2.システムアシスト、全オフ
チュートリアル広場の隅、ソウは木の棒を手に握ったまま、ぼんやりと空中の設定ウィンドウを眺めていた。
半透明のメニューを、人差し指で軽くなぞって階層を降りていく。
「ゲームバランス、動作補助、ON/OFF……うーん」
用意された切替は、大雑把なオン/オフの二択だけだった。
ソウは小さく唇を尖らせる。
「これじゃないんだよなぁ。せめてもう一段、細かく刻みたいのに」
肩の上のナビが、抑揚のない声を流す。
「《動作補助はゲーム体験の根幹をなす機能です。変更は推奨されません》」
「うん、ありがとう。でもちょっと、奥の方も覗いてみたくてさ」
ソウは指先で『カスタムスクリプト』『上級者向け』と階層を降りていく。
グラフィック、サウンド、キー割り当て――並んだ項目をひとつずつ素通りして、メニューはやがて、ふだんは目に触れないだろう一行に行き着いた。
> 『開発者用デバッグメニュー(要認証)』
「あ、これだ」
画面の中央に、黒地の認証窓が立ち上がる。点滅するカーソル。
ソウは研究所のリモートシステムで毎朝叩いているコマンドのフォーマットを、ぼんやりと頭の中で並べた。
(プレフィックス、ハイフン、八桁の識別子……うん、似たような構造だね)
半分は当てずっぽうで、半分は癖で、ソウは文字列を打ち込む。
窓の縁が、ほんの一瞬だけ緑色に光った。
「……あ、通った」
膨大なフラグの一覧が、壁一面の本棚みたいに目の前で広がる。
ソウは満足そうに頷いた。
「うん。これなら遊べそうだ」
目当ての項目は、すぐに見つかった。
『SYSTEM_ASSIST_ALL』。値は "true"。
ソウは迷わず "false" に書き換え、適用ボタンを指で押す。
視界がほんの一瞬、ぶれた。
次の瞬間、世界がゆっくりと傾く。
「あ、れ……?」
膝が抜け、ソウのアバターは仰向けに倒れていた。
握っていた木の棒が、転がってからんと乾いた音を立てる。
肩からこぼれ落ちたナビが空中に浮き直し、いつもの音声を流した。
「《警告。プレイヤーの姿勢制御が無効化されています》」
「うん、知ってる。たった今、自分で切ったから」
寝転んだまま、ソウは空を見上げて笑う。
「……あはは、面白い。なるほどね、補正が全部抜けるとこうなるのか。膝の角度がそもそも維持できないんだ」
通りすがりのプレイヤー二人組が、転がったままのソウを見て眉をひそめた。
「なあ、あの人さっきから動かなくないか? ログ吐いて落ちたんじゃね」
「機巧技師ってさ、たまにあーいうのいるんだよ。気にすんな」
二人は短く笑い合いながら、噴水の方へ去っていく。
ソウは特に気にする様子もなく、寝転んだ視界の中で両手をひらひらと動かしてみせる。
「腕は動くね。脚だけ完全に行儀悪い……まあ、当然か。アシストが全関節の挙動を一括で吸収してたんだから」
彼は仰向けのまま、もう一枚、新しいウィンドウを呼び出した。
空中に幾何学模様の枠が広がり、淡い光が滑らかに線を引いていく。
『魔力回路』――本来は魔法使いが魔法陣の支援回路を組むためのGUI環境だ。
だがソウの瞳には、それは見慣れた何かにしか映っていなかった。
「……うん、これ完全にビジュアルプログラミング環境だね。ノードベースで、入出力もそのまんま。書きやすそうだ」
彼は寝転んだまま、空中の回路に指を滑らせる。
ノードが並び、線が走り、関数ブロックが繋がっていく。
「脳波信号入力、関節モーターのトルク指令、まずは脚の二軸からかな。PIDのゲインは……低めから攻めよう。発振したら、立ち上がる前に転がっちゃうし」
ナビが横で静かに観測している。
「《構築中の回路は、登録された魔法体系のいずれにも合致しません》」
「うん、そうだろうね。今書いてるの、魔法じゃなくてドライバだから」
ソウは涼しい顔で続きを書く。
ついでに、と言わんばかりに、彼はナビの内部ルーチンも開いた。
「ナビ、ちょっと君の応答ループも見せてもらうね。重複してるブランチを整理したいんだ」
「《当該操作は、ナビゲーション機能の挙動を変更します。続行しますか? はい/いいえ》」
「はい」
ソウの指先が、テンプレ応答ルーチンの末尾にひと枝、新しい条件分岐を足す。
書き換えが反映された瞬間、ナビが小さく音を漏らした。
「《……ピィ……?》」
ソウは気付かない。
ナビ自身も、自分が何を発したのかは把握していない。
空中に展開された魔力回路の上で、たった一本だけ、誰の目にも見えない細い光の糸が、別の階層へとそっと伸びていった。
体感では数時間、現実時間では一時間ほど。
ソウは魔力回路のドライバを書き上げ、適用フラグを立てた。
ゆっくりと脚に力を込める。
膝が、無駄なく折れる。腰が浮く。背筋が立ち上がる。
関節のひとつひとつが、まるで現実の人間のそれよりも一段精密な順序で、地面の上に組み直されていった。
ソウのアバターは、静かに立ち上がっていた。
「うん、いい感じ。脚は通った」
彼は試しに、広場の端まで歩いてみる。
脚の運びには、補正らしき気配がいっさいない。
すべて、彼自身の書いたコードだけが、機巧技師の足元を動かしていた。
「明日は腕も書き換えてみよう。手首が一番難しそうだなぁ。三軸の干渉、どう吸収するか……それと、人形にも同じことをしてみたいな」
肩の上のナビが、いつもの抑揚で応じる。
「《承知しました、マスター候補》」
ソウは小さく笑って、そのままログアウトの手順に入った。
◇
深夜の運営オフィス。
モニタの青白い光だけが、整列したデスクの上をぼんやりと照らしている。
ディレクター・天城仁は、黒縁眼鏡を額に押し上げて目頭を揉んでいた。
寝癖の残った頭、ヨレた紺色のパーカー、胸ポケットには未開封の銀紙シートが一枚。
彼は手元のキーボードを軽く叩いて、エラー監視ダッシュボードを一覧表示する。
常時数百件流れるログの中に、見慣れない一行が、ぽつんと挟まっていた。
> 【未分類】プレイヤー識別子『ソウ』:姿勢制御フラグ無効化、ただし継続歩行を確認
天城はゆっくりと眼鏡を掛け直し、首を傾げた。
「……は? いやいや、姿勢制御切ったら歩けないだろ。読み取りエラーだろ、これ」
彼は念のためログをコピーして、後で見るリストに放り込む。
胸ポケットの銀紙には、まだ手が伸びない。
「まあ、今日はもう寝よう。明日の朝、目が覚めたら……うん、たぶん消えてる」
椅子の背にもたれかかり、天城は天井を見上げた。
モニタの片隅で、未分類タグの行がもうひとつ、静かに増える。
彼はまだ知らない。
胸ポケットの胃薬が、いずれ箱単位で消費されていく長い夜の、その最初の一行が――ちょうど今、彼の人生のログに、静かに刻まれたところだということを。




