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第11話 一掃。そして曾祖父

 天正7年(1579年)12月  上総国夷隅(いすみ)郡 小田喜(おだき)城



 天正6年(1578年)。毎度のごとく父上が亡くなった。間違いなく酒のせいじゃというのに、何度言ってもいっこうにやめぬから、いつも天正6年(1578年)あたりに亡くなってしまう。少し長生きしてくれたなら。何とも口惜しい事じゃ。


 まあ毎度のことであるので、愚痴を言ってもいたしかたない。




 父上の死の後は、前世で上手くいったように、義頼を謀殺した。


 さらには北条の援軍も得て、電光石火で岡本城を攻め落とし、義頼の妻子を出家させた。私の完全勝利じゃ。




 そして、安房の鶴谷八幡宮に領内の郎党、国人衆を集め、当主就任の儀式を行った。


 これが天正7年(1579年)の正月のことじゃ。


 案の定、正木大膳(まさきだいぜん)めは、参集に応じなかったから、不忠者として討伐の兵を挙げた。


 大膳も準備はしておったようで、小田喜攻めには少々手こずった。が、一月(ひとつき)ほど経った昨日。城内から裏切り(返り忠)をする者が出て、東上総の堅城、小田喜も落城。そして、今日晴れて、私が入城することになったのだ。



 それにしても、思いの外早く、大膳めを攻め滅ぼすことができた。


 これは、万喜(まんぎ)城の土岐殿や、土気(とけ)城・東金城の酒井殿といった、北条方の国人衆が助太刀くださったおかげ。これも和睦の成果だと考えると、本当に北条様々じゃ。




「殿。土岐弾正(だんじょうの)少弼(しょうひつ)様、お越しにございます」




 おっと、援軍として兵を出してくださった、土岐為頼公がいらしたか。早速お出迎えせねば。




「治郎右衛門。お迎えする。案内いたせ」


「しかし、殿。家格が……」


「何を申すか! 土岐殿は、北条家より遣わされた援軍の将ぞ! その上、土岐為頼(弾正少弼)様は、私にとっては曾祖父にあたる方じゃ。お出迎えせぬ方がおかしいであろう」


「は! 失礼つかまつった!」


「わかればよい。さ、早う案内いたせ」




 これは、当家が関東副帥(かんとうふくすい)(※副将軍)などと名乗って、房総の盟主気取りでいたのが悪い。いくら高い気位(きぐらい)を持っていても、当家が一国半しか支配していない小大名なのに変わりはない。


 大名小名(しょうみょう)が乱立している時代ならともかく、各地が大大名によってまとまりつつある今となっては、そのような気位は、お家存続の妨げにしかならぬ。この無闇に他家を見下そうとする風潮は、私の代でどうにかしなくてはいかんな。






「里見左衛門佐義重にござる。弾正(だんじょうの)少弼(しょうひつ)様。此度(こたび)は、当家のためにお骨折りいただき、ありがたき次第に存じ上げます」


「なんと! この老体に当主御自らの出迎えとは! 誠もって恐れ入る」


「何をおっしゃいますか。土岐様は、北条家のご名代。さらに、血筋で申しても私の曾祖父にあたるお方。粗略に扱うわけにはまいりませぬ」


「左衛門佐殿。そなた、おいくつになられた」


「は! 今年で12になりましてございます」


「曾孫が、このような立派な大将になるとは。わしもそろそろ隠居の頃合いかもしれん」


「いきなり何をおっしゃいますか!」


「いや、わしも、もう八十。世継ぎの頼春(右近大夫)は、老いてから生まれた子ゆえ、もう少し、もう少しと、家督を譲るのを遅らせてきたが、曾孫がこのような槍働きができる年であるのに、このような爺が家督にしがみついているのは、もはや害悪じゃ。そなたの姿が、わしの背を押してくれたのじゃ。逆に礼を申し上げねばなるまい」


「そういうことでしたら是非もございません。では、頼春殿の家督相続の祝いには、是非とも私をお呼びくださいませ」


「おう、嬉しいことをおっしゃる。是非お越しくだされ。それにしても曾孫に会うのもままならなくなるとは、二十年前には思いもしなかったわい。左衛門佐殿に申し上げるのはいかがなものかと思うが、そなたの父や、祖父にあたる、義弘殿や義堯(よしたか)殿が、そなたのような将帥(しょうすい)であったならのう」


「それはいかなる事にございましょう?」



「爺の愚痴になるが聞いていただこうか。


 土岐家も里見家も、最初は近在の小領主であった。足利義明公(小弓公方)の横死ぐらいまでは、それは変わらなんだ。


 その後、義堯殿は、庁南・真里谷の武田を倒し、一躍房総に覇を唱えられた。我ら土岐家も一緒に各地を転戦していたものじゃ。


 ところが、関東副帥(かんとうふくすい)を名乗るようになった義堯殿は、我らを家来扱いし始めたのじゃ。


 確かに我らは里見家を盟主と仰いでおったが、家臣にまで成り下がった覚えはない。その上、わしは義堯殿の舅ぞ! なぜそのわしが家来扱いされねばならぬ! その上、国府台合戦で敗れた後に義弘殿は、無茶な命令まで下しよる!


 これで、流石の我らも堪忍袋の緒が切れたのよ」



「左様にございましたか。私どもは全く知りもせず。亡き父と祖父に代わりお詫びを申し上げます」


「いや、なに、向背はお家の都合。よくある事じゃ。それにしても、左衛門佐殿は、噂とは違い、謙虚なご様子。ならば、ついでにもう一つお聞かせしようか」


「是非ともお願いいたします」



「こたびは謀反の咎(とが)で正木大膳を退治いたしたが、天文年間頃までは、正木家も土岐家と同じ同盟者扱いであった。


 小田喜の正木大膳家は一貫して里見方であったので、気付かなかったかもしれんが、先頃身罷(みまか)った勝浦の正木時忠(左近)を見てみよ。ヤツも一時(いっとき)北条方に鞍替えしておったが、下総の所領を千葉の物と裁定されると、とたんに里見方に舞い戻ったであろう。


 昨日討たれた当代の大膳も、それを知っておる。ヤツも自分は里見の家来ではないと考えていたのかもしれん。

 相手が、己を家来だと思っているのか、同盟者だと思っているのか、それをよく考えた上で接しなければ、思わぬことで足を掬(すく)われることになるかもしれぬ。ゆめゆめご注意召されよ」



「金言、肝に銘じます」


「さて、堅苦しい話はこれくらいにいたそう、案内お願いできるますかな」


「は! ただいま!」


「いや~、曾孫に捕まって、思いがけず長話をしてしもうたわい。年寄りを立ったまま話させるとは、酷い曾孫じゃ」


「な! お曾祖父(じい)さまからお話を始められたのではありませんか!」


「はて? そうだったかの? 年を取ると忘れっぽくなって困るわい」


「もう! このような時だけ年寄りぶるのはおやめください」


「わはははははは」







 その後、土気の酒井康治殿 東金の酒井政辰殿もお越しになり、お話をすることができた。


 中でも土気の酒井康治殿は、天正4年(1576年)まで、里見方として歩んでくださった方。断続的に続く1年以上にわたる籠城戦を戦い抜き、北条家に下ることとなったが、その間当家としては、兵の1人も送ることは叶わなんだ。

 その点も含めてお詫び申し上げた。


 康治殿にも、「義重殿がもう少し早く生まれていたら」と土岐のお曾祖父(じい)さまと同じようなことを言われた。


 康治殿は土気城の開城時に人質にもなられたと伺っている。この台詞は、多分にお世辞もあるだろうが、もう少し早く和睦を実現させることができたならと悔やまれてならない。ここまで上手くいった今、次の人生があるとは思えないが、もし、次回があるとしたら、皆の安寧のためにも、何としても早期に北条との和睦を実現させねばならん。




 それはさておき、これで領内の不満分子は一掃できた。今回助太刀いただいた代わりというわけではないが、おそらく、手伝い戦(いくさ)は増えるだろう。しかし、本貫の地が侵されるのを心配しなくて良いというのは気が楽だ。これで、安心して我らの国づくりを行えるというものよ。









土岐為頼

 万喜城主。弾正少弼を称す。里見義堯の正室に自分の娘を入れており、義弘は孫に当たるとされる。当初は里見氏に従っていたが、第二次国府台合戦での里見氏の敗北後は北条氏に寝返り、その後は一貫して北条氏に従って里見氏と戦った。天正11年(1583年)死去。当時としてはかなりの長命だった。



土岐頼春

 右近大夫を称す。土岐為頼の子。頼春時代に上総土岐氏は最盛期を迎え、最大石高は10万石に達したと言われる。小田原の陣で没落。子孫は大垣藩に仕えた。



酒井康治

 上総国土気城(千葉市緑区)城主。土気酒井氏は、最初は北条方に属していたが、第二次国府台合戦で北条に疑われたことで反発。里見方に付くことになる。10年以上の長きにわたり、里見方の最前線で頑張っていたが、天正4年(1576年)降伏。その時嫡男だった康治は北条の人質となったとされる。解放後は父・胤治に代わり、当主となった。小田原の陣で没落。子孫は徳川氏に旗本として仕えた。



酒井政辰

 上総国東金城(千葉県東金市)城主。同族の酒井康治とは違い、北条方に属することが多かった。小田原の陣で没落。子孫は徳川氏に旗本として仕えた。


万喜城

 現在の千葉県いすみ市にあった城。上総土岐氏の拠点で、何度も里見氏から攻められたが落城の記録はない。家康の関東入府時には本多忠勝が配されるも、後に大多喜に新城を築き移ったことから廃城に。



鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)

 千葉県館山市にある神社。里見氏の尊崇を集めた。安房国総社。安西八幡宮とも。例大祭「やわたんまち」は、1,000年以上の歴史がある。

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― 新着の感想 ―
[一言] ええと──六生目にして何とか上手く回り出したというところでしょうか。 ──いや、まだ油断は出来ないなーw
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