第十三章 師匠エルシアの告白
エルシアが来たのは、三日後の夜だった。
音もなく来た。夕食を終えて、リコリスが薬の仕込みをしていると、戸口の向こうに気配がした。モクが耳を立てて、それから力を抜いた。力を抜いたということは、敵ではないと判断したということだ。
戸を開けると、エルシアが立っていた。
長い黒髪を後ろでゆるく結び、旅装束の上に古い魔女外套を羽織っていた。リコリスが覚えているより少し痩せたように見えたが、背筋はまっすぐだった。紫の瞳は穏やかで、飄々とした雰囲気は変わっていなかった。
ただ、外套の裾には旅の土がついていた。
遠い場所を歩いてきた人の姿だった。
「久しぶり、リコ」
リコリスは返事をするのに、少し時間がかかった。
「久しぶりです」
「煙を見た。急いで来た」
「急いで、にしては三日かかった」
「遠かったんだよ。南の港町にいたから」
エルシアは家の中を見回した。薬棚、調合帳、空島から持ち帰った素材。それからセレナを見た。
「この子が」
「セレナです。空から来た」
「空から」
エルシアはセレナを見た。セレナもエルシアを見た。
「リコの師匠さん?」
「そう。エルシアって言います」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
エルシアはモクを見た。モクは棚の上で目を細めていた。
「モクも元気そうで良かった」
「おぬしが心配するほどやわではない」
「そうだね」
エルシアは卓に座った。リコリスは湯を沸かした。お茶を出す間、エルシアは黙って待っていた。急かさなかった。それはずっとそうで、急かさない代わりに、必要なことも言わないのがエルシアだった。
お茶を置いてから、リコリスは向かいに座った。
「話せることを全部話します。長くなります」
「聞く」
リコリスは順番に話した。セレナが落ちてきた夜から、機械兵のこと、村でのこと、アルヴィンのこと、空島でのこと、ノルンのこと、封印の話、そして地下の坑道で見た白髪の男のことまで。
エルシアは途中で口を挟まなかった。お茶を飲みながら、ただ聞いていた。
全部話し終えると、しばらく沈黙があった。
「よく生きてたね」
「そういう感想ですか」
「正直な感想だよ。普通の見習い魔女なら、三回は死んでた」
「普通じゃないと言いたいんですか」
「リコは普通じゃない。最初から知ってた」
リコリスはお茶を見た。
「知ってたなら、話してほしかった」
「そうだね」
あっさり認めた。リコリスは少し力が抜けた。もっと言い訳をすると思っていたのに。
「何から話せばいい?」
「わたしのことから」
「リコのこと」
「わたしがここに隠されてた理由。なぜ外に出るなと言っていたのか」
エルシアはお茶を一口飲んだ。
「リコの魔力は、特別な性質を持っている。空島の魔力と地下の魔力の両方に干渉できる。普通の魔女は、どちらかに強い親和性を持つものだけど、リコは両方に等しく反応する」
「それが分かったのはいつですか?」
「リコが六歳のとき。初めて魔法を使った日に、空と地面が同時に揺れた。あのときから分かってた」
六歳。覚えていない。でも、その日のことをエルシアが覚えているのは伝わった。
「それがなぜ、隠す理由になるんですか?」
「その力を知っている者がいたから」
リコリスはエルシアを見た。
「グランベルです、か?」
エルシアが少し目を細めた。
「名前を知っているんだね」
「村の市で名前を聞きました。魔女が絡むと容赦しない人だって。坑道で見たことと合わせて、あの人が関わっているんだと思いました」
「そう。グランベルは十年以上前から、空島の古代装置を支配しようとしていた。そのために必要な三つのものを探していた。封印の鍵となる者、地下の炉に干渉できる者、そして空島の装置を動かせる魔力源」
「三つ全部を、この周辺で探していた」
「そう。セレナが封印の鍵。リコが炉と空島に干渉できる者。魔女の魔力が、魔力源として使える」
リコリスは手のひらを見た。自分の手から出る魔力が、そういうものとして見られていたということだ。
「リコを森に隠したのは、グランベルの目から守るためだった」
「でも、わたしには何も言わなかった」
「言えば、リコが自分で判断しようとする。判断した結果、外へ出ようとする可能性があった」
「それはわたしの判断でしょう」
「そうだね」
またあっさり認めた。
「分かってた。でも、怖かった」
エルシアの声が、少し変わった。飄々とした雰囲気の下に、別のものがあった。
「リコが傷つくのが怖かった。グランベルに捕まったら、どうなるか分かっていたから。だから何も言わずに、ここに置いておこうとした」
「それは、わたしのためではなくて、あなたが怖かったということです」
言ってから、言いすぎたかと思った。でも、取り消さなかった。
エルシアは少しの間、お茶を見ていた。
「そうかもしれない」
「怖いなら、一緒にいてくれれば良かった」
「旅に出たのは、グランベルの動向を探るためだった。リコをここに置いて、私が外で情報を集める方が、二人の安全を守れると思った」
「思った、で決めないでほしかった」
「ごめん」
エルシアは顔を上げた。
「本当に、ごめんね、リコ」
謝られると、怒りの置き場所が分からなくなった。怒っている。それは本当だ。何も知らされなかったことが、今も引っかかっている。でも、エルシアが全部を考えていたことも、伝わった。
考え方が、間違っていた。でも、考えていなかったわけではない。
「全部許したわけじゃないです」
「分かってる」
「でも、来てくれたことはありがとうございます」
セレナがお茶を一口飲んで、少し間を置いてから言った。
「エルシアさん、魔女たちが世界を守ったって話、知っていましたか?」
「知っていた。魔女の中でも、一部の者しか伝えていない話だけど」
「リコには言わなかった」
「必要になったときに、自分で知る方がいいと思っていた。また、私の判断で」
「そうですね」
セレナは責めていなかった。ただ確認していた。
「グランベルが炉を乱しているのは、どのくらい前から?」
「七年前から、少しずつ。最初は気づかなかった。三年前に確信した」
「三年間、一人で対処してたんですか?」
「対処できていたわけじゃない。監視していた。防ぐ手段が見つからなかった」
「炉の修復薬を試作しました」
エルシアが顔を上げた。
「作れたの?」
「試作品です。まだ炉で試せていない」
「見せて」
リコリスは試作した薬を出した。エルシアが瓶を手に取って、光に透かした。
「成分は?」
「星霧水晶の粉を主成分に、星鉱石の欠片と霧苔の安定剤」
「空島の素材を使ったんだ」
「空島から採取してきました」
エルシアは瓶を見たまま、しばらく黙った。
「理論的には、使える」
「でしょうか」
「使えると思う。ただし、炉の近くで使わないと効果が出ない。炉の内部に直接流し込む必要がある」
「グランベルたちがいる場所に、また行かなければならない」
「一人では無理だね」
「分かってます」
リコリスはエルシアを見た。
「一つだけ、教えてもらえますか」
「何を」
「わたしの魔力が、空島と地下の両方に干渉できるなら、炉の修復に使えますか」
エルシアはリコリスを見た。
「使える。でも、それはグランベルも同じ答えを出している」
「グランベルが欲しがっているものを、こちらの目的に使う、ということです」
「リコ」
「炉を修復して、封印を守る方向に使えれば、グランベルの目的は崩れる。道具として使われる前に、こちらが使う」
エルシアは少し黙った。
「その判断に、怖さはない?」
「怖いです」
「でも、やる?」
「やらないと、炉が乱され続ける。封印が弱まり続ける。それも怖い」
エルシアはお茶を一口飲んだ。
「さっき話した、リコが六歳のときのことだけど」
「はい」
「空と地面が同時に揺れたあと、リコは泣いてた。自分が何をしたか分からなくて。私がどうしたのか聞いたら、リコは、壊れちゃったかもって言った」
リコリスはその話を知らなかった。
「私はそのとき、壊してしまったのではなく、繋いだのだと思った。空と地面を一瞬、繋いだ。その力が怖くて、守ろうとして、間違えた」
「間違えた」
「閉じ込める守り方をしてしまった」
リコリスは手のひらを見た。
「わたしは、閉じ込められていたとは思っていませんでした。怖かったけど、ここは安全だったから」
「そうだね。完全に間違いだったわけじゃなかった」
「でも、外を知らなかったことは、間違いだったと思います」
「そうだね」
二人の間に、短い沈黙があった。
モクが棚から降りてきた。
「エルシア」
「何、モク」
「魔女たちが世界を守ったとき、結び直す魔法を使ったという話を聞いたことがあるか」
「ある。三層に分けると同時に、繋がりを保つために使われた魔法だね」
「リコリスに、それを教える気はあるか」
エルシアはリコリスを見た。リコリスはモクを見た。モクは両者を見ていた。
「教えてほしいです」
リコリスは言った。
「炉の修復に使えるかもしれないから、という理由だけじゃなくて。自分の力が何なのか、知りたい。知った上で、使いたい」
「知った上で、というのが大事だね」
「エルシアにも、言えます。もっと早く知りたかった」
「ごめんね」
「謝らなくていいです。知りたいと思えたのは、セレナが来たからだから」
セレナが少し驚いた顔をしてから、笑った。
「あたしのおかげ?」
「あなたのおかげ」
エルシアは二人を見て、何か言いたそうな顔をしてから、やめた。その代わりにモクを見た。
「モク、あなたも関係しているでしょ」
「我は何もしておらん」
「そう?」
「ただ、そばにいておった。それだけじゃ」
エルシアは小さく笑った。
「それが一番大事なことかもしれないね」
夜が深くなった。
エルシアは結び直す魔法の話を始めた。難しい魔法だった。力を押し込めるのではなく、流れを読んで、本来あるべき方向へ戻す魔法。自分の魔力を使うのではなく、すでにある流れに乗って動かす。
一晩では教えきれない。エルシアも分かっていて、基礎の話だけした。
深夜になって、セレナが先に眠った。
リコリスはエルシアと二人で、薬棚の前に座っていた。
「グランベルが動いてる。村に来ている」
「知ってる。来る前に、南の方で動向を確かめていた」
「早く動かなければ」
「焦らない方がいい」
「炉が乱され続けている」
「それは本当だね。でも、焦って動いて失敗する方が困る」
リコリスは調合帳を見た。
「エルシア、グランベルがアルヴィンを使っているなら、アルヴィンはグランベルの目的を知っていますか」
「たぶん知らない。アルヴィンは任務に忠実な人間だけど、グランベルの本当の目的を知れば、動揺すると思う」
「動揺した結果、どうなるか」
「それは、アルヴィン次第だね」
リコリスは少し考えた。
「アルヴィンは、整理できていないと言っていました。機械兵が村に向かったのを、わたしが止めたことについて」
「整理できていないなら、まだ動く余地がある」
「そう思います」
「リコはアルヴィンを信じようとしてる?」
「信じるかどうかより、間違えた方向を向いているなら、正しい方向を見せた方がいいと思う」
エルシアは少し笑った。
「六歳のころと、変わらない」
「どういう意味ですか」
「リコはいつも、壊れたものを直そうとする。壊れた場所を、繋ごうとする」
リコリスはその言葉を、すぐには受け取れなかった。
「直せるかどうかは、分からないです」
「直せなくても、やろうとすることが大事だよ」
「師匠らしくない言い方ですね」
「そう?」
「もっとはっきりしない言い方をすると思ってた」
「ちゃんと言えることもある」
エルシアはお茶を飲み終えた。
「明日から、結び直す魔法の練習を続けよう。グランベルが動く前に、リコが使えるようにしておく必要がある」
「どのくらいかかりますか?」
「リコの魔力なら、一週間あれば基礎は使えるようになると思う」
「それまでに、グランベルが動かなければ」
「動かないように、少し工夫する。私にもできることがある」
エルシアが何を考えているかは、すぐには分からなかった。でも、今は信じることにした。完全にではない。でも、来てくれたことは本当だから、それだけは信じた。
「エルシア」
「何?」
「来てくれてありがとうございます」
「煙を出してくれてありがとう。出してくれなければ、気づかなかった」
「気づいてほしかったから、出した」
「うん」
「それは伝わった」
夜の森が静かだった。
虫の声と、葉擦れの音だけがしていた。
リコリスは調合帳を閉じた。
明日からまた、一日ずつ進んでいく。怖いことばかりで、分からないことだらけで、それでも今夜より明日の方が、少し何かが変わるかもしれない。
そう思えるようになったのは、最近のことだった。




