第一章 森の魔女と空から落ちた少女
森の奥には、恐ろしい魔女が住んでいる。
村の子どもたちはそう言って、古い石橋より先へは決して近づかなかった。
橋の向こうは、昼でも薄暗い。背の高い木々が空を隠し、苔むした石には小さな白い花が季節を忘れたように咲いている。風が吹くと、葉擦れの音にまじって誰かが囁いているような声がした。
けれどリコリスにとって、そこは怖い場所ではなかった。
薬草を干すための棚。雨水を受ける樽。屋根の上で丸くなっている、手のひらより少し大きな毛玉。
森の奥の小さな家は、リコリスにとって、世界でいちばん安全な場所だった。
「モク、そこにいると煙突の煤がつくよ」
庭先で薬草の束を結びながら、リコリスは屋根を見上げた。
丸い耳と長い尻尾を持つ小動物が、片目だけをゆっくりと開ける。灰色がかった茶色の毛はふわふわで、腹のあたりだけ白い。小さな前足を胸の前にそろえ、長い尻尾を体に巻きつけている姿は、丸めた毛糸玉のようにも見えた。
「ふむ。煤など恐れる我ではない」
「昨日、お風呂を嫌がって逃げたのは誰だっけ」
「記憶にないのう」
モクはそう言って、尻尾で顔を隠した。
リコリスは小さく笑い、束ねた薬草を棚に並べる。夕方の光が木々の隙間から差し込み、瓶に詰めた星砂草が淡く青く光っていた。
今日採れたのは、月草が四束、霧苔が小籠ひとつ、それから岩陰でひっそり育っていた眠り葛が二本。どれも使いどころがあって、どれも捨てるところがない。師匠のエルシアが言っていた通りだとリコリスは思う。森には贅沢なものが溢れている。ただし、それを見つけられる目と、知ろうとする意志があれば、という条件つきで。
棚の隅に並べた小瓶を眺めながら、リコリスは今夜の作業順を考えた。霧苔は先に蒸しておく。月草は乾かしてから砕く。眠り葛は今夜のうちに煮ておかないと変色する。
いつもと同じ段取りだった。
いつもと同じ夕方で、いつもと同じ森で、今日も誰にも会わなかった。
会わなくて良かったのだと、リコリスは自分に言い聞かせる。村の人間は魔女を怖がる。怖がるだけならまだいい。怖いものは、遠ざけるか、あるいは潰そうとするかのどちらかだ。それがリコリスの知っている外の世界だった。
だから森の奥に隠れて暮らす。
それが正しい選択なのだと、ずっとそう思っていた。
ただ、夕空を見上げて、橋の向こうに続く道のことを考えてしまうのは、どうしようもなかった。
「リコリス」
モクが屋根から声を落とした。
「腹が減った」
「今夜は豆のスープだよ。木の実パンはまだ焼いてないから待って」
「木の実パンがないなら意味がない」
「そんなことない」
「ある」
言い合いながら家に入る。石造りの小さな家は、師匠が残していったものだった。暖炉には使いかけの薪。壁には棚が三段あって、全部に薬草と小瓶が並んでいる。卓の上には分厚い調合帳。窓枠には乾燥させた月花が飾ってあって、夜になると淡い光を放った。
散らかっているわけではない。ただ、物が多い。
リコリスはこの家が好きだった。手の届く場所に全部あって、何かをするたびに足を止めてしまいそうになる豊かさがある。
鍋を火にかけながら、ふと窓の外を見た。
空が、赤から紫へ変わっていく時間だった。雲の上に、ときどき光るものが見える。空島だ。いつもそこにある、けれど誰も行けない場所。古代の遺跡が浮かんでいるのだとエルシアは言っていたが、どんな景色なのかリコリスには想像もつかない。
見上げるだけで、行くことは考えたことがなかった。
どうせ、自分の場所はここだ。
スープがぐつぐつと音を立てた頃、モクが戸口にちょこんと座って耳をそばだてた。
「リコリス」
今度は声が違った。低い。
「どうしたの」
「空が変だ」
リコリスは鍋から顔を上げた。
窓の外は、もう夜の色に変わっていた。星が出ている。普通の夜だ。どこも変ではない。そう思ったとき、地平線の向こうに、白い光の筋が走った。
一本ではない。次々と、空が裂けるように光る。
次の瞬間、森の奥から、低い轟音が届いた。
地面が揺れた。
スープ鍋が揺れ、棚の小瓶がカタカタと鳴る。モクが宙に飛び上がり、滑空して卓の上に降りた。
「落ちてきた。何かが」
「森に?」
「森に」
リコリスは迷った。
外に出れば、見つかるかもしれない。でも何かが落ちた。何かが、という漠然とした言葉しか思い浮かばないほど、光の落ち方は異常だった。
手に、予備の薬袋を持った。膝まで届く深緑の外套を肩にかける。魔女帽子を被る。服装を整える動作が、判断を固める代わりになった。
確認してくるだけだ、とリコリスは自分に言い聞かせた。
「我も行く」
「危ないよ」
「おぬしひとりの方が危ない」
それはそうかもしれなかった。リコリスは黙って戸を開けた。
夜の森は暗い。けれどリコリスはここに長く住んでいて、どこに石があってどこに根が張っているか、だいたい覚えている。足元だけ薄く光を出す魔法をかけ、音を立てないように木々の間を進んだ。
モクは肩の上に乗って、耳を前に向けている。案内役にしては頼りなさそうな感じだったが、牽いていく方向だけははっきりしていた。
落下点は、思ったより近かった。
木々が開けた、小さな空き地。中心には、地面が抉れたような跡がある。土が盛り上がり、草が焦げていた。夜目でも見える明るさで、なにか金属質のものが光を帯びている。
抉れた地面の縁に、人が倒れていた。
リコリスは息を止めた。
少女だった。十六歳のリコリスと、そう変わらない年頃に見える。
銀がかった淡い金髪が、土の上に広がっている。肌は月明かりを受けたように白く、閉じたまぶたの下に長い睫毛が落ちていた。整った顔立ちだったが、土と血で汚れていて、ただ眠っているようには見えなかった。
衣装が妙だった。地上の村人でも、旅商人でも、騎士でもない。装飾の多い古めかしい衣で、模様のひとつひとつが、文字なのか紋章なのかさえ分からなかった。首や手首には壊れかけた金属の飾りがついており、そこから細い光の筋が漏れていた。
怪我をしている。顔のそばの地面が、黒く湿っている。
「助けないのか」
モクが耳元で言った。
「でも」
「でも、なんじゃ」
「人間だよ。起きたら怖がるかもしれない。騒がれたら困る。村に戻られたら」
「今考えることか、それは」
リコリスは口をつぐんだ。
怖い。それは本当だ。人間に見つかるのが怖い。怖がられるのが怖い。でも。
少女の胸が、かすかに上下していた。
呼吸している。まだ生きている。
リコリスはゆっくり歩み寄り、膝をついた。外套から取り出した小瓶を開け、緑の薬液を指に取る。傷の深さを確かめながら、慎重に当てていく。止血の薬。応急処置にしかならないが、今はこれしかない。
少女の体は思ったより軽かった。両腕で抱き上げると、頭がリコリスの肩に傾いた。
「家まで運ぶよ」
「賢明じゃ」
「褒めてる?」
「事実を述べておる」
森を戻る間、少女はずっと目を閉じていた。呼吸は浅いが、途切れてはいない。外套の内側に包むと、体温が少しずつ伝わってきた。
こんなに軽い人間が、空から落ちてきた。
どこから。どうやって。
リコリスには分からなかったが、考える余裕もなかった。今は家まで連れ帰ることだけを考えた。
暖炉の前に少女を寝かせ、毛布をかける。スープはすでに火が弱まっていた。薬棚から治癒の粉を出し、湯に溶いて患部に当てる。傷は思ったよりひどくなかったが、それでも丁寧に処置した。
作業が終わった頃、東の空が白みはじめていた。
リコリスは卓に肘をついて、少女の顔を眺めた。整った顔立ちだ。眠っているせいか表情がない分、彫刻みたいに見える。
「なんなんだろうね」
「さあの」
「空から落ちてくる人間なんて、普通いない」
「普通ではないものが降ってきたということじゃな」
その通りだった。リコリスは小さくため息をついた。明日の薬作りは無理かもしれない。採取した霧苔は今夜蒸すはずだったのに手をつけられなかった。段取りが全部ずれた。
でも、後悔はしていなかった。自分でも不思議だったが。
ぼんやりと眺めていると、少女の眉がかすかに動いた。それから目が、ゆっくりと開く。空の色をした青い瞳が、天井を見て、次にリコリスを見た。
目が合った。
リコリスは慌てて少し後ろへ引いた。起こしてしまったのか、それとも元々目覚めるところだったのか。とにかく、相手が起きた。
少女は視線を動かして、家の中を見回した。天井、棚の薬瓶、暖炉の火、モク、そしてもう一度リコリスに戻ってくる。
「……ここは」
声は細かったが、はっきりしていた。
「森の家だよ。あなたが森に落ちてきたから連れてきた。怪我の処置は終わってるから、安心して」
早口になってしまったと気づいたが、止められなかった。
「怖くないから。逃げなくていいから。ここは安全だから」
少女はリコリスを見ながら、小さく首を傾けた。
「あなたは」
「わたし? わたしはリコリス。ここに住んでる。魔女、だけど」
言ったあとで後悔した。先に言わなくてもよかったかもしれない。怖がらせてしまうかもしれない。
でも少女の表情は変わらなかった。ただ冷静に、リコリスを見ていた。
「魔女さん」
「うん」
「あたしは」
少女は少し間を置いた。
「あたしは、セレナ。それしか分からない。他のことが、何も」
記憶がない。リコリスはすぐに察した。空から落ちてきて、頭を打って、それで。
「セレナ、っていうんだね」
「うん」
「ここにいていいよ。怪我が治るまで」
言ってから、もう少し言葉を足すべきだったかと思った。でも何を言えばいいか分からなくて、リコリスは口を閉じた。
セレナは少し考えるような顔をして、それから小さく笑った。
「魔女さんって、思ってたより優しいんだね」
思ってたよりって、どんな魔女を想像していたんだろう。
リコリスはそれを聞くより先に、セレナの手首の飾りが急に光を強くしたことに気づいた。
金属の細工が脈打つように輝いて、部屋に白い光が広がる。モクが耳を立てて飛び上がった。
その光に呼応するように、夜の森の奥から、低い音が聞こえた。
機械的な、重い、歩みの音。
リコリスは窓の外を見た。木々の間に、光る目が二つあった。人の形をしているが、人ではない。金属の体が、こちらへ向かってくる。
「モク」
「見ておる」
少女を見下ろした。セレナは飾りの光に気づいて、自分の手首を見つめている。怖いのか、不思議に思っているのか、その表情からは読めない。
リコリスはただ分かった。
今夜は長くなる。




