第十八章 森の家に灯る朝
目が覚めたとき、天井が見えた。
石造りの天井だった。染みの形を覚えている。右上に小さな三角形の染みがあって、その横に細長い染みが伸びている。子どもの頃から見てきた天井だった。
森の家にいる。
それだけで、体が少し緩んだ。
外から鳥の声がした。朝の早い時間の鳥だった。日の出と一緒に鳴き始める種類で、リコリスは毎朝この声で目が覚める。目覚まし代わりだと師匠が言っていた。
隣を見た。
セレナが眠っていた。
銀がかった金の髪が、毛布の上に広がっている。寝息が規則正しい。完全に眠っていた。
リコリスはゆっくりと起き上がった。
暖炉の火が落ちていた。薪を入れて、火を起こした。湯を沸かす鍋をかける。朝の動作を順番にこなしながら、体が目を覚ましていく。
モクが棚の上で片目を開けた。
「おはよう」
「おはようじゃ」
「何時くらい?」
「日の出から一刻ほど」
「エルシアは?」
「まだ寝ておる。昨日かなり歩いたからの」
リコリスは湯が沸くのを待ちながら、薬棚を見た。空島から持ち帰った素材が、昨日と同じ場所にあった。浮遊石、空草の露、星霧水晶の粉、風結びの糸。地下で採った星鉱石も、小瓶に入って隅にある。
今日から、これらを本格的に調べ始める。
やることがある、という感覚が、朝から落ち着いていた。
湯が沸いた。月草の茶を入れた。
セレナが起きてきたのは、茶の準備ができた頃だった。
「おはよう」
「おはよう。茶、飲む?」
「飲む」
向かいに座った。両手で椀を持って、一口飲んだ。目がまだ半分閉じていた。
「よく眠れた?」
「よく眠れた。久しぶりに、夢を見なかった」
「夢を見ない方が良かった?」
「今回は。空島でいろんな夢を見てたから、何も見ない夜が欲しかった」
リコリスは自分の椀を持った。
「昨夜は眠れた?」
セレナに聞かれた。
「眠れた。ちゃんと」
「良かった。眠れない夜が多かったから」
「多すぎた。でも昨夜は違った」
「何が違った?」
「帰ってきたから」
セレナはそれを聞いて、少し笑った。椀を両手に持ったまま笑っていた。
「それだけ?」
「うん、それだけ」
エルシアが起きてきたのは、朝食の準備を始めた頃だった。
「よく眠れたかい?」
「よく眠れた。この家、寝心地がいい」
「師匠が選んだ家だから」
「私が選んだ家を、リコがこんなに整えてくれるとは思っていなかったよ」
「生活するには必要なことをしただけです」
「棚が増えてる。薬棚も整頓されてる。前に来たときとは別の家みたいだ」
前に来たとき。リコリスが覚えている最後にエルシアが家にいたのは、三年前だった。それから一人で整えてきた。誰かに見せるためではなく、自分が使いやすいように。
「使いやすくしていただけです」
「それを整えるというんだよ」
朝食は豆と固パンと昨夜の残りのスープだった。みんなで食べた。
モクが木の実パンを要求した。
「昨夜焼いたのがある」
「今日の分は?」
「今夜焼く」
「それでは朝が困る」
「我が困るだけでしょ」
「我にとっての困りごとは、家全体の困りごとじゃ」
「そういう理屈は認めない」
セレナが笑った。エルシアも笑った。
食後、エルシアが言った。
「今日から、私もしばらくここにいる。いいかな」
「いてください。むしろいてほしかった」
「迷惑にならないように」
「迷惑じゃないです。作業を手伝ってもらえると助かる」
「作業って、空島の素材の分析?」
「それと、修復薬の改良。今回の試作品で概ね動いたけど、もっと効率を上げたい。それと」
リコリスは少し間を置いた。
「結び直す魔法を、もっと使いこなしたい。練習を続けたい」
「もちろん」
「師匠が必要です、まだ」
エルシアは少し笑った。
「言ってくれると助かる」
午前中は分析作業をした。
浮遊石から始めた。砕いて試薬に浸すと、以前と同じ反応が出た。次に、浮遊石の欠片を水に入れた。浮いた。水面で止まらず、水の上にほぼ接触しないまま浮いた。
「やっぱり浮力を持ってる」
「大きい石を使ったら、どのくらい持ち上げられるんだろう」
「実験してみる」
セレナが庭から石を持ってきた。手のひら大の石を、浮遊石の欠片に糸で括りつけた。糸を持ってぶら下げると、石の重さが減った。完全には浮かなかったけど、明らかに軽くなった。
「欠片の量に比例して浮力が上がるなら、大量に使えば重いものを浮かせられる」
「橋が壊れたとき、浮かせて渡れる?」
「壊れた橋の石を浮遊石で補強するのは難しいかもしれない。でも、仮の橋を浮かせて渡ることはできるかもしれない」
「仮の橋」
「板に浮遊石を付ければ、川の上に浮かせておける。重さを支えられるかどうかは、もっと実験が要るけど」
「面白い」
エルシアが横から見ていた。
「修復薬と組み合わせるのも面白いね。崩れた石組みを浮かせながら修復する」
「思いつかなかった。でも確かに、同時にやれたら効率がいい」
「リコが修復魔法を使いながら、セレナが浮遊石で支える」
「二人でやれることが増える」
セレナが浮遊石の欠片を見た。
「あたしも修復魔法、使えるかな」
「飾りが古代装置に反応するなら、似た原理で使える可能性がある。やってみる価値はある」
「教えてもらえる?」
「今日は分析を続けて、明日から練習を始めよう」
「やった」
昼前に、ミラが来た。
石橋のそばで声をかけてきた。声が明るかったので、悪い知らせではないと分かった。
「リコリスさん、村で具合の悪かった人たちが、薬のおかげで良くなりました」
「それは良かった」
「おじいさんも、昨日から畑に出られるようになったって。皆さんから、お礼が言いたいって言っています」
「直接は難しいけど、気持ちだけいただきます」
「リコリスさん、最近村に来ないと思っていたら、色々あったんですか?」
「色々あった。でも、落ち着いた」
「良かった。騎士団の人たちも、大人しくなったし」
「アルヴィンは?」
「隊長さんは村にいます。昨日、何かを考えてる顔をして、ずっと橋の辺りにいました」
「そっか」
「リコリスさんに会いたいんじゃないかと思います。わたしそう言ったら、隊長さん何も言わなかったけど、否定もしなかった」
リコリスは少し考えた。
「伝えてもらえますか。時間があるとき、来てもらえれば話します」
「伝えます」
ミラが村へ戻った。
セレナが後ろから来た。
「アルヴィン、来るかな」
「来ると思う」
「怖い?」
「怖くない。話すと約束したから」
「リコが怖くないなら大丈夫だよ」
「セレナが言うと、なぜか本当に大丈夫な気がする」
「あたしの言葉の力」
「力があるかどうかは分からないけど、効く」
セレナが笑った。
午後の分析作業を続けた。
空草の露は、飲むと体が軽くなる効果があることをモクが確認していた。今日は量を測って、効果の継続時間を調べた。少量で半刻ほど効果が続くことが分かった。
「これ、高所での作業に使えそう」
リコリスが言うと、セレナが顔を上げた。
「飲むと体が軽くなるなら、高いところが怖くない?」
「物理的に軽くなるだけで、怖さは変わらないと思う」
「試してみて」
「試さなくていい」
即答すると、セレナが少し笑った。
星霧水晶の粉は、炉の修復薬に使った成分だった。今日は別の用途を試した。空間に散布すると、空気中の魔力が安定する効果があることが分かった。
「採取地に持っていくと、作業しやすくなるかもしれない」
リコリスは粉を小瓶に戻しながら言った。
「魔力が乱れてる場所で使える?」
「使えると思う。ただし量が要る。今手元にある量では、広い空間には足りない」
「また空島から採取してくれば」
「次に行ったとき」
「次はいつ行く?」
「ノルンが呼んだとき、か、セレナが行きたいとき」
「じゃあ近いうちに行く。ノルンにまた話したいことがある」
リコリスは分析帳に書き込みながら、頷いた。
夕方近くに、石橋の方から足音がした。
一人だった。
アルヴィンだった。
鎧を着ていなかった。旅装に近い格好で、剣だけ帯びていた。森の中に入る格好ではなく、話しに来た格好だった。
リコリスは外に出た。
「来ると思っていました」
「約束をしたから」
「全部話します。どこから聞きたいですか」
アルヴィンは少し考えた。
「最初から」
「長くなります」
「構わない」
二人で石橋のそばに座った。セレナが外に出てきて、少し離れたところで空を見ていた。邪魔をしないように、でも近くにいるように。
リコリスは最初から話した。
セレナが落ちてきた夜。機械兵のこと。村へ行ったこと。空島のこと。千年前の封印の話。魔女が世界を守ったこと。地下の星の炉のこと。グランベルの目的。導管を封じたこと。封鎖の術式のこと。
全部話し終えるのに、日が傾くまでかかった。
アルヴィンは途中で口を挟まなかった。最後まで聞いてから、しばらく黙っていた。
「魔女が世界を守った」
「千年前に。今は、その事実が伝わらなくなっている」
「私が信じていたことと、逆だ」
「そうです」
「家族を失ったのは、本当に魔女が原因ではなかったのか」
「十二年前の機械兵の暴走は、グランベルが関係していた可能性が高い。でも、確認はできていない。断言はできない」
アルヴィンは空を見た。夕方の色だった。
「断言できなくても、可能性があるということは分かった」
「はい」
「私は、間違えた相手を追いかけていた」
「意図してではない。信じていたことが、違った」
「それで許されるとは思わない」
「許すとか許さないとかじゃなくて」
リコリスは続けた。
「間違いに気づいて、どう動くかが、これからのことだと思います」
「これからのこと」
「グランベルの件は、まだ終わっていない。封印の問題も、長期的に続く。魔女狩りの見直しも、時間がかかる。どれも、一人ではできないことです」
「一緒にやれということか」
「やれるかどうかは、アルヴィン次第です。わたしは一緒にやれると思っています」
アルヴィンは草を見た。
「魔女と騎士が、一緒にやる」
「おかしいですか」
「おかしい。でも、昨日の空島でも、おかしいことが普通にあった」
「空島に来たんですか?」
「グランベルを追って。おかしな草が光っていた」
「光る草です。魔力に反応する」
「踏んだら光った。怖かった」
「慣れます」
「慣れるのか、あれに」
「慣れました、わたしは」
アルヴィンはリコリスを見た。
「リコリス」
「はい」
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「あなたは、魔女であることが嫌だったか」
予想していなかった問いだった。リコリスは少し考えた。
「嫌だったことはある。人間に見つかることが怖くて、ここに隠れていた。魔女だから怖がられると思っていた。それは嫌だった」
「今は」
「今は、嫌じゃない。魔女だから使える力があって、その力でできることがある。それは、悪くないと思うようになった」
「何が変わった?」
「セレナが来た。外の世界を見た。知らなかったことを知った。それが全部変えた」
アルヴィンは少し間を置いた。
「私も、変わらなければならない」
「ならなければ、ではなくて」
「変わりたい、か」
「そちらの方が、続くと思います」
アルヴィンは立ち上がった。
「また来る」
「来てください。次はエルシアも一緒に話せると思います」
「師匠か」
「はい。詳しいことを知っているのはエルシアです」
「分かった」
アルヴィンは村の方へ向かった。
途中で、セレナのそばを通った。二人が少し何か話していた。短い言葉のやり取りで、それからアルヴィンが歩き続けた。
セレナが戻ってきた。
「何を話したの?」
「あたしが、機械兵が来たときに逃げられなかったのはごめんって言ったら、アルヴィンが、あなたのせいではないって言ってくれた」
「良かった」
「うん」
夕方が来た。
暖炉に火を入れて、夕食の準備をした。今日はセレナが主導で料理をした。豆と野菜を炒めて、スープにした。エルシアが横で少し手伝った。モクが台所の隅で様子をうかがっていた。
食事をしながら、エルシアが言った。
「グランベルの件が落ち着くまでの間、何をするか考えておく必要があるね」
「普通の日を続ける」
リコリスはそう答えた。
「普通の日」
「採取して、薬を作って、ミラに届けて、素材を分析して、魔法の練習をする」
「それだけ?」
「それが全部できれば、長い間使えることが増える。急いで動くより、着実に準備を続ける方がいい」
「そうだね」
「グランベルがまた動こうとしたとき、今日よりもっと対処できるようになっていたい」
「賢い判断だよ」
モクが口を挟んだ。
「木の実パンの補充も普通の日に含まれると考えてよいか」
「含まれる」
「ならば賛成じゃ」
セレナが笑った。エルシアも笑った。
夕食が終わった。
皿を洗いながら、リコリスは窓の外を見た。
星が出ていた。
雲が少なく、今夜は星がよく見えた。木々の隙間から、いくつもの星が見えた。空島ほどではないが、じゅうぶんに多かった。
「ねえ、リコ」
セレナが隣に来た。
「うん」
「ここ、好き?」
「好き」
「前から好きだった?」
「前から好きだった。でも、好きだと思ったのは、最近かもしれない」
「違うの、好きと、好きだと思うのは?」
「好きであることは知っていた。でも、言葉にしたことがなかった。あえて言わなくていいと思っていた」
「なんで言わなくていいと思ってた?」
「一人でいたから。言う相手がいなかった」
セレナは窓の外を見た。
「今は?」
「今はいる」
「だから言える?」
「言いたくなった」
セレナは少し間を置いた。
「ここが好き。森の奥の、この家が。暖炉があって、薬棚があって、モクがいて、リコがいる。ここが好き」
「わたしも」
「ここが、帰る場所だと思ってる」
「思ってくれているなら、いい」
モクが棚から降りてきた。
「我も、ここが好きじゃ」
「初めて言ったね」
「言わなくても分かると思っておった」
「言った方がいい」
「そういうものか」
「そういうもの」
モクは鼻を鳴らした。それから、また棚に上がった。
エルシアが奥の部屋から声をかけてきた。
「もう寝るよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみなさいじゃ」
暖炉の火が落ち着いた色になった。
リコリスは毛布を用意した。セレナの分と、自分の分。
窓の外で、鳥が鳴いた。夜中に鳴く種類の鳥で、声が低かった。森の中にいる鳥だ。昔から聞いていた声で、聞くたびにここにいると分かる声だった。
「おやすみ、セレナ」
「おやすみ、リコ」
火の音がした。
虫の声がした。
葉擦れの音がした。
リコリスは目を閉じた。
すぐに眠れた。




