「一緒にいると、見えるものが増えるって話」
セレナはしばらくリコリスを見ていた。
それから穏やかに笑った。さっきとは違う笑い方だった。
「ありがとう、リコ」
「どういたしまして」
モクが草の上で丸くなった。
「二人ともいつまでそこにおるつもりじゃ。素材採取の続きはどうした」
「今日はもういい」
「なぜ」
「じゅうぶん採れたから」
「ふむ」
モクは目を閉じた。納得したのか、諦めたのか、判断がつかなかった。
夕方になって、リコリスたちはテントの準備をした。
ノルンが建物から出てきて、こちらを見た。リコリスと目が合った。何かを言う様子はなかった。ただ見て、戻った。
拒絶ではない。でも招いてもいない。
そういう距離感だと、リコリスは判断した。急がない。焦らない。セレナの記憶が戻るのを待つ。そのために、ここにいる。
夜が来た。
空島の夜は、地上と違う星が見えた。雲が下にあるから、遮るものがない。星が多すぎて、どこからどこまでが星でどこが空か分からないくらいだった。
「綺麗だね」
セレナが言った。
「うん」
「地上でもこれくらい見える?」
「森の奥なら、木の隙間から少し見える。でもこんなにじゃない」
「じゃあここの方がいい」
「高いのが平気なら」
「慣れてきた?」
「少し」
少しは本当だった。まだ端に近づくと足がすくむが、真ん中にいれば落ち着いてきた。
セレナが毛布を肩にかけて、星を見ていた。
リコリスも同じ方向を見た。
星が多すぎて、どれが何なのか分からない。でも、見ていると落ち着いた。自分がどこにいるか分からなくなる感覚が、今夜は怖くなかった。
モクが二人の間で丸くなって、すぐに寝息を立てた。
リコリスは毛布を引き寄せた。
今夜は眠れそうだと思った。




