↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欲探しの花嫁  作者: X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/13

第12話 「ちゃんと、帰ってきた」

「ただいま」

 

「あら、お帰りなさい」


 母の声で「帰ってきた」という実感が湧いた。

 

「宝崎大学、合格おめでとう! それにしても、今日は遅かったわね」

 

 玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気と家の空気が入れ替わった。ひんやりとした夜風が背中から離れていく。代わりに、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。

 味噌汁だ。

 それから、焼いた魚の香ばしい匂い。夕食の支度をしていたのだろう。仕事から帰ってきただけなのに、その匂いを嗅いだだけで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。

 

「うん。ちょっと遅くなっちゃった」

 

「心配するでしょう?」

 

「ごめん、ごめん」

 

 母の小言に苦笑しながら、靴を脱ぐ。

 いつもの家。いつもの玄関。いつもの母の声。

 何も変わっていない。それなのに――今日は、なぜか胸の奥がざわついていた。

 

「どうしたの?」

 

「え?」

 

「さっきから、ぼーっとしてるじゃない」

 

 母が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。

 

「……そうかな?」

 

「そうよ。疲れてるんじゃない?」

 

「まあ……ちょっとだけ」

 

 私は笑ってみせた。けれど、自分でもわかっていた。

 疲れているだけじゃない。もっと別の何かが、心の奥に引っ掛かっている。それが何なのかは、まだ言(・)葉(・)にできなかった。

 

「ほら、手を洗ってきなさい。ご飯にするわよ」

 

「うん」

 

 洗面所へ向かう。蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ落ちてきた。

 冷たい。

 両手で水を掬い、顔を洗う。鏡を見ると、そこには疲れた顔をした自分が映っていた。

 

「……ひどい顔」

 

 思わず笑ってしまう。

 目の下には薄く隈ができている。髪も乱れているし、頬には外の冷たい風にさらされた赤みが残っていた。けれど、その顔を見ているうちに、不思議な感覚が込み上げてきた。

 

(私は、ちゃんとここにいる)

 

 鏡の中の私は、私を見返している。当たり前のことなのに、今日はそれが妙に嬉しかった。

 

「……帰ってきたんだ」

 

 小さく問いかけた。誰に言うでもなく、ただ自分に確かめるように。

 居間からテレビの音が聞こえる。母が食器を並べる音もする。カチャ、カチャ、と食器同士が触れ合う音。その一つ一つが、胸の奥へ静かに染み込んでくる。

 昔から聞いていた音だ。

 子どもの頃、学校から帰ってきたときも。部活で遅くなった日も。嫌なことがあって、何も話したくなかった日も。いつだって、この音が聞こえていた。

 

「ご飯できたわよー」

 

「今行く」

 

 私は洗面所を出た。廊下を歩きながら、ふと足を止める。窓の外は、すっかり暗くなっていた。遠くの街灯が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいる。

 その向こうには、私の知らない世界が広がっている。

 楽しいことも。苦しいことも。これから先、何が起こるのかもわからない。それでも――ここには帰ってこられる。

 

「……ただいま」

 

 誰もいない廊下で、もう一度呟いた。今度は、さっきよりも少しだけ強く。その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が温かくなった。

 

「何してるの?」

 

 突然、母の声がした。

 

「え?」

 

「廊下で一人で何か喋ってたでしょう?」

 

「いや、別に……」

 

 母は呆れたように笑った。

 

「変な子ね」

 

「ほっといてよ」

 

 私も笑う。

 そして、居間へ向かった。

 テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁。

 焼き魚。白いご飯。それから、私の好きな小さなおかずが一品。

 

「……いただきます」

 

 箸を持ち、一口食べる。それが温かい。

 それだけだった。

 特別な料理でもない。高級な食事でもない。でも――今日の私には、それが何よりも大切なものに思えた。

 生きて、食べながら、笑える。そして、帰ってこられる。そんな当たり前の一つ一つが、実は当たり前なんかじゃなかったのだと、今になって気付かされた。

 

「……どうしたの?」

 

「え?」

 

「泣いてるわよ」

 

 母に言われて、私は慌てて頬に触れた。

 指先が濡れている。

 

「あれ……?」

 

 どうして涙が出たのか、自分でもわからない。悲しいわけじゃない。むしろ、嬉しい。

 

「なんでもない」

 

 そう答えて、私は笑った。母は何も聞かなかった。ただ、少しだけ優しい顔をして、味噌汁を私の近くへ寄せてくれた。

 

「冷める前に食べなさい」

 

「うん」

 

 私は頷いた。そして、もう一度箸を動かす。温かな食事を口に運びながら、胸の奥で静かに思った。


(ただいま)

 

 そして――帰ってこられて、本当によかった。

 

「……ところでさ」

 

 向かい側から、弟の声がした。

 

「ん?」

 

 顔を上げる。いつの間にか弟が椅子に座っていた。テレビを見ながら、何食わぬ顔で味噌汁を啜っている。

 

「お前、さっきから何回『ただいま』って言ってんの?」

 

「……え?」

 

「玄関で一回。廊下で一回。今、心の中でも言っただろ」

 

「なんでわかるのよ」

 

「顔に書いてある」

 

「嘘でしょ」

 

「『私は今、家に帰ってきたんだ……』って顔」

 

 弟は、私の表情を真似るように目を細めた。

 

「……やめてよ」

 

「しかも泣いてるし」

 

「これは……」

 

 私は慌てて頬を拭った。

 

「感動してるのよ」

 

「何に?」

 

「……家に」

 

「家?」

 

「そう」

 

「じゃあ、家に感動して泣く姉ちゃんってこと?」

 

「うるさい」

 

「宝崎大学に合格したと思ったら、今度は実家で感動して泣く。忙しい人生だな」

 

「うるさいってば!」

 

 弟がケラケラと笑う。

 母も堪えきれなかったのか、口元を押さえて笑っていた。

 

「もう、からかわないの」

 

「だって面白いんだもん」

 

「お姉ちゃん、今日ちょっと変だから」

 

「あなたにだけは言われたくない」

 

「なんで?」

 

「昨日、冷蔵庫のプリンに『食べるな』って書いてあったのに食べたでしょう」

 

「あれは……」

 

 弟が一瞬、黙った。

 

「……賞味期限が近かったから」

 

「今日までだったじゃない」


「ほら。だから食べて正解」

 

「勝手に正解にしないで!」

 

 また母が笑った。

 さっきまで胸の奥にあった、言葉にできない感情。それが少しずつほどけていく。くだらない会話。いつもの家族。いつもの夕食。それなのに、今はそれが妙に嬉しかった。

 

「……まあ、いいか」

 

 私は小さく笑った。

 

「何が?」

 

「なんでもない」

 

 弟は首を傾げた。そして、何かを思い出したように口を開く。

 

「あ、そうだ。姉ちゃん」

 

「なに?」

 

「大学合格祝い、俺にもある?」

 

「……なんであなたに?」

 

「姉ちゃんが合格したんだから、家族全員のお祝いでしょ?」

 

「便乗する気満々じゃない」

 

「俺、弟だから」

 

「理由になってない」

 

「じゃあ、俺からも一個お願い」

 

「なに?」

 

「その焼き魚、ちょうだい」

 

「それ私の!」

 

「家族なんだからいいじゃん」

 

「さっきと言ってること違う!」

 

 笑い声が、食卓に響いた。私は呆れながらも、箸で焼き魚を少しだけ弟の皿へ移した。

 

「ほら」

 

「やった」

 

「半分だけだからね」

 

「姉ちゃん、合格してから優しくなった?」

 

「調子に乗るな」

 

 そう言いながら、私は笑っていた。帰ってきた。ここが、私の家だ。特別なことなんて何もない。ただ、家族がいて。温かいご飯があって。くだらないことで笑える。

 それだけで――十分だった。

 

(ただいま)

 

 心の中でもう一度呟く。今度は、誰かに返事をしてもらわなくてもわかる。

 私はちゃんと、帰ってきたのだ。

    

この作品をお読みいただき、誠にありがとうございます。

自分らしく納得のいく形で執筆を続けるため、毎日更新ではなく、自分のペースで更新してまいります。

「面白い」「続きが気になる」と感じていただけましたら、フォローや★★★で応援していただけますと、大変励みになります。

なお、感想への返信はできませんが、一つひとつ大切に拝読いたします。ご感想をお寄せいただけましたら、とても嬉しく思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。