第二章 名前をなくした居候
朝が来ても、リコリスは眠れなかった。
窓の外で鳴いていた機械兵は、夜明け前に森へ引いていった。姿が見えなくなってからも耳を澄ませていたが、金属の足音はもう聞こえなかった。引き返したのか、それとも待っているのか。どちらにしても、すぐに踏み込んでこなかったのは確かだった。
セレナは暖炉の前でまた眠っていた。意識を取り戻した直後に薬湯を飲ませたのだが、それが効いたのか、あるいは疲れていたのか、話す間もなく落ちてしまった。規則正しい寝息を立てている。怪我の様子を確かめると、昨夜より出血は落ち着いていた。
モクは卓の上で目を閉じていたが、リコリスが動くたびに片耳だけ動かした。眠っているわけではないらしい。
「あれは何だったと思う?」
声を落として聞くと、モクはゆっくり目を開けた。
「機械兵じゃ。古代の」
「知ってる。そういう意味じゃなくて」
「なぜここへ来たか、ということか」
「うん」
「おそらくは、その娘を追ってきた」
リコリスも同じことを考えていた。偶然ではない。セレナの飾りが光った瞬間に、機械兵が現れた。呼応していた。つまりあの機械は、あの光を目印にしている。
セレナの寝顔を見た。穏やかな表情をしている。眠っているせいもあるが、怖がっている様子がなかった。記憶を失っているから、怖れるべき理由も分からないのかもしれない。
リコリスはため息をついて、薬棚に向かった。
とにかく今できることをする。昨夜手をつけられなかった霧苔を蒸す。月草を砕いて粉にする。眠り葛は色が変わっていないかを確認する。手を動かしていると、考えが落ち着いた。師匠から教わったことの中で、これが一番役に立っている。
蒸籠に霧苔を並べながら、ちらちらとセレナを見た。
銀がかった金の髪が、毛布の上に広がっている。衣装の意匠が、やはり地上では見ない様式だった。村人の服でも、旅商人のものでも、騎士の装備でもない。空から落ちてきたことを思えば、地上のものではないのかもしれなかった。あの壊れかけた飾りも、見たことのない金属でできていた。空から落ちてきた。記憶がない。機械兵が追ってくる。
三つを並べると、ただの迷子ではないことははっきりしていた。
だからといって、外に出せるかというと、それも違う。怪我が治っていないし、どこへ行くかも分からない。
しばらくここに置くしかない。リコリスはそう結論づけた。他に選択肢が思いつかなかった、というのが正確なところだったが。
午前のうちに薬の仕込みを片づけ、昼前に豆のスープを温めた。木の実パンは昨夜焼けなかったので、残っていた硬いパンを炙る。
その匂いに引き寄せられたように、セレナが目を覚ました。
「……朝?」
「もう昼に近いよ」
セレナは体を起こし、辺りを見回してから、ゆっくりとリコリスに目を向けた。夢と現実の境目を確かめるような顔をしている。
「魔女さんの家」
「うん。覚えてた?」
「うん、覚えてる。あたしはセレナで、魔女さんに助けてもらって」
そこで言葉が切れた。その先に続くはずの記憶が、ないのだと分かった。
「ごめん、他は」
「いいよ。無理に思い出そうとしなくていい」
リコリスはスープの椀をセレナの前に置いた。セレナはそれをしばらく見てから、両手で持ち上げた。一口飲んで、目を細める。
「おいしい」
「豆と塩だけだよ」
「おいしい」
セレナはまた一口飲んで、今度はリコリスを見た。
「魔女さんはご飯食べないの?」
「あとで食べる」
「一緒に食べようよ」
断る理由も思いつかなかったので、リコリスも卓に座った。向かい合って食事をするのは久しぶりだった。師匠がここにいた頃は毎日そうだったが、エルシアが旅に出てからは、ずっとひとりだった。
モクがどこからか現れて、卓の端に座った。
「我にはないのか」
「あるよ。待って」
リコリスはモク用の椀を取った。
「遅い」
「うるさい」
セレナがそのやり取りを見て、小さく笑った。
「モクっていうんだよね、この子」
「そう。相棒だよ、わたしの」
「使い魔ではない」
モクがすかさず言った。セレナはモクを見て、またかすかに笑う。
「モク、あたしのこと怖い?」
「怖くはない。ただ、信用はしておらん」
「そっか。じゃあ仲良くなるね」
「勝手にしろ」
モクはそっぽを向いたが、耳は前を向いたままだった。リコリスはそれを見て、少し安心した。モクが本当に警戒しているときは、もっと険しい顔をする。
食事が終わってから、リコリスは昨夜のことをセレナに話した。機械兵のこと、飾りが光ったこと、すでに森へ引いたことも。
セレナは黙って聞いていた。話が終わっても、すぐには口を開かなかった。
「機械兵が、あたしを追ってきてるんだね」
「たぶん」
「あたしのせいで、魔女さんに迷惑かけてる」
「それは今考えなくていいよ」
「でも」
「怪我が治ってから考えて。今は動かない方がいい」
セレナはリコリスを見た。何か言いたそうな表情だったが、結局は小さく頷いた。
「ありがとう、魔女さん」
リコリスはその言葉に慣れなくて、返事の代わりに立ち上がった。薬棚に向かう振りをしながら、少し顔が熱くなったことをごまかした。
礼を言われることに、慣れていなかった。
午後は薬作りの続きをした。セレナは具合が悪くなければ横になっていなくていいと伝えると、卓の近くに座って薬草の束を眺めていた。
「それ、何の草?」
「月草。乾かして砕くと、傷に塗る薬になる」
「これは?」
「霧苔。蒸したあと煮ると、熱冷ましになる」
「これは?」
「眠り葛。煮すぎると毒になるから気をつける」
「毒になるものも薬に使うの?」
「量が違うだけで、効き目は同じだから」
セレナは「へえ」と言って、葛の葉を慎重そうに眺めた。触ろうとしたので、リコリスは慌てて「素手では触らないで」と言った。
「ごめん、怖いね」
「怖くはないけど、手が荒れるから。触るなら手袋して」
引き出しから布手袋を出して渡すと、セレナは丁寧にはめた。それからおそるおそる葛の葉を持ち上げて、明かりにかざす。
「きれい。透けてる」
確かに、眠り葛の葉は光に透かすと葉脈が星模様に見える。リコリスは毎日見ているから気にしていなかったが、言われてみればそうかもしれなかった。
「採取のときも気をつければ、触ること自体は問題ないよ」
「採取って、外で集めてくるの?」
「毎朝」
「あたしも行っていい?」
リコリスは少し考えた。怪我が完全に癒えていない。無理はさせられない。でも、ずっと家の中にいるのも塞ぎそうだ。
「歩けるようになってから、近いところなら」
「やった」
セレナが笑った。声に張りが出た。
モクが棚の上から見下ろして、ふん、と鼻を鳴らした。
「空の娘、はしゃぎすぎるでない。怪我人じゃ」
「分かってる。でも嬉しいもん」
「なぜ嬉しい」
「外に出られるから。魔女さんと一緒に」
モクはちらりとリコリスを見て、また鼻を鳴らした。
「ふむ」
それ以上は言わなかった。
夕方になって、セレナが台所の近くをうろうろし始めた。夕食の準備を始めようとしたリコリスは、視界の端でそれが気になって仕方がなかった。
「何か用?」
「手伝えることない?」
「いいよ、座ってて」
「座ってるの飽きた」
そう言われると、追い払うのも悪い気がした。リコリスは少し悩んで、野菜の入った籠をセレナの前に置いた。
「これ、切れる?」
「切れる」
「大きさはだいたい揃えて。揃えた方が火の通りが均一になるから」
「分かった」
セレナは包丁を持って、真剣な顔で野菜に向かった。最初の一切れが少し不格好だったが、二切れ目からは丁寧に揃えようとしているのが伝わってきた。
リコリスは鍋の前に立って、横目でその手元を見ていた。集中しているときのセレナは、さっきの明るい様子と少し違う。ずっと静かに、ただひたすら包丁を動かしていた。
どんな人なんだろう、と思った。
記憶がないから、自分でも分からないのかもしれない。それでも今ここで笑って、薬草を不思議がって、手伝いたがっている。そういう人なんだと、リコリスは思った。
夕食は昨夜より少し賑やかだった。
モクが木の実パンを三つ食べたことに対してリコリスが文句を言い、セレナが笑って、モクが「我は育ち盛りじゃ」と言って、またセレナが笑った。
リコリスは笑わなかったけれど、怒ってもいなかった。
食後、セレナが窓から空を眺めた。月のない夜で星がよく見える。雲の向こうに、かすかに空島の輪郭が見えた。
「あそこにいたのかな、あたし」
囁くような声だった。
「分からないけど、見ると胸が痛い。懐かしいのか、それとも怖いのか、よく分からない感じ」
リコリスは隣に立って、同じ方向を見た。空島は遠い。雲の上に浮かんでいて、近づく方法もない。
「思い出せたら、家に帰れるのかな」
「帰りたい?」
セレナは少し間を置いた。
「帰るべき場所があるなら、帰らなきゃいけないとは思う。でも今は、どこにもそんな場所が思い当たらない」
リコリスは何も言わなかった。何を言えばいいか分からなかったし、軽い慰めを言えるほど器用でもなかった。
ただ、セレナがここを帰るべき場所だと思えるくらいには、悪くない場所にしてあげたいと、なぜかそう思った。
思ってから、自分でも少し驚いた。
そのとき、セレナの手首の飾りが、またかすかに光った。今度は穏やかな光で、機械兵を呼ぶ種類のものとは違うように見えた。
でも、念のためリコリスは外に耳を向けた。
遠くで、重い足音がした。
昨夜より遠い。けれど確かにある。
機械兵は、まだ森の外縁をうろついていた。




