第12話 「ちゃんと、帰ってきた」
「ただいま」
「あら、お帰りなさい」
母の声で「帰ってきた」という実感が湧いた。
「宝崎大学、合格おめでとう! それにしても、今日は遅かったわね」
玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気と家の空気が入れ替わった。ひんやりとした夜風が背中から離れていく。代わりに、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
味噌汁だ。
それから、焼いた魚の香ばしい匂い。夕食の支度をしていたのだろう。仕事から帰ってきただけなのに、その匂いを嗅いだだけで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「うん。ちょっと遅くなっちゃった」
「心配するでしょう?」
「ごめん、ごめん」
母の小言に苦笑しながら、靴を脱ぐ。
いつもの家。いつもの玄関。いつもの母の声。
何も変わっていない。それなのに――今日は、なぜか胸の奥がざわついていた。
「どうしたの?」
「え?」
「さっきから、ぼーっとしてるじゃない」
母が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「……そうかな?」
「そうよ。疲れてるんじゃない?」
「まあ……ちょっとだけ」
私は笑ってみせた。けれど、自分でもわかっていた。
疲れているだけじゃない。もっと別の何かが、心の奥に引っ掛かっている。それが何なのかは、まだ言葉にできなかった。
「ほら、手を洗ってきなさい。ご飯にするわよ」
「うん」
洗面所へ向かう。蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ落ちてきた。
冷たい。
両手で水を掬い、顔を洗う。鏡を見ると、そこには疲れた顔をした自分が映っていた。
「……ひどい顔」
思わず笑ってしまう。
目の下には薄く隈ができている。髪も乱れているし、頬には外の冷たい風にさらされた赤みが残っていた。けれど、その顔を見ているうちに、不思議な感覚が込み上げてきた。
(私は、ちゃんとここにいる)
鏡の中の私は、私を見返している。当たり前のことなのに、今日はそれが妙に嬉しかった。
「……帰ってきたんだ」
小さく問いかけた。誰に言うでもなく、ただ自分に確かめるように。
居間からテレビの音が聞こえる。母が食器を並べる音もする。カチャ、カチャ、と食器同士が触れ合う音。その一つ一つが、胸の奥へ静かに染み込んでくる。
昔から聞いていた音だ。
子どもの頃、学校から帰ってきたときも。部活で遅くなった日も。嫌なことがあって、何も話したくなかった日も。いつだって、この音が聞こえていた。
「ご飯できたわよー」
「今行く」
私は洗面所を出た。廊下を歩きながら、ふと足を止める。窓の外は、すっかり暗くなっていた。遠くの街灯が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいる。
その向こうには、私の知らない世界が広がっている。
楽しいことも。苦しいことも。これから先、何が起こるのかもわからない。それでも――ここには帰ってこられる。
「……ただいま」
誰もいない廊下で、もう一度呟いた。今度は、さっきよりも少しだけ強く。その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が温かくなった。
「何してるの?」
突然、母の声がした。
「え?」
「廊下で一人で何か喋ってたでしょう?」
「いや、別に……」
母は呆れたように笑った。
「変な子ね」
「ほっといてよ」
私も笑う。
そして、居間へ向かった。
テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。白いご飯。それから、私の好きな小さなおかずが一品。
「……いただきます」
箸を持ち、一口食べる。それが温かい。
それだけだった。
特別な料理でもない。高級な食事でもない。でも――今日の私には、それが何よりも大切なものに思えた。
生きて、食べながら、笑える。そして、帰ってこられる。そんな当たり前の一つ一つが、実は当たり前なんかじゃなかったのだと、今になって気付かされた。
「……どうしたの?」
「え?」
「泣いてるわよ」
母に言われて、私は慌てて頬に触れた。
指先が濡れている。
「あれ……?」
どうして涙が出たのか、自分でもわからない。悲しいわけじゃない。むしろ、嬉しい。
「なんでもない」
そう答えて、私は笑った。母は何も聞かなかった。ただ、少しだけ優しい顔をして、味噌汁を私の近くへ寄せてくれた。
「冷める前に食べなさい」
「うん」
私は頷いた。そして、もう一度箸を動かす。温かな食事を口に運びながら、胸の奥で静かに思った。
(ただいま)
そして――帰ってこられて、本当によかった。
「……ところでさ」
向かい側から、弟の声がした。
「ん?」
顔を上げる。いつの間にか弟が椅子に座っていた。テレビを見ながら、何食わぬ顔で味噌汁を啜っている。
「お前、さっきから何回『ただいま』って言ってんの?」
「……え?」
「玄関で一回。廊下で一回。今、心の中でも言っただろ」
「なんでわかるのよ」
「顔に書いてある」
「嘘でしょ」
「『私は今、家に帰ってきたんだ……』って顔」
弟は、私の表情を真似るように目を細めた。
「……やめてよ」
「しかも泣いてるし」
「これは……」
私は慌てて頬を拭った。
「感動してるのよ」
「何に?」
「……家に」
「家?」
「そう」
「じゃあ、家に感動して泣く姉ちゃんってこと?」
「うるさい」
「宝崎大学に合格したと思ったら、今度は実家で感動して泣く。忙しい人生だな」
「うるさいってば!」
弟がケラケラと笑う。
母も堪えきれなかったのか、口元を押さえて笑っていた。
「もう、からかわないの」
「だって面白いんだもん」
「お姉ちゃん、今日ちょっと変だから」
「あなたにだけは言われたくない」
「なんで?」
「昨日、冷蔵庫のプリンに『食べるな』って書いてあったのに食べたでしょう」
「あれは……」
弟が一瞬、黙った。
「……賞味期限が近かったから」
「今日までだったじゃない」
「ほら。だから食べて正解」
「勝手に正解にしないで!」
また母が笑った。
さっきまで胸の奥にあった、言葉にできない感情。それが少しずつほどけていく。くだらない会話。いつもの家族。いつもの夕食。それなのに、今はそれが妙に嬉しかった。
「……まあ、いいか」
私は小さく笑った。
「何が?」
「なんでもない」
弟は首を傾げた。そして、何かを思い出したように口を開く。
「あ、そうだ。姉ちゃん」
「なに?」
「大学合格祝い、俺にもある?」
「……なんであなたに?」
「姉ちゃんが合格したんだから、家族全員のお祝いでしょ?」
「便乗する気満々じゃない」
「俺、弟だから」
「理由になってない」
「じゃあ、俺からも一個お願い」
「なに?」
「その焼き魚、ちょうだい」
「それ私の!」
「家族なんだからいいじゃん」
「さっきと言ってること違う!」
笑い声が、食卓に響いた。私は呆れながらも、箸で焼き魚を少しだけ弟の皿へ移した。
「ほら」
「やった」
「半分だけだからね」
「姉ちゃん、合格してから優しくなった?」
「調子に乗るな」
そう言いながら、私は笑っていた。帰ってきた。ここが、私の家だ。特別なことなんて何もない。ただ、家族がいて。温かいご飯があって。くだらないことで笑える。
それだけで――十分だった。
(ただいま)
心の中でもう一度呟く。今度は、誰かに返事をしてもらわなくてもわかる。
私はちゃんと、帰ってきたのだ。
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