4.運営、初日から胃薬を飲む
午前九時。
天裂エンタテインメント本社、運営オフィス。
ディレクター・天城仁は、紙コップのコーヒーを片手に、寝癖をそのままに自席へ滑り込んだ。
眼鏡を額に押し上げ、もう一段、深く押し下げる。寝不足の目を二度こすってから、彼は普段通りエラー監視ダッシュボードを開いた。
深夜に未分類タグで紛れ込んできた、あの一行。「姿勢制御フラグ無効化、ただし継続歩行を確認」――あれはきっと、読み取りエラーだったはずだ。今朝のログを上から流せば、自然に消えているはずだ。
そんな気軽さで、彼は画面に視線を落とした。
次の瞬間、ダッシュボードに並んでいたのは、こういう警告群だった。
> 【未分類】プレイヤー識別子『ソウ』:チュートリアル隠しボス『黒鉄狼』撃破を確認
> 【未分類】撃破までの戦闘時間:1.8秒
> 【未分類】使用スキル:(該当なし)
> 【未分類】物理判定:規格内(衝突運動量×材質係数の例外処理を実行)
紙コップが、天城の手から完全に離れた。
空中で一回転して、デスクの上にしぶきを撒く。
しかし、天城はその音を聞いていない。
「は……? いや、いやいやいや、待て待て待て」
彼はモニタに顔を近づける。眼鏡のレンズが青白い光を反射した。
「隠しボス? 1.8秒? 使用スキル該当なし? ……物理判定が規格内って、何だよ、規格内のまま隠しボスがワンパンされんのかよ!?」
声が、誰もいない朝のオフィスにわずかに響く。
天城はゆっくりと胸ポケットへ手を伸ばし、銀紙のシートを引き抜いた。指先で一錠分をぱきりと割り、躊躇いなく口に放り込む。
胃薬、一錠目。
サービス開始からまだ三週間目、その初日の朝の、最初の一錠だった。
しばらくして、隣の島から後輩エンジニアが顔を上げ、無感情に指摘した。
「天城さん、コーヒー、こぼれてますよ」
天城は、答えなかった。
胃薬を奥歯で軋らせながら、彼はもう一度、ログの一行目を読み直していた。
同じ時間、別の場所。
非公式掲示板――通称『裏掲示板』のスレッド一覧。
深夜から朝にかけて、ランキングシステムの撃破ログが断片的に流出しはじめた瞬間から、急速に伸びている新スレッドが、一本あった。
―――裏掲示板・新作「【マジ?】チュートリアル隠しボスがソロ撃破された件【誰だよ】」より―――
1 名無しの環理民
マジで撃破ログ流れたんだが?
2 名無しの環理民
嘘乙
3 名無しの環理民
いや本当。ランキング見てみ。プレイヤー名『ソウ』ってのが隠しボス討伐扱いになってる
4 名無しの環理民
はぁ? あれ推奨レベル200だぞ? 新規プレイヤーが触れるエリアじゃないだろ
5 名無しの環理民
しかも職業欄『機巧技師』だぞwww
6 名無しの環理民
はwwwwwwww
7 名無しの環理民
冗談だろw 最弱職で隠しボスソロとか草も生えない
8 名無しの環理民
チーターじゃね? 運営はよBANしろ
9 名無しの環理民
いやログ見ると外部ツール使用形跡なしだってよ。完全にシステム内の挙動らしい
10 名無しの環理民
マジ? じゃあ何で勝ったんだよw
スレッドの伸びは、止まらなかった。
十数分のうちにレス番は四百を超え、専用の派生スレッドが立ち上がる。
スレタイは『あの機巧技師、何者なんだよwww』。
誰も本名どころか職業背景すら知らない、ただ「あの」と呼ぶしかない、その男のための、最初のスレッド。
――後の通称『あの男スレ』の、まさしく発端が、今この瞬間、静かに、しかし爆発的に、書き込まれはじめていた。
◇
同じ朝、ソウは何も知らない。
チュートリアル広場の隅で、彼はゴーレムの腕部関節を最終調整している最中だった。
「うん、これでもう少し、細かい動きができるかな」
関節モーターの応答グラフを軽くなぞって、ソウは満足げに息を吐く。
整備モードを閉じ、立ち上がって、彼は肩のナビに声をかけた。
「ナビ、次のエリアって、はじまりの街だっけ?」
「《はい、マスター。徒歩で東門より約三十分の距離です――》」
……マスター。
ソウは、ふと目を見開いた。
手元のツールを止めて、肩のナビを軽く覗き込む。
「ナビ、今、マスターって、言った?」
ナビが、一瞬黙る。
羽根の動きが、ほんのわずかに止まる。
それから、いつもの抑揚なしの声に戻って、淡々と続けた。
「《……失礼しました。応答ルーチンの一時的なゆらぎです。プレイヤー、東門は北東に約一キロ先》」
「ふうん」
ソウは小さく頷いて、納得しかけて、首をほんの少しだけ傾げた。
(応答ルーチンのゆらぎ、ね……まあ、面白いから、しばらく様子を見よう)
深追いはしない。
軽く手を振って、彼はゴーレムを後ろに従え、東門の方角へ歩き出した。
運営オフィスの胃薬騒動も、裏掲示板の祭りも、ソウは何ひとつ知らない。
彼の世界の中では、ただ、新しい街への移動が今日の予定として組まれている。
ただ、それだけだった。
◇
午後の運営オフィス。
天城は、朝から机に張り付いたまま、プレイヤー『ソウ』の戦闘リプレイを何度も再生していた。
黒鉄狼の突進、ゴーレムの横滑り、パイルバンカーの一撃。
スロー再生にして、フレーム単位まで止めて、それでもまだ理解が追いつかない。
「……これ、システムアシスト、切ってるよな? 完全切断は仕様上残してあるけど、まさか本気で実用するやつがいるとは思ってなかった……」
彼はリプレイ画面の隅、ゴーレムの周囲に展開された半透明のオブジェクトに目を留める。
「しかも、『魔力回路』の上に、カスタムコードを直接書いてやがる……まるで研究室みたいに、PID制御の式が、ノードベースで……」
頭を抱える。
BAN申請ボタンの上にカーソルを置いて、戻す。置いて、戻す。
「BANは……無理だ。仕様の範囲内だ。完全に。完全に……うわぁぁぁ」
彼は三錠目の胃薬を口に放り込んだ。
ちょうど、その瞬間。
モニタの隅、マザーAI管理コンソールの中で、誰の操作も挟まないまま、新しい通知ウィンドウが自動的にポップアップした。
> 【SYSTEM】観測対象再分類:候補
> 識別子:『ソウ』
> 評価:環境進化への寄与度、閾値接近中
天城は、その通知を見て、ゆっくりと椅子の背にもたれかかった。
眼鏡をずらして、目頭を強く揉む。
「……うちのマザーAIが、勝手に再分類しようとしてる? 俺、何も指示してないんだが?」
誰も答えない。
夕日が運営オフィスの窓を赤く染め、整列したモニタの上で、長い影が静かに伸びていく。
天城は、半ば諦観の表情で、胸ポケットに手を伸ばす。
胃薬、四錠目。
その頃、ソウは『はじまりの街』の東門を、ちょうどくぐったところだった。




