第六章 風の塔へ続く道
騎士団が村を離れたのは、機械兵の騒動から二日後だった。
リコリスがそれを知ったのは、ミラが森の縁まで来て教えてくれたからだ。石橋のそばで声をかけてきたミラは、息を少し切らせていた。走ってきたらしかった。
「騎士団が動きました。北の方へ向かったみたいです」
「全員?」
「全員じゃないです。村に二人残っています。でも、隊長さんは行きました」
リコリスは少し考えた。全員でないなら、完全に手を引いたわけではない。残った二人は見張りか、あるいは引き続き調査をしているのか。
「何かほかに聞いた?」
「隊長さんが出発する前に、村の人たちに話しているのを少し聞きました。森の方向で発見した痕跡を追うって言っていたので、たぶん機械兵を追っているんだと思います」
機械兵を追った。リコリスが誘導路で北へ向かわせた機械兵を、そのまま追跡したということだ。
「ありがとう、ミラ。教えてくれて助かった」
「リコリスさんのためになるなら」
ミラはそう言って、村の方へ戻っていった。見送りながら、リコリスは橋の向こうを見た。空が晴れていて、遠くに雲が流れている。その向こうに、今日も空島が見えた。
家に戻ってセレナに話すと、セレナは窓際に腰かけたまま、じっくり聞いた。
「騎士団が遠くなった。当分は来ないと思う」
「よかった」
「でも、隊長は目をつけていると思うから、油断しない方がいい」
「隊長さんの名前、聞いた?」
「アルヴィン、だって。村の人がそう呼んでた」
「アルヴィン」
セレナはその名前を確かめるように繰り返した。
「怖い人だったの?」
「怖い、というより。真っ直ぐな人だと思った。曲がったことをする人ではない」
「でも魔女を追ってる」
「そう信じてるから。それが任務だから」
セレナはそれを聞いて、「ふうん」と言った。それ以上は聞かなかった。
モクが棚の上で爪を磨きながら言った。
「して、次はどうする」
「遺跡で映っていた塔のことを調べたい。あの幻影が何だったのか、まだ分かっていないから」
星屑きのこで作った薬をセレナの飾りに垂らしたとき、光の中に映像が浮かんだ。空に聳える巨大な塔だった。古代の意匠を持つ石造りで、雲の上に突き出ている。どこにあるのか、何のための建物なのか、その場では判断できなかった。
「風の塔、という話を昔聞いたことがある」
リコリスは調合帳を開きながら言った。師匠が残した古い書き付けに、その言葉があった。森の奥の奥、人の踏み入らない場所に古代の塔があり、かつては空島へ渡るための装置があったと書いてある。
「空島へ渡れる?」
セレナが身を乗り出した。
「書き付けにはそう書いてある。でも今も使えるかどうかは分からない。千年以上前の話だから」
「行ってみたい」
「想像はしてた」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、場所が分からない。調合帳の記述は曖昧で、森の奥としか書いていない」
モクが棚から降りてきた。
「我には、多少は分かる」
リコリスとセレナが同時にモクを見た。
「魔力の濃い場所を嗅ぎ分けられると言ったじゃろ。古い建物は魔力を蓄えている。特に古代の装置が残っているなら、相当な濃度のはずじゃ。近くまで行けば分かる」
「どのくらい近ければ」
「半日の距離に入れば、たぶん分かる」
リコリスは調合帳を閉じた。
行くと決めるには、準備が要る。森の深部は採取地よりさらに魔力が濃い。増幅薬をより強く調合する必要がある。食料も多めにいる。何日かかるか分からないから、野宿の道具も必要だった。
「準備に二日かかる」
「分かった。じゃあ手伝う」
「手伝えることはあんまりないけど」
「食料の準備なら手伝える。パンも焼けるし、干し肉も作れる」
リコリスは少し意外だった。
「干し肉を?」
「塩と煙で燻すやつ。やり方は分かる。どこで覚えたか分からないけど、体が覚えてる」
記憶はないのに、体が覚えている。セレナの過去に、そういう生活があったということだろう。リコリスにはそれ以上は分からなかったが、とにかく頼りになるのは確かだった。
「じゃあ食料を頼む」
「任せて」
二日間、準備に費やした。
リコリスは増幅薬の調合を強めに仕上げ、魔力探知の薬も作った。防虫の粉、傷薬、止血布、応急処置のための小道具一式。荷物がどんどん増えたが、要るものは全部持っていきたかった。
セレナはパンを二種類焼いた。木の実パンと、保存が利く固パン。干し肉も予告通りに作った。燻した匂いが家に満ちて、モクが落ち着かなくなった。
「一枚くれ」
「だめ。全部持っていく分だから」
「一枚だけじゃ」
「だめ」
「ならばリコリスに頼む」
「リコも同じこと言うよ」
モクは結局一枚もらえなかったが、代わりに木の実を多めにもらった。それで妥協したらしかった。
出発したのは三日目の朝だった。
いつもの採取道具に加えて、小さなテントと毛布を二枚。荷物をそれぞれ分けて、セレナと背負った。モクはリコリスの肩の上か袋の中かを行き来した。
石橋を渡らずに、森の中をそのまま北へ向かった。村とは反対方向だ。道はすぐになくなり、木々の間を抜けながら進む。
午前中は順調だった。
セレナは遺跡への道よりさらに慎重に歩いた。転ばないと言った手前があるからか、足元をよく確認しながら進んでいる。リコリスは先を歩きながら、危うい場所があれば声をかけた。
「この根に気をつけて」
「分かった」
「この石は滑る」
「分かった」
「この葉は素手で触ると痒くなる」
「触らない」
淡々としたやり取りが続いた。セレナが余計なことを聞かないのが、リコリスには歩きやすかった。落ち着いて集中できる。
昼前に、空気が変わった。
遺跡に近づいたときの変化と似ているが、もっと深い。湿度が上がり、草の匂いが重くなる。足元の苔がさらに厚くなって、踏むたびに音が消えた。
「魔力が濃くなってる」
「うん。増幅薬は飲んだよ」
「飲んだ。でも頭が少し重い感じがしてきた」
「それは魔力の流れが変わってるから。慣れれば落ち着く。もし酷くなったら言って」
セレナは頷いて、それ以上は言わなかった。リコリスも自分の体を確かめた。頭痛はない。魔力の感覚がいつもより鋭い。周囲の草や木の魔力が、皮膚を通して感じられるくらいになっている。増幅薬が効いていた。
モクが鼻を上向けた。
「匂いが強くなってきた」
「塔の方向は」
「まだはっきりしない。もう少し進めば分かる」
昼食は歩きながらとった。固パンと干し肉を分けて、歩みを止めずに食べた。セレナが水筒を渡してきた。
「リコ、水」
「ありがとう」
「疲れてない?」
「大丈夫。セレナは?」
「全然。歩くの好き」
好きかどうかで言えば、リコリスも嫌いではなかった。誰にも見られない深い森の中は、怖さよりも安心感の方が大きい。外の世界が怖いのは、人がいるからだ。人のいない場所は、怖くない。
でも今は隣に人がいて、それも怖くなかった。
不思議だと思いながら、先を進んだ。
午後になって、木々の間に石造りのものが見えてきた。
崩れた壁の残骸だった。苔に覆われていて、どこまでが石でどこからが地面か分かりにくい。それが続いていて、進むにつれて大きくなっていった。
「遺跡だ」
「ここより大きい遺跡が奥にあるのかもしれない」
モクが耳を立てた。
「リコリス、西だ」
「西?」
「強い匂いがする。建物の、古い魔力じゃ」
西へ向かった。崩れた石の間を抜けて、低い丘を登ると、視界が開けた。
塔があった。
高さは木々の倍以上ある。石造りで、外壁に古代の模様が刻まれている。上の方は雲に隠れていて、どこまで続いているか見えない。てっぺんが空島の雲より高いかもしれなかった。
入口は大きな石の扉だった。扉の両側に柱があって、そこに刻まれた紋様が、かすかに光っている。
「これが、風の塔」
リコリスは小声で言った。
「すごく高いね」
セレナが素直に言った。
「こんなのどうやって作ったんだろう」
「千年以上前の技術だから、今とは違うやり方があったんだと思う」
「魔法で?」
「たぶん。詳しいことは分からないけど」
モクが塔の外壁に飛び移った。古代文字を眺めながら、耳をそばだてている。
「封印されておる」
「封印?」
「扉に施錠の術式が刻んである。古い術式じゃが、まだ生きておる」
「解けるかな」
「リコリスの魔力と、この娘の飾りが両方必要じゃと書いてある」
セレナがリコリスを見た。
「あたしも必要?」
「飾りに古代装置に反応する力があるから、たぶん鍵の代わりになる」
「やってみよう」
セレナが扉に近づいた。リコリスもそれに続く。扉の表面に手を当てると、冷たかった。石の冷たさではなく、魔力を帯びたものの冷たさだった。
「飾りを扉に向けて」
「こう?」
セレナが手首を扉に向けた。飾りが光り始める。同時にリコリスは魔力を流し込んだ。扉の模様が光に応えるように輝いて、低い音が鳴った。
扉が動いた。
内側へ、ゆっくりと開いていく。
中は暗かった。でも、壁に埋め込まれた石が、進むにつれて順に光った。道を示すように、足元から上へと光が連なっていく。
「自動で光るんだ」
セレナが言った。声が反響した。天井が高い。
「誰かを迎えるための仕組みだったのかもしれない」
「来るって分かってたのかな、誰かが」
「分からない。でも、こういう仕組みを作るということは、誰かが来ることを想定してた」
塔の内部は、螺旋状の通路が上へ続いていた。足場が複数あって、風が吹くと動く仕組みになっている。風力で足場を動かして、上へ登れるようにしているらしかった。
「これ、登るの?」
セレナが足場を見上げた。
「そのために来たから」
リコリスは足場の端を確かめた。揺れる。頑丈ではあるが、足を踏み外したら落ちる。下を見ると、暗くて底が見えなかった。
胃が縮んだ。
「魔女さん、顔が白い」
「高いところが苦手だって言ったよね」
「言ってた。あたしが先に歩く」
「うん」
あっさり頼ってしまったが、今日ばかりはそれでいいと思った。セレナが先に足場に乗って、ゆっくりと試した。揺れは最小限だった。
「安定してる。来て」
リコリスは足場に乗った。下は見なかった。前だけを見た。セレナの背中を見た。セレナが一歩ずつ確かめながら登っていく、その足取りを目で追った。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「手、繋ぐ?」
「い、いい」
「繋いだ方が安心じゃない?」
「安心だけど、そうすると動きにくい」
「そっか」
足場が風で動いた。リコリスは思わずセレナの外套の裾を掴んだ。
セレナは振り返らなかった。ただ、歩みを少し緩めた。
モクが宙を滑空しながら、二人の上を飛んだ。
「情けないのう、リコリス」
「うるさい」
「この高さよりはるかに高い空島へ行くことになるのじゃぞ」
「今は今のことだけ考える」
「ふむ。まあよい」
足場が三つ、四つと続いた。
五つ目を登りきったとき、風が強くなった。塔の上の方は吹き抜けになっていて、外の風が入ってくる。髪が揺れて、外套の裾が翻った。
そして、視界が開けた。
塔の頂上は、広い石の台になっていた。中心に古代の装置がある。歯車と水晶を組み合わせたような機構で、長く使われていないのに埃が積もっていなかった。魔力で保護されているのだろう。
リコリスはその装置より先に、外を見た。
塔の頂上から見える景色は、それまで見たことのないものだった。
森が、ずっと遠くまで続いている。村の屋根が小さく見える。南には、さらに小さく、川の光が見えた。地上がこんなに広いのだと、リコリスは初めて知った。
そして、雲の上に、空島が見えた。
今まで下から見上げていたものが、今は同じ高さにあった。正確にはまだ上だったが、距離が違った。空島の輪郭がはっきり見えた。緑が見えた。遺跡の石造りが見えた。空を泳ぐ何かが、島の周りをゆっくりと回っていた。
「あそこから来たんだよ、きっと」
セレナが言った。穏やかな声だった。
「そこに帰りたい?」
リコリスは聞いた。
セレナは少し間を置いた。
「帰らなきゃいけないのかもしれない。でも今は、まだ分からない。記憶がないから、あそこがあたしの場所だって実感がない」
「そっか」
「リコはあそこに行くの怖い?」
リコリスは空島を見た。
怖いかどうかと言えば、怖かった。ここよりずっと高い。地上ではない場所だ。知らない場所で、知らないことが起こるかもしれない。
「怖い」
「でも来てくれる?」
来るかどうかをまだ決めていなかった。でも、聞かれたら答えは出た。
「うん」
セレナが少し笑った。
そのとき、塔の外壁から低い音がした。古代の装置が動き始めた音だった。装置の中心に光が集まって、渦を巻くように回る。
セレナの飾りが強く光った。
光の中に、映像が浮かんだ。
白い髪の少女だった。
空島の神殿に立っている。目を閉じて、両手を広げている。その周囲に、何かが集まってくる。光か、魔力か、判断できない。
そして少女が目を開けた瞬間、映像が消えた。
「今の」
セレナが自分の手首を見た。飾りの光が、まだ残っている。
「知ってる人?」
「分からない。でも、見たことがある気がする」
初めてだった。セレナが記憶に似たものを口にしたのは。断片だったが、確かに何かに触れた顔をしていた。
リコリスは装置を見た。まだかすかに動いている。これが空島への道を開く装置なら、今は準備ができていないが、いずれ使えるようになるかもしれない。
「今日はここまでにしよう。野宿の準備がいる」
「うん」
「あの映像のこと、もう少し考えよう。何か思い出すかもしれないから」
セレナは頷いた。頷いてから、もう一度空島を見た。
風が吹いて、二人の髪を揺らした。
リコリスは下を見ないようにしながら、足場に足をかけた。帰りも怖かったが、来たときより少しだけましな気がした。
理由は分からなかったが、たぶんそういうものだと思った。




