192. 君は部下じゃないからね
隣でセプテトが跪くのが気配でわかった。だが、俺は動けない。これが神威というものだろうか。蛇に睨まれた蛙のように体が竦んで身動きがとれなかった。
『ああ。連れてきたようだね』
光が放つ声。それはごく小さな囁きに過ぎなかった。だが、大波のように俺の心を呑もうとする。神の意志……いや、何でもない呟きでさえ、俺の脆弱な精神を押し潰すには十分らしい。
このままでは耐えきれない。魂が消滅するのではという恐怖がじわじわと心に満ちる。
だが、唐突にプレッシャーが和らいだ。とても直視できなかった神の光は穏やかな輝きに変化し、徐々にその姿を変えていく。同時に、黒い世界に彩りが生まれた。
目についたのは空の青、そして草木の緑。それからぽつぽつと赤や黄が彩りを添えていく。それらは多種多様な花々だ。蕾が次々と開き、今や周囲は色鮮やかな庭園へと変化した。
そして、視界の先には真っ白なテーブルと椅子が用意されている。その正面に座るのは黒髪の若い女性。黒いドレスの貴婦人だ。気品もある姿……なのだろうが、感じるのは圧倒的な神々しさと畏怖の念。
姿こそ変わっているが、彼女が神だ。
「やあ、すまなかった。この状態なら、負担は少ないと思うが、どうだね?」
穏やかな口調で女神が語りかけてくる。先刻までの圧迫感はない。どうやら、俺に合わせて在り方を変えてくれたらしい。想像以上に圧倒的な存在だったが、今のところ俺をどうこうする意図はない……と思っていいのか?
「はい。問題ありません」
ボロを出さないよう、端的に答える。
が、大丈夫なんだろうか。素っ気なくなかったか? お辞儀とか必要なんじゃないか?
内心ビクビクしていたが、女神はむしろ感心したように呟く。
「ほほぅ。動揺が少ない。さすがだね」
いやいや、めちゃくちゃ動揺してますが。だが、表面を取り繕えるくらいには落ち着いているとは言えるか。宿環にも神威が届いたのか、ルゥルリィやフェリルがあわあわと意味のわからない言葉を吐いて混乱している声が頭に響いてくる。それに比べればまあ、動揺はしていないと言っていい。
「まあ、かけなさい。君たちもね」
女神に勧められ、丸テーブルを挟んで正面の椅子に座る。右隣にはセプテト、左にはネーフェが座った。セプテトと女神の間にユイットが座る。
というか、お前ら、いたのか。女神の存在感が強烈すぎて、まったく気づいていなかった。
「こういうときはお茶を飲むんだったかな?」
女神がパチンと指を鳴らすと、テーブルの上にティーカップが出現した。注がれているのは紅茶らしい。善し悪しはわからないが、気持ちが落ち着く香りだ。
「礼儀作法は気にしなくても構わない。そもそも、私はヒュムの礼儀など知らないしね」
そう言って、女神がウィンクを飛ばす。かなり気さくな感じだ。ルールに厳格で恐ろしい存在というイメージだったが、印象がずいぶんと変わった。これならバグ利用がバレていたとしても、魂を滅される恐れはなさそうだ。
もしかすると、俺に慎重な行動を促すため、セプテトのヤツが話を盛ったのかもしれないな。
そんなことを思いながらセプテトへと視線を向けると、少し様子がおかしい。妙に汗をかいている上、緊張でもしているのか体がガチガチだ。そして、それはユイットとネーフェも同様だった。
「さて、セプテト」
女神が静かに告げる。その瞬間、セプテトの体がビクリと跳ねた。
「君が探索者のためのシステム開発に励んでいることは充分わかっている。が……最近、ミスが多過ぎじゃないかい?」
「あ、いえ、その――」
セプテトがしどろもどろに何か言いかけたが、言葉にはならなかった。その口から、何故か突然フランスパンが生えたからだ。
怪現象はそれだけにとどまらない。虚空からリボンのようなヒラヒラとした紐が無数に出現し、セプテトの髪をぐるぐると縛り上げていく。ヤツの頭はたちまち、針山のようになった。もがもがと口を動かし、何かを訴えようとするが、女神は取り合わない。
「それに報告はきちんとしなさい。特に失敗を隠すのは良くない。発覚が遅れるほど問題は大きくなるんだからね。肝に銘じておくように」
露わになったセプテトの額に新たなリボンがペチンと叩きつけられる。いや、ペチンじゃないな、ベチンだ。リボンが鞭のようにしなり、セプテトの額を赤く腫らす。
折檻にしては地味……というか奇天烈に見えるが、やっているのは神だ。もしかしたら、見た目以上に壮絶なお仕置きなのかもしれない。実際、セプテトは涙目だ。うぅうぅと言葉にならない声を発しながら、しきりに頷く。
「まあ、これくらいにしておこうか。次からは気をつけるようにね」
女神がそう言うと、ようやくセプテトの額を叩くリボンが止まった。ヤツはぐったりとテーブルに突っ伏して荒い息をしている。相当、辛い目に遭ったようだ。
というか、失敗とか報告とかって……もしかして、俺のバグ利用のことじゃないよな? 違うよな?
戦々恐々としていると、女神が俺に視線を向けてニッコリと笑った。
あ、駄目だ。これ、バレてる。
再び体が震え出す。それを見て、女神がさらに笑みを深めた。
「ふふ。心配しなくてもいいよ。君は部下じゃないからね。でも、あまり調子に乗らないようにね?」
あ、ハイ……もちろんデス。




