第十五章 セレナの使命
グランベルが村を出たのは、証拠が王都へ届いてから六日後だった。
ミラが知らせに来たのは朝だった。
「昨夜のうちに出発しました。馬車で、北の方向へ。従者も全員一緒でした」
「騎士団は?」
「残っています。アルヴィン隊長は村にいます」
リコリスは頷いた。
「ありがとう、ミラ。しばらくはここへ来ない方がいい」
「何かあるんですか」
「終わったら話す。今は、身の安全を優先して」
ミラは頷いた。何かを察した顔をしていたが、余計なことは聞かなかった。それがミラという人間だった。
ミラが去ってから、家に戻ってエルシアとセレナに話した。
「動いた」
エルシアが立ち上がった。
「王都への連絡が届いた。グランベルは対応に戻らなければならなくなった」
「どのくらい時間がある?」
「早ければ二日で戻ってくる。長くても四日。炉の修復は今日中に終わらせたい」
「今日中に」
「できる?」
リコリスは修復薬の瓶を確かめた。四本作ってあった。炉の状態を見てから、使う量を判断する必要があるが、四本あれば足りるはずだ。
「できます」
「セレナは風の塔へ向かう。炉の修復が安定したら、リコも合流する」
「一緒に行けないの?」
セレナが尋ねた。エルシアに向かってではなく、リコリスに向かって。
「炉は地下にある。空島とは別の方向だから、最初は別行動になる」
「でも、後で合流できる?」
「する。必ず」
セレナはリコリスを見た。必ず、という言葉を確かめるように、少しの間見ていた。
「分かった」
準備は昨日から整えていた。
修復薬、抑制薬、煙霧薬、発光薬。それに加えて、結び直す魔法を使うための補助薬もエルシアが作ってくれていた。魔力の流れを読みやすくする薬で、精度が上がる。
セレナは増幅薬と食料をまとめた。風の塔までの道は分かっている。一度行ったことがあるから、一人でも行ける。モクが一緒に行くことは最初から決まっていた。
「我はセレナと行く」
「案内役として?」
「案内役と護衛じゃ。空の娘を一人にはせん」
「護衛にしては戦力が」
「おぬしに言われたくない」
セレナが笑った。
出発前に、リコリスはセレナに修復薬を一本渡した。
「空島で炉と同じ乱れが起きていたら、使える。使い方はノルンに聞いて」
「持っていく」
「気をつけて」
「リコこそ」
セレナはリコリスの外套の袖を、少し引いた。引いてから、何か言おうとして、やめた。代わりに短く言った。
「待ってる」
「うん」
セレナとモクが、塔の方向へ向かった。
リコリスはその背中を見送った。エルシアが隣に来た。
「行くよ」
「はい」
南の丘へ向かった。
エルシアと二人で歩くのは、久しぶりだった。昔は毎日、採取に出るときはいつもそうだった。歩き方のペースを覚えていた。エルシアは速くも遅くもない、一定の速さで歩く。リコリスは少し遅れがちだったが、今日は遅れなかった。
「結び直す魔法、ちゃんと使える?」
「練習通りに、やれば使えると思います」
「練習通りに、が大事だよ。焦ると押し出そうとしてしまう」
「分かってます」
「グランベルの部下が残っている可能性もある」
「見張りを置いて行くかもしれない」
「煙霧薬はじゅうぶんにある?」
「三本。それと、誘導路も使えます」
エルシアは頷いた。
丘が近づいてくると、空気が変わった。魔力の濃さが増す。抑制薬がよく効いていた。
坑道の入口に、人はいなかった。
グランベルが急いで戻ったなら、見張りを置く余裕がなかったかもしれない。あるいは、こちらが来ることを想定していなかったか。
「入る」
エルシアが先に入った。リコリスが続いた。
坑道の中は、前回と同じ状態だった。壁の星の欠片が青く光り、魔力の流れが感じられた。
前回より、流れが乱れていた。
抑制薬を通しても分かるくらい、乱れが大きくなっていた。六日間で悪化したのか、それともグランベルが去り際に何かをしたのか。
「急ぐ必要がある」
「分かっています」
炉への通路を進んだ。前回は逃げることに集中していたが、今日は落ち着いて見られた。鉱石の変色がひどかった。特に炉に近い場所の壁は、赤みが強くなっていた。魔力が乱された証拠だった。
炉のある空間に入った。
人はいなかった。
炉そのものを、今日はゆっくりと見た。円形の台座は直径が十歩分くらいある。柱が七本立っていて、その間に結晶が張り巡らされている。中心部が一番魔力が濃く、近づくと皮膚が熱く感じられた。
しかし、炉の状態は前回より悪かった。
結晶の一部が曇っていた。本来は透明なはずの結晶が、表面が白く濁っている。魔力の流れが滞って、熱を持っているのだ。
「酷い」
エルシアは短い言葉だったが、深刻さが込められていた。
「修復薬を使う前に、流れを読む必要がある」
「分かっています。少し待って」
リコリスは目を閉じた。
炉から放たれる魔力の流れを感じた。普通ではない。複数の方向から、バラバラに流れが来て、中心でぶつかり合っていた。本来は一方向に流れるはずのものが、グランベルの装置による抽出で向きが変わってしまっていた。
どこから直すか。
中心からではなく、外側からだ。乱れを小さいところから整えて、中心に向かって流れを揃えていく。一気に全部を直そうとすると、逆に崩れる。
「外側から順番に、柱を一本ずつ整えます」
「私も手伝える?」
「エルシアには入口の見張りをお願いしたい。誰か来たら知らせてほしい」
「分かった」
エルシアが入口付近に立った。
リコリスは一本目の柱に近づいた。
結び直す魔法。流れに乗る。押し出さない。
目を閉じて、柱の表面に手を当てた。魔力が手のひらを押してきた。流れの向きを読んだ。本来あるべき向きとは、逆になっていた。
乗る。そっと触れる。向きを示す。
流れが少し変わった。結晶が少し、澄んだ。
時間がかかった。
一本目の柱を整えるのに、四半刻かかった。体から力が抜けていく感覚があった。自分の魔力を押し出しているのではなく、流れを読んで誘導しているのに、それでも消耗する。
「大丈夫?」
エルシアが遠くから聞いた。
「大丈夫」
二本目の柱に移った。
こちらは乱れが大きかった。グランベルの装置が接続されていた跡が残っていた。器具で引き出された方向に、流れがひどく偏っていた。
三回やり直した。
四回目に、ようやく変わった。結晶が澄んできた。熱が少し下がった。
三本目。四本目。五本目。
修復薬を使いながら進んだ。薬を柱の根元に塗ると、乱れた成分が中和されて、流れを整えやすくなった。薬と魔法を組み合わせることで、一本あたりの時間が少し短くなった。
六本目を終えたとき、エルシアが声を上げた。
「誰か来た」
リコリスは手を止めた。
「人数は?」
「二人。坑道に入ってくる」
グランベルの部下か、それとも騎士団か。どちらにしても、見つかりたくない。
「最後の柱がまだです」
「どのくらいかかる?」
「五分か、十分か」
「時間を稼ぐ」
エルシアが入口の方へ向かった。何かをしようとしている。リコリスは七本目の柱に向かった。
焦らない。
自分に言い聞かせながら、手を当てた。流れを読んだ。六本目まで整えたことで、炉全体の流れが少し変わっていた。七本目に来る流れが、前より読みやすかった。
乗る。触れる。向きを示す。
流れが動いた。
早かった。六本目までの修復が、七本目の整えを助けていた。結晶が澄んでいく。熱が下がっていく。
炉の中心部が、変わった。
バラバラだった流れが、一方向に揃い始めた。中心から外へ向かって、均一な魔力が広がった。本来の炉の状態に、近づいていた。
「終わった」
言った瞬間、入口の方から声がした。
「そこにいるのは誰だ」
騎士の声だった。
エルシアが答えた。
「旅の魔女です。古い坑道を見に来ました」
「立ち入り禁止区域だ。出てきてもらう」
「もちろん。今出ます」
リコリスは修復薬の瓶を袋に入れた。炉を一度見た。結晶が全部澄んでいた。流れが均一だった。完全ではないかもしれないが、応急処置としてはじゅうぶんだ。
入口に向かいながら、エルシアが目で合図した。こちらに来るな、という合図だった。
リコリスは別の通路に入った。採掘区画への道だ。こちらから迂回して、外に出る。
騎士は二人だった。エルシアが話しながら、入口の方へ誘導していた。声が遠ざかっていく。
採掘区画は広かったが、暗かった。発光薬を割って、手のひらに持った。星の欠片が壁に光っているが、密度が低い。
出口を探して歩いた。
採掘区画の奥に、別の出口があった。坑道の別の口で、丘の北側に出るらしかった。入口より草が多く、長く使われていない様子だった。
外に出ると、風があった。
丘の北側は、南側より傾斜が緩やかだった。木が生えていて、その中に入ればすぐに見えなくなる。
エルシアが来るのを待った。
しばらくして、エルシアが丘の南側を回ってきた。走っていた。
「追ってくる?」
「来ない。話しながら誘導した。外で別れた」
「騎士団の人間でしたか」
「そう。グランベルの部下ではなかった。たぶんアルヴィンの部下」
アルヴィンが送り込んだ人間なら、グランベルのために動いているわけではない。でも、見られたなら報告が行く。
「炉は?」
「修復できました。完全じゃないけど、応急処置としてはじゅうぶんだと思います」
「手ごたえは?」
「炉の流れが、最後に揃った感覚がありました。七本の柱が全部繋がった感じがした」
「それは本当の修復だよ」
エルシアは飄々とした口調ではなく、真剣な声だった。
「応急処置じゃない。あの炉は今、七年ぶりに正常に近い状態になってる」
七年ぶり。グランベルが介入し始めた時期と、一致した。
リコリスは手のひらを見た。少し震えていた。今度は怖さではなく、消耗の震えだった。
「次は空島へ」
「少し休んでから」
「時間が」
「十分間だけ。倒れながら行っても役に立たない」
リコリスは木の根元に座った。
空を見た。雲があって、空島は見えなかった。でも、あの向こうにある。セレナがいる。モクがいる。ノルンがいる。
待ってる、とセレナは言っていた。
待たせている間に、こちらの仕事は終わった。
次は行く番だった。
十分間で立ち上がった。
「行きます」
「行こう」
二人は森へ向かった。
塔まで半日の道を、今日は急いで歩いた。エルシアも足を速めた。普段の一定のペースより、明らかに早かった。
途中で、リコリスは聞いた。
「エルシアは、空島へ来ますか」
「来る。私も行ったことがなかったから」
「師匠が行ったことがない場所を、先に行ってしまいました」
「そうだね。どんなところだった?」
「草が光る。木が透けて見える。空獣が泳いでいる。地上より空が広く見える」
「楽しそうだ」
「楽しかったです。高いのは怖かったけど」
「高いところは昔から苦手だったね」
「師匠に手を引いてもらったこと、子どものころにありましたよね」
「あったね。崖の上で泣いてた」
「泣いてない」
「泣いてた」
リコリスは否定したが、記憶が曖昧だった。もしかしたら泣いていたかもしれない。
塔に着いたのは夕方だった。
扉に手を当てると、前より早く開いた。リコリスの魔力を、塔が覚えていた。
「速くなってる」
「来るたびに早くなると思います」
装置を起動した。光の筒が降りてきた。
エルシアが光の筒を見た。
「これで上に行けるのか」
「はい。最初は少し怖いですが、慣れます」
「慣れる、という言葉に信頼感がない」
「わたしも最初は怖かったから」
エルシアは一瞬だけためらってから、光の筒に踏み込んだ。リコリスが続いた。
体が浮いた。上へ向かう。
雲を抜けた。空島が見えた。
エルシアが黙った。
空島の景色を、黙って見ていた。リコリスが横を見ると、エルシアの表情が珍しく、ただ驚いていた。飄々とした雰囲気が、一瞬消えていた。
「本当にあるんだね」
「知ってたんじゃないんですか」
「知っていると、見ることは、違う」
それはリコリスも同意できた。自分も最初、言葉を失った。
空島の地面に降りた。
草が光った。エルシアが足元を見た。
「光る草」
「魔力に反応するんです」
「面白い」
エルシアは草を一枚摘んで、光に透かした。リコリスは先を急ぎたかったが、少しだけ待った。
それから建物の方へ向かった。
セレナの声が、遠くから聞こえた。
建物の前で、セレナとノルンが話していた。モクが二人の間で、古代文字の扉を読んでいた。
リコリスの足が、自然に速くなった。
セレナが気づいた。
「リコ」
走ってきた。リコリスも数歩、前に出た。
セレナが目の前に来た。
ぶつかる手前で止まったが、止まってから、セレナがリコリスの腕を掴んだ。ぎゅっと掴んで、そのまま離さなかった。
「終わった?」
「終わった。炉の修復、できた」
「怪我は?」
「してない」
「本当に?」
「本当に」
セレナは少し間を置いてから、手を離した。
「良かった」
声が少し違った。ずっと心配していた声だった。
リコリスはエルシアを振り返った。エルシアは少し離れたところで、空を見ていた。空獣が頭上を泳いでいた。気を遣っているのか、本当に空獣が気になっているのか、判断がつかなかった。
ノルンが近づいてきた。
「リコリス」
「名前で呼んでくれるんですね」
「一度だけ」
「それでいいです」
「炉の状態が変わった。安定した流れが、ここまで届いている。修復できたということか」
「できました」
ノルンはそれを聞いて、少し間を置いた。
「ありがとう」
感情の薄い声だったが、その一言は本物だとリコリスには分かった。
「封印の状態は?」
「安定し始めている。炉が修復されたことで、ここへの魔力の供給が回復した。あとは時間をかけて戻していけばいい」
「セレナの力が必要でしたか」
「少し使ってもらった。炉の回復に合わせて、空島側から補強する作業を」
セレナが頷いた。
「飾りが役に立った。ノルンが教えてくれたやり方で、やってみたら動いた」
「うまくいったんだ」
「うまくいった。最初は分からなかったけど、コツを掴んだら自然にできた」
ノルンが、わずかに表情を動かした。
誇らしさに似た何かだった。セレナのことを、長く見てきた者の顔だった。
エルシアが近づいてきた。ノルンを見た。ノルンもエルシアを見た。
「エルシア」
「ノルン。久しぶり」
知り合いだった。
リコリスとセレナが同時に二人を見た。
「知ってるんですか」
「昔、少し」
エルシアが飄々と言った。ノルンは何も言わなかったが、否定もしなかった。
「師匠、どういう経緯で」
「長い話だから、あとで」
またあとで、だった。でも今日は、怒らなかった。あとで、が本当に来ることを知っているから。
空が夕方の色に変わりかけていた。
光る草が、風に揺れた。空獣が三頭、島の縁を回っていた。
リコリスは空を見た。
炉が直った。封印が安定し始めた。グランベルは村を出た。アルヴィンが動いてくれている。セレナが隣にいる。
全部が終わったわけではない。グランベルはまた動く。問題は続く。でも、今日の分は終わった。
セレナが空を見ながら言った。
「次は何をする?」
「今夜は休む」
「その次は?」
「考える。全部が落ち着いてから」
「全部が落ち着いたら、どうしたい?」
リコリスは少し考えた。
「森の家に帰りたい」
「帰ったら?」
「薬を作る。ミラに届ける。モクに木の実パンを焼く」
「それだけ?」
「それが普通の日だから」
セレナは少し笑った。
「普通の日か」
「セレナも一緒に帰れたら、普通の日になる」
セレナはリコリスを見た。
「帰るよ。絶対に」
「うん」
夕方の光が、二人の髪を同じ色に染めた。
空獣が頭上を泳いで、光る尾を引いた。
草が揺れて、光が散った。
リコリスはそれを見ながら、普通の日を思った。森の家で薬を煮て、セレナが野菜を切って、モクが木の実を要求する、そういう日を。
遠くない、と思えた。
今日よりも、少し遠くない。




