1.最弱職『機巧技師』、引き当てました
「相馬先生、もう三十六時間起きてますよ」
研究室の後輩が、半ばあきれた声で言った。
相馬創は、試作ヒューマノイドの肩関節を片手で押さえたまま、もう片手でタブレットを叩いている。論文の査読返信は、あと三本残っていた。
白衣の襟元は機械油で薄汚れ、無造作な黒髪は寝ぐせのまま固まっている。指先には、半田と潤滑剤の薄い跡が、幾重にも重なって滲んでいた。
「あと0.3秒、応答時間を縮められそうなんだ。もう少しだけ」
優しく微笑むその目元には、明らかに落ちくぼんだ影がある。
後輩は深いため息をついた。
「もう休んでください。明日も学会発表でしょう」
ようやくドライバを置いて、ソウは仮眠室へ向かった。
ベッドの脇に並ぶのは『シンクロ・ノード』――最新型のフルダイブVRヘッドセット。先週、研究所の福利厚生として全員に支給されたばかりのものだ。最近話題の超大型VRMMO『Ouroboros Online』をプレイするための機材だが、ソウはまだ一度も触れていなかった。
「息抜きには、ちょうどいいかな」
ヘッドセットを被り、目を閉じる。
意識が、現実から滑り落ちていった。
◇
次に目を開けたとき、ソウは無重力に近い感覚の中に浮かんでいた。
目の前に、半透明のアバター生成画面が展開する。性別、体格、髪、瞳。すべてを「ランダムのデフォルト寄り」に設定する。外見にこだわる余裕も、興味もなかった。
服装も「作業着風ローブ、工具ベルト付き」を選んで、決定。
次は、職業のガチャだった。
光の輪が、十二の職業アイコンの周りを回り始める。聖騎士、剣士、魔法使い、弓使い――どれもよく知らない。光が少しずつ遅くなり、最後に静かに止まったアイコンは。
『機巧技師』
続けて、抑揚のないアナウンスが響いた。
「《初期機体『木製ゴーレム』、初期ナビゲーションAIを支給します。チュートリアル広場へ転送します》」
隣で同じくガチャを終えた新規プレイヤーが、大きなため息をついた。
「うわ、機巧技師引いちまった……リセマラするか」
そのままログアウトしていく後ろ姿を、ソウはぼんやりと見送る。
頬が、わずかに緩んだ。
(機巧人形、か。いいね、構造を弄れそうだ)
チュートリアル広場に転送されると、足元に小さな光が灯った。
手のひらに乗る程度の妖精型ホログラム――身長は十センチほど、白い光をまとい、薄い微笑だけを浮かべている。
「《歓迎します、プレイヤー。チュートリアルを開始しますか? はい/いいえ》」
「はい、お願いするよ」
ソウは丁寧に返事をした。
ナビは抑揚のないまま、『Ouroboros Online』の基本仕様を読み上げ始める。
フルダイブVR、五感の再現度は九十パーセント以上、痛覚は安全基準により最大四十パーセントにキャップ。すべてのプレイヤー行動は、システムアシストが自動補正する。
ソウは説明を聞きながら、無意識に手を握ったり開いたりしていた。指先の触覚、皮膚の張り、関節の遊び。研究所で扱う遠隔操作デバイスの精度を、はるかに上回っている。
「触覚の再現度、悪くないなぁ」
独白に、ナビは反応しない。返答テンプレートにない発話は、彼女には届かないらしかった。
「《次に、戦闘の基本動作を確認します。手元の木の棒を握ってください》」
ソウの右手に、すっと一本の木の棒が出現する。重心、重さ、手触り。すべて違和感がない。
「《素振りを十回行ってください》」
言われた通り、ソウは棒を振り下ろした。
一振り。
二振り。
三振り目で、彼の動きが、ふと止まる。
(……今、振り上げから振り下ろしまでの間に、0.2秒くらい何か挟まったな)
四振り目。やはり、同じ違和感がある。
五振り目。今度は意識して、最小の動作で振ろうとしてみる。それでも――振りの始点に、わずかな引っ掛かりがあった。
ソウは棒を握ったまま、足元のナビを見下ろす。
「ナビ、今の素振り、入力から動作までに遅延があった気がするんだけど、これは仕様?」
「《問題ありません。すべてのプレイヤーに同一の処理が適用されています》」
ナビの声には、迷いも揺らぎもない。
ソウは頷きかけ――頷くのを、やめた。
(同一の処理、ね。みんなこの遅延を「ない」と思って遊んでる、ってことかな)
広場の向こうでは、別の新規プレイヤーが嬉々として剣を振り回している。歓声を上げ、笑い合い、誰一人として、違和感を口にする者はいない。
ソウだけが、その「快適さ」の裏側に――見えない天井を、感じていた。
ふと、広場の壁に張られた電子掲示板が目に入る。誰かが書き込んだスレッドのプレビューが、流れるように表示されていた。
> ―――裏掲示板・新人スレ より―――
> 88 名無しの環理民
> また機巧技師引いたやつが愚痴ってるww
> 89 名無しの環理民
> あれマジで地雷だからリセマラ推奨な
> 90 名無しの環理民
> まあ人形屋さんごっこやりたい奴くらいしか引かないよなw
ソウは、ほんの少しだけ眉を上げた。
人形屋さん、か。悪くない言い方だな。
彼は静かに、視界の隅へ設定メニューを呼び出す。
グラフィック、サウンド、キー割り当て、ゲームバランス、動作補助――並ぶ項目を、ソウの視線が一つひとつ滑り落ちていく。通常の「オン/オフ」の切替の、さらにその下。
半透明の文字で、薄く表示されている項目がある。
『上級者向け』
ソウの指先が、迷いなくその階層へと潜っていった。
(あの遅延、どこで挟まってる? システム側か、それとも入力デバイス側か……)
彼はまだ、知らない。
今、自分が辿ろうとしている設定階層が、運営すら普通は触れたがらないデバッグ領域だということを。




