第十七章 空と地上を結ぶ魔女
翌朝、空島を出る前にノルンと話した。
セレナが話を持ちかけた。リコリスとエルシアも一緒だった。モクは建物の軒先で日向ぼっこをしながら、片耳だけ向けていた。
ノルンは神殿の入口に立っていた。昨日の緊張が抜けて、いつもの無表情に戻っていた。でも、リコリスには少し違って見えた。昨日、術式を起動したときの顔が、無意識の判断だったように思えた。
「グランベルのことを、どのくらい前から知っていましたか?」
セレナが尋ねた。
「三年前から、この島への干渉を感じていた。出所を探っていくうちに、地上の人間が関わっていることが分かった」
「止めようとしなかった?」
「できなかった。この島から離れると、封印の監視が途切れる。私はここを離れられない」
「一人だったから」
「そう」
ノルンは少し間を置いた。
「セレナがいれば、私が動ける時間が作れた。でもセレナは落ちていた。一人で、できることに限界があった」
セレナは自分の手首を見た。
飾りは静かだった。けれど、静かだからといって、役目が消えたわけではない。
「あたしがここにいれば、ノルンは一人じゃなかったんだよね」
「そうとは限らない」
「でも、鍵はここにいるべきだった」
その言い方が、セレナ自身の声ではないように聞こえた。誰かに教え込まれた言葉を、記憶の底から拾い上げているようだった。
「あたし、リコの家に帰りたいって思ってる。でも、それって逃げてるだけなのかな。ごめん」
セレナが謝ると、ノルンは少し顔を動かした。
「謝ることではない。セレナは落とされた。自分で落ちたのではない」
「でも、結果として、ノルンが一人だった」
「それは、私が選んだことだ。セレナを助けに地上へ降りる選択もあった。しなかったのは私だ」
「なぜしなかった?」
ノルンはまた少し間を置いた。
「島を離れることへの怖さと、封印への責任感と。どちらが大きかったか、今でも分からない」
その答えは正直だった。リコリスには、ノルンがこういう答えを出せる人間だということが、少し意外だった。無表情で、感情を見せない人間だと思っていたが、自分を正確に見ようとしている人間だった。
「これからは、どうするつもりですか」
リコリスが尋ねた。
「封印の監視を続ける。ただ、一人でやる必要がなくなった」
「セレナが戻ってくる」
「それだけではない」
ノルンはリコリスを見た。
「リコリスが炉の導管を封じた。炉と空島の繋がりが正常になった。以前より、私の負担が減った。グランベルが干渉していた七年間は、それだけ余分な力を使っていた」
「気づかなかったんですか、負担が増えていることに」
「気づいていたが、仕方がないと思っていた。変えられないことだと」
「変えられた」
「変えられた」
ノルンの声が、ほんの少し変わった。
低い声のままだったが、硬さが薄れた。
「リコリス」
「はい」
「ありがとう。昨日のことだけでなく、セレナをここまで連れてきてくれたことも」
リコリスは返事をするのに少し時間がかかった。
「セレナが来たのは、わたしの家に落ちてきたからです。わたしが連れてきたわけじゃない」
「助けて、連れてきた」
「助けたのは、放っておけなかったから」
「それが大事なことだ」
ノルンはそれ以上を言わなかった。でも、その短い言葉に、何年分かの重さがあった。
エルシアがノルンを見た。
「久しぶりだね」
「久しぶり」
「元気そうで良かった」
「エルシアも」
二人の間のやり取りは短くて、でも長い付き合いを感じさせるものだった。リコリスはどこで知り合ったのかを後で聞こうと思いながら、今は黙っていた。
「また来ます」
セレナがノルンに言った。
「来るたびに、話しましょう」
「うん。記憶も、少しずつ戻ってきてる。全部戻ったら、ちゃんと話したいことがある」
「待っています」
それだけだった。でも、セレナの顔が少し柔らかくなったのを、リコリスは見ていた。
塔へ向かう前に、リコリスは一度、空島全体を見回した。
光る草が、朝の光を受けて揺れていた。白い木が、葉を透かして光を通していた。空獣が、遠くを泳いでいた。炉から来た魔力が、均一に広がっているのが、皮膚を通して感じられた。
三日前より、安定していた。
完全ではない。でも、確かに良くなっていた。
セレナは、神殿を振り返った。
ノルンは何も言わなかった。
けれど、その沈黙が、ただの見送りではないことだけは分かった。
「あたし、帰ってもいいのかな」
セレナが言った。
「森の家に?」
「うん。封印の鍵なのに。ノルンをまた一人にするのに」
リコリスは答えを探した。
「帰って終わりじゃない。戻って、また来ればいい」
「それで足りる?」
「足りるようにする。セレナ一人が空島に縛られなくていいように、わたしも調べる」
塔を下りた。
雲を抜けて、地上が見えてきた。森が広がって、村の屋根が見えた。川が光った。
地上に着いたとき、リコリスは空気を吸った。
水気を含んだ、重い空気だった。草の匂いと、土の匂いがした。
懐かしかった。
「帰ってきた」
セレナが言った。
リコリスも、同じ言葉を胸の中で繰り返した。
森を歩いて、家へ向かった。
エルシアも、少し遅れてついてきていた。大きな荷物を肩にかけ、疲れた顔をしていたが、足取りは乱れていなかった。
いつもの道だった。根が張っている場所、滑りやすい石、素手では触ってはいけない葉。全部覚えている。セレナも覚えていた。前を歩くリコリスが声をかけなくても、気をつけるべき場所では自分で避けた。
「ここ、最初に来たとき転びそうになったよね」
セレナが立ち止まった。苔で濡れた石の前だった。
「モクが先に踏んで、滑って転びそうになったのを覚えてる」
「我は転んでおらん」
「転んだ寸前だった」
「寸前と転んだは違う」
リコリスは少し笑った。
家が見えてきた。
石造りの小さな家。薬草を干すための棚。雨水を受ける樽。屋根に煙突。
何も変わっていなかった。
でも、違う場所を経て戻ってくると、前と違って見えた。小さいと思っていた家が、ちゃんとした家に見えた。当たり前だと思っていた棚や樽が、必要なものとして見えた。
「ただいま」
セレナが家に向かって言った。
中に入ると、薬草の匂いがした。
空島でも坑道でも嗅がなかった匂いだった。乾燥した月草と、煮詰めた霧苔と、瓶に詰めた星砂草の、混じり合った匂い。
「帰ってきた感じがする」
セレナが言った。
「空島より、こっちの方が帰ってきた感じがする」
「同じことを言ってたね、塔を降りたとき」
「本当のことだから」
エルシアが荷物を下ろした。
「私は少し横になっていいかな」
「どうぞ。奥の部屋を使ってください」
「ありがとう」
モクが棚の上に飛び乗った。
「木の実パンはあるか」
「ない。これから焼く」
「いつできる」
「一刻後」
「長い」
「文句を言う前に手伝う?」
「我に何ができる」
「木の実を選ぶくらいはできるでしょ」
モクは少し考えてから、棚から降りた。
「やってやろう」
セレナが笑った。リコリスは木の実の袋をモクの前に置いた。
夕食の準備を始めた。
豆を水に浸す。玉ねぎと芋を切る。月草の粉を出しておく。セレナが野菜を切る。モクが木の実を選ぶふりをしながら、二個くらい食べる。リコリスがそれを横目で見て、何も言わない。
いつもの夕方だった。
ただし、いつもよりひとり多かった。エルシアが奥の部屋で休んでいて、夕食の頃には出てきた。
三人と一匹で食べた。
木の実パンが焼けた。モクが一枚目をすぐに食べた。
「やっぱりここのパンがいい」
「空島では食べなかったの?」
「持って行ったぶんは食べた。でも足りなかった」
「何枚持って行った?」
「六枚」
「それを二日で食べたの?」
「我は育ち盛りじゃ」
セレナが笑った。エルシアも笑った。
食事が終わってから、エルシアが話を切り出した。
「グランベルの件は、王都での審査が続く。数か月はかかると思う。その間、動けないとは思うけど、諦めた人間ではないから」
「また来る」
「来ると思う。ただし、今度は証拠が積み上がっている。来るたびに、立場が弱くなる」
「弱くなるまで、待つしかない」
「急かすより、待つ方が賢いと思う」
リコリスは頷いた。
「アルヴィンはどうなりますか」
「グランベルの任務に従っていたことの責任を問われる可能性があるけど、内部告発に協力した形だから、軽減されると思う。詳しくはアルヴィン自身の話を聞かないと分からない」
「話せる機会があれば、聞きます」
「あると思うよ。あの人、たぶんまた来る」
「リコリスに用があって?」
「用がなくても来そうな顔をしてた」
リコリスは少し考えた。アルヴィンが来る理由は、話すと約束したから、だった。全部を話す、と言った。その約束を守る人間だと、リコリスには分かっていた。
「来たら話します」
「それでいい」
夜が深くなった。
エルシアが先に眠った。モクは棚の上で丸くなった。
リコリスとセレナが、薬棚の前に座っていた。空島から持ち帰った素材が、棚の隅に並んでいた。浮遊石、空草の露、星霧水晶の粉、風結びの糸。
「これ、全部調べ終わった?」
「まだ半分くらい。戻ってきたらやろうと思ってた」
「明日から、手伝う」
「うん」
セレナは浮遊石を手に取った。
「これ、触ると軽い感じがする」
「触ると、手が少し浮く感覚があるでしょ」
「ある。不思議な感触」
「浮力を持った魔力を含んでるから。これをどう調合に使えるか、まだ考えてる」
「例えば?」
「重いものを運ぶとき、荷物に使えるかもしれない。あるいは、崩れた道を応急処置で浮かせることもできるかもしれない」
「崩れた道を浮かせる」
「遺跡の橋が崩れていたとき、使えたら良かったと思った場面があった」
「あのとき、リコが先に行って、引っかかってたやつ?」
「引っかかってない。慎重に進んでいた」
「ひっかかってたよ。足が」
「そんなことはない」
セレナが笑った。リコリスも笑いたかったが、認めたくないので笑わなかった。
「炉の修復のとき、結び直す魔法を使ったんだよね」
「導管でも使った」
「エルシアに、師匠が必要なくなる段階って言われてたね」
「聞こえてた?」
「聞こえてた。リコはどう思った?」
「まだ必要だと思ってる。でも、以前とは違う意味で必要だと思ってる」
「違う意味?」
「以前は、教えてもらう必要があった。今は、一緒にいる必要がある。それが違う」
セレナはリコリスを見た。
「それって、あたしとも同じだね」
「同じかもしれない」
「あたしもリコに教えてもらうことが減ってきた。でも、一緒にいたい」
「それが違う段階、ということだと思う」
「良い段階?」
「悪くない」
セレナは浮遊石を棚に戻した。
「ねえ、リコ」
「うん」
「記憶が戻ったとき、あたしはどうなると思う?」
急な問いだった。でも、リコリスには答える準備があった。
「セレナのままだと思う」
「変わらない?」
「変わるかもしれない。でも、今のセレナがなくなるわけじゃない。記憶が増えるだけで、今を忘れるわけじゃないから」
「今を忘れない?」
「忘れない。ここで過ごした時間は、記憶が戻っても消えない」
セレナは少し考えた。
「怖くなくなった」
「記憶が戻ることが?」
「うん。リコがそう言うなら、そうだと思える」
リコリスには、それが少しくすぐったかった。そう言うなら、という信頼の置き方が、当たり前のようで、当たり前ではない。
「セレナが怖くないなら、わたしも怖くない」
「わたしが怖いと、リコが怖いの?」
「セレナが不安なら、その不安をわたしも感じる。そういうことだと思う」
セレナはしばらく黙っていた。
「リコって、そういうこと言えるようになったんだね」
「前は言えなかった?」
「言えたかもしれないけど、言わなかったと思う」
「そうかもしれない」
「変わったね」
「セレナが来てから変わったことが多い。良いことかどうかは分からない」
「良いことだよ」
「セレナがそう言うなら、そうかもしれない」
セレナが笑った。今度はリコリスも少し笑った。
窓の外を見ると、星が出ていた。
空島ほどではないが、森の上は星が多い。木々の隙間から、いくつかの星が見えた。
遠くで、空獣が鳴いた。
空島から降りてきたのかもしれないし、地上にも空獣に似た何かがいるのかもしれない。リコリスには分からなかったが、聞こえた声は空島で聞いた声に似ていた。
「明日から、普通の日に戻る」
リコリスが言った。
「普通の日って、採取して、薬作って、モクがうるさくて、ご飯を一緒に食べるやつ?」
「そう」
「好きだよ、その日」
「わたしも」
「それが続けばいい」
「続けたい」
薬棚の前で、二人とも少し黙った。
その沈黙は、気まずくなかった。会話が続かなくなったのではなく、言いたいことは言い切ったあとの、静かな時間だった。
モクが棚の上で寝返りを打った。
ぽとりと木の実が落ちた。寝ながら隠しておいたものが落ちたらしい。
「木の実、隠してたんだ」
「また明日に取っておくつもりだったんじゃろ」
「起きてたの?」
「今起きた」
リコリスは木の実を拾って、モクの前に置いた。
「おやすみ」
「おやすみじゃ」
リコリスは毛布を用意した。セレナの分と、自分の分。
暖炉の火が落ちかけていた。薪を一本足すと、また明るくなった。
「おやすみ、リコ」
「おやすみ、セレナ」
静かな夜だった。
虫の声と、葉擦れと、モクの寝息が重なって、いつもの夜の音になった。
リコリスは目を閉じた。
今夜はぐっすり眠れると、ちゃんと思えた。




