第七章 空を泳ぐ獣
塔の頂上で一夜を過ごした。
テントを広げるには狭かったので、装置の陰に毛布を二枚並べて、外套を重ねた。風が強かったが、石壁が遮ってくれたので、思ったより寒くはなかった。
セレナはすぐに眠った。
リコリスは眠れなかった。
夜の空島は、昼間より近く見えた。雲が晴れて、島の輪郭がはっきりした。光る何かが、島の周りをゆっくりと動いている。生き物だろうと思ったが、何なのかは分からない。
装置はまだかすかに動いていた。低い振動音が石の床を伝ってきて、それが眠れない理由のひとつだった。
もうひとつの理由は、セレナが映像で見た白い髪の少女のことだった。
あれが誰なのか。セレナとどんな関係なのか。空島の神殿に立っていたということは、空島に関わる人物だ。儀式のような場面に見えた。セレナが見たことがある気がすると言ったのは、記憶の欠片が戻りかけているということかもしれない。
だとすれば、この塔に来たことは無駄ではなかった。
夜明け前に、装置が止まった。振動音が消えて、塔が静かになった。代わりに、風の音がよく聞こえた。
セレナが起きたのは、東の空が白くなった頃だった。
「寝てなかったの?」
「少し寝た」
「嘘っぽい顔してる」
「考えことがあって」
セレナは毛布を畳みながら、リコリスを見た。
「装置のこと?」
「それも。昨日の映像のことも」
「あたしも起きてる間考えてた。でも、それ以上は思い出せなかった」
「焦らなくていいよ」
「うん」
セレナは空島を見た。夜明けの光が、島の縁を照らし始めている。
「あの装置、今日は動かせる?」
「分からない。昨夜勝手に動いたのが、今日も起動できるかどうか」
「試してみよう」
朝食をとってから、装置に向かった。昨夜と同じように、リコリスが魔力を流し込んで、セレナが飾りを向ける。
装置が動いた。
昨夜より滑らかだった。歯車が回り、水晶が光る。中心に光が集まって、渦を巻き始めた。
光の渦が大きくなって、塔の頂上を包んだ。
浮いた。
足場が消えたわけではない。でも体が軽くなって、気づいたら地面から離れていた。リコリスは声を上げそうになって、セレナの外套を掴んだ。
「大丈夫」
セレナが優しく声をかけた。
「上に行ってる」
上に、という言葉の通りだった。塔の頂上から、空へ向かって光の筒が伸びていた。その中を、リコリスたちは真っ直ぐ上へ運ばれていた。
リコリスは下を見た。
見るべきではなかった。
塔が小さくなっていた。森が広がっていた。村の屋根が点になった。
「下見なくていいよ」
セレナは前を見て、上を見ていた。怖がっていない。
モクが滑空しながら、二人の周りをゆっくりと回った。
「我は飛べるから問題ないのじゃが、おぬしらは大丈夫か?」
「大丈夫」
セレナは余裕の面持ちで答え、
「大丈夫」
リコリスは声が少し上ずった。
雲に入った。
白い霧の中を通って、冷たい湿気が肌に当たった。視界が消えて、光の筒だけが見えた。それが続いて、抜けた。
空島が見えた。
雲の上に出た瞬間、光の筒が消えた。ふわりと体が降りる感覚があって、柔らかいものの上に着いた。
草だった。
緑の草が、一面に広がっていた。空島の地面は、地上の森と違う種類の草で覆われていた。葉が細く、触ると少し光る。踏んでも折れない、弾力のある草だ。
リコリスはしばらく動けなかった。
草の上に座り込んで、周囲を見た。遺跡の石造りが草の間から見えている。木が生えている。地上とは違う種類で、葉が白く、幹が透けて見えた。その向こうに、石造りの建物が並んでいる。崩れたものもあれば、原形を保っているものもあった。
空を見た。
遮るものがなかった。地上では木々が空を隠していたが、ここには何もない。青い空が、見渡す限り広がっていた。雲が下に見えた。
「綺麗だね」
セレナが言った。
リコリスは返事ができなかった。綺麗、という言葉では足りない気がした。自分がどこにいるのか分からなくなるような、そういう景色だった。
モクが草の上に降りて、鼻を動かした。
「魔力が濃い。ただし遺跡の濃さとは違う。生きている濃さじゃ」
「生きてる?」
「この島そのものが魔力を持っておる。石も草も、空気も。全部が繋がっておる感じがする」
リコリスも感じた。増幅薬が効いているせいもあるが、ここの魔力は地下から湧いてくるというより、全方向から来ていた。皮膚を通して入ってきて、自分の魔力と混ざり合う感覚がした。
「慣れれば大丈夫だと思う。ただし長くいると魔力が乱れるかもしれないから、様子を見ながら動こう」
「分かった」
セレナが立ち上がって、辺りを見回した。
「どっちへ行く?」
「建物が多い方向から探ろう。何か手がかりがあるかもしれない」
歩き始めた。
草が足に絡むことはなかった。光る葉が踏むたびに少し輝いて、すぐに戻る。それが面白くて、セレナが意図的に踏みながら歩いた。
「光るね」
「魔力に反応してるんだと思う。こっちの魔力に」
「あたしが踏んでも光る?」
「さっきから光ってる」
「あ、本当だ」
セレナが自分の足元を見て、楽しそうにした。
建物が近づいてくると、空気が変わった。草の匂いから、石の匂いに変わる。古いものの匂いだったが、腐っていない。この島の空気が保存しているのかもしれない。
建物の入口に、古代文字が刻まれていた。
「モク、読める?」
「少し待て」
モクが文字を眺めた。
「採取所、と書いてある。この建物では素材を管理しておったらしい」
「素材?」
「浮遊石、空草、星霧水晶。この島で取れる素材の名が並んでおる」
リコリスは建物の中へ入った。
棚が並んでいた。地上の薬棚と同じような作りだったが、規模が違う。壁一面に棚があって、空の瓶が並んでいる。中身はほとんどなくなっていたが、底に残っているものがあった。
浮遊石だった。
卵くらいの大きさで、白く、触ると軽かった。重さを感じないほど軽かった。水に浮かべたら浮くだろう、というより、手を離したら上へ行くのではないかと思った。
「これが浮遊石」
「そう。調合帳に名前だけあったやつ」
「何に使えるの?」
「調べたことがないから分からない。でも名前から考えると、浮かせる系の用途じゃないかな」
「橋とか?」
「かもしれない。持ち帰って調べてみる」
リコリスは空瓶をいくつか持ってきていた。浮遊石を丁寧に入れて、蓋をした。棚を見て回ると、他にも残っているものがあった。粉状のもの、液体状のもの。名前が瓶に書いてあったが、読めないものが多かった。
「モク、これは」
「星霧水晶の粉。魔力を安定させる効果があると書いてある」
「これは」
「空草の露。飲むと体が一時的に軽くなる、とある。副作用に、眠気とある」
「これは」
「風結びの糸。風を縛って固定する術式が込められておる。使い方は書いていないが、高所作業に使うものじゃろ」
リコリスは手当たり次第に持ってきた瓶に分けて詰めた。全部は持てないので、使えそうなものを優先した。セレナも手伝って、荷物が増えた。
「重くなった」
「大丈夫?」
「重いけど、大丈夫」
建物を出ると、セレナが遠くを見た。
「あっちに大きい建物がある」
確かに、草原の向こうに、他より大きな石造りが見えた。柱が残っていて、屋根の一部が崩れている。神殿のような様式だった。
「行ってみる?」
「行こう」
草原を横切った。空を泳ぐ獣が、頭上を過ぎた。
大きかった。翼があって、体が透けていた。骨の形が透けて見えるほど透明で、それが光を受けてきらきらと光っていた。魚が泳ぐような動き方で、空を進んでいた。
「なにあれ」
セレナが立ち止まった。
「空獣だと思う。師匠の書き付けに、空島には空を泳ぐ獣がいると書いてあった」
「怖くない?」
「こちらを気にしていない。向こうからすれば、わたしたちが珍しいのかもしれないけど」
空獣はゆっくりと島の縁の方へ向かって、見えなくなった。
セレナがしばらくその方向を見ていた。
「綺麗だったね」
「うん」
「あたし、ここに来たことがあると思う」
リコリスは足を止めた。
「思う、って」
「はっきりじゃない。でも、草の感触とか、空の広さとか、どこかで知ってる感じがする。初めて来た場所じゃない気がする」
記憶が戻りかけている。
リコリスはそう判断したが、急かすのは違う気がした。待っていれば、もう少し出てくるかもしれない。
「ゆっくり思い出せばいい」
「うん」
大きな建物に近づくと、中から音がした。
金属の音ではない。風の音でもない。誰かが、歩いている音だった。
リコリスはセレナに手で合図して、立ち止まった。建物の陰に隠れて、入口を見た。
人が出てきた。
年頃はセレナと同じくらいに見える。銀白の髪が肩のあたりで静かに揺れ、神官服のような衣装を着ていて、裾には細い光の文字が流れていた。顔立ちは整っていたが、表情はほとんど動かない。青い瞳だけが、空島の結晶と同じ色で光を帯びていた。
昨夜の映像で見た少女だった。
人間に見える。
けれど、人間そのものではないと、リコリスにはすぐに分かった。
少女はこちらを見た。驚いた様子がなかった。最初から知っていたような、あるいは感情が動かないような、そういう顔だった。
そして視線がリコリスを通り越して、セレナに向いた。
ほんの少しだけ、その表情が動いた。
「セレナ」
少女が呼んだ。
声は低く、穏やかだった。感情を乗せない訓練がされているのか、それとも元からそういう声なのか、判断できなかった。
セレナが一歩前に出た。
「知ってる人?」
リコリスが小声で聞くと、セレナは首を振った。でも、目が離せない様子だった。
「あなたは帰らなければなりません」
少女がセレナに向かって言った。
「空島は、あなたを待っています」
セレナは黙っていた。答えを持っていない顔だった。記憶がないから、帰ると言われても帰る場所の実感がない。
リコリスは少女の前に出た。
「あなたは誰ですか?」
少女の視線がリコリスに向いた。
「空島の守護者です。あなたは地上の魔女」
「そうです。セレナを連れてここへ来た」
「知っています」
「なぜ知っているんですか?」
「この島は見ています。来た者を、去った者を。ずっと」
答えになっているようで、なっていない。リコリスは引かなかった。
「セレナの記憶を戻す方法を知っていますか?」
「知っています」
「教えてもらえますか」
「教えることはできません」
「なぜ」
「あなたたちに教える理由がないから」
モクが肩の上で唸った。リコリスは続けた。
「セレナはここへ来ることで、何かを思い出しかけています。記憶が戻れば、自分のことが分かる。何をすべきか分かる。それはあなたにとっても都合がいいはずじゃないですか」
少女は黙った。
長い沈黙だった。
やがて、少女が口を開いた。
「名前はノルンです。セレナのことを、昔から知っています」
昔から。その言葉がリコリスには引っかかった。昔から知っているなら、セレナが地上に落ちたことも知っていたはずだ。それなのに迎えに来なかった。なぜか。
でも今は聞かなかった。聞けば相手が閉じる気がした。
「セレナの記憶は、この島にいることで少しずつ戻ります。急かすことはできないし、すべきでもない。それだけは伝えます」
「ありがとうございます」
「感謝はいりません」
ノルンはセレナを見た。
「セレナ、あなたは帰らなければなりません」
セレナが答えた。
「今は、まだ分からない」
ノルンの表情が、かすかに動いた。悲しみとも、安堵とも、違う何かだった。
「その魔女といる限り、あなたは使命を忘れてしまう」
「忘れてない。ただ、思い出せないだけ」
セレナの言い方は穏やかだったが、引いていなかった。
ノルンはもう一度リコリスを見て、それから建物の中へ戻っていった。追いかけるべきか迷ったが、今日は追わなかった。
セレナが小さく息を吐いた。
「知ってる人だと思う。でも、どう知ってるか分からない」
「友達か、それに近い関係だったんじゃないかな」
「そうかも」
モクが鼻を鳴らした。
「あの娘、嘘はついておらんかった。ただ、全部を話す気もなかった」
「そうだね」
リコリスは建物を見た。ノルンが消えた入口を見た。
教えてもらえることは少なかったが、分かったことがある。ノルンはセレナを知っている。ノルンはセレナに戻ってほしいと思っている。それはつまり、セレナがここへ帰ることを前提にした存在が、空島にいるということだ。
その事実は、リコリスの胸に小さく引っかかった。
それが何なのかは、まだ分からない。
リコリスは草原を見た。空獣がまた頭上を過ぎた。今度は三頭いた。光を受けて、透明な体がきらきらと光っていた。
「今夜もここに泊まる?」
セレナが聞いた。
「泊まった方がいい。ノルンが言った通り、島にいることで何か思い出すなら、長くいた方がいい」
「じゃあ、素材採取の続きをしよう。あっちの方向にも何かありそうだったし」
「見てきた?」
「ちらっと。白い木が群生してた。あと、光る池みたいなのが見えた」
「行こう」
リコリスたちは草原を進んだ。空獣が頭上を泳いだ。光る草が足元で輝いた。
リコリスは空を見た。
遮るものが何もない空は、怖いよりも広かった。
それがまだ慣れない感覚だったが、悪くはなかった。




