第56話 戦火の少年
火薬の匂いが、鼻をかすめた。
それは、彼がすべてを失った日と同じ匂いだった。
乾いた大地を切るように、風が吹き抜ける。
セリオはそっと目を伏せ、遠い記憶に身を委ねる。
──あの日も、同じだった。
彼がまだ十二歳だったころのこと。
生まれ育った小さな村は、ヴァストラ帝国との国境地帯にあり、痩せた土地に人々はつつましく暮らしていた。
決して裕福ではなかったが、
診療所を営む父を誇りに思っていた。
五つ年の離れた弟は可愛く、
母は厳しくも深い愛情を注いでくれた。
それは、確かに幸せな日々だった。
だが…、戦争は、あまりにもあっけなく、それを奪っていった。
国境をめぐる緊張の中で、技術力を持つアーゼル共和国が新型兵器を配備し、均衡は崩れていた。
そしてある日、誰もが本気で起こるとは思っていなかった戦端が開かれた。
空襲で炎に包まれる村。
消えてゆく人々の叫び。
熱風ともに運ばれてくる火薬の匂い。
それは、紛れもなく、地獄そのものの光景だった。
セリオの父は、人々を救うために診療所に残り、崩れた天井の下敷きとなった。
母は、弟をかばって焼かれた。
その弟は、小さな身体で二人を呼び続けながら、息を引き取った。
なぜ、自分だけが生き残ったのか。
燃える瓦礫の隙間で、セリオはただ一人、膝を抱えて泣くことすらできなかった。
火の海を逃れた後、セリオは遠い親戚を頼りに、いくつかの家を転々とした。
だが、心を通わせることはなかった。
彼の中には、言葉では説明のつかない断絶があった。
人々の笑顔も、何気ない日常も、もはや別の世界のことのように見えた。
ただ、
生き延びてしまった、
それだけが、まだ幼い少年に突きつけられた事実だった。
その事実を、自分自身が許せなかった。
けれど、彼には明確な才能があった。
それは、誰も否定できない、生まれつきの頭脳だった。
学校では孤立していたが、成績は常にずば抜けていて、やがてその異才は、国の研究機関の目にも留まるようになった。
戦争が奪ったのなら、戦争で取り返すしかない。
理不尽を、技術という力でねじ伏せるしかない。
そう、彼は信じた。
正義では人は守れなかった。
祈りでは、家族を救えなかった。
ならば、自らの手で絶対的な力を作り出すしかない。
そして、セリオは軍の管轄である極秘の技術研究所へと進んだ。
そんな彼の前に現れたのが、サンティスだった。
軍に技術を提供しながらも、一歩距離を置いたようなその男は、当時すでにルクシミウムという未知のエネルギー研究を率いていた。
「君には、何かが足りない」
最初にそう言ったのは、サンティスだった。
「……君は、ずっと心を囚われたままだ」
そのときの彼の声は、どこか諦めにも似た温度を含んでいた。
当時のセリオには、その意味がよくわからなかった。
むしろ、あからさまな挑発にさえ聞こえた。
──囚われているのは、あんたのほうだ。
そんな言葉を胸の奥で呟きながらも、彼はその男のあとを追った。
誰よりも鋭く、深く物事を見ているくせに、人を見捨てきれない。
矛盾している。
けれど、なぜかその人間らしさから目が離せなかった。
そしてセリオは、サンティスの元で研究に没頭した。
最初は、すべてが理想そのものだった。
未知のエネルギー源であるルクシミウム。
その可能性に、セリオはサンティスと共に熱をあげた。
しかし、サンティスは人々の暮らしを支える力になると語り、
セリオは戦争を終わらせる決定的な兵器になると信じた。
同じ光に惹かれていたのに、
見ているものは、いつの間にか違っていた。
いや、最初から違っていたのかもしれない。
やがてサンティスは、兵器利用への疑念を口にするようになる。
「これは、奪う力じゃない。守るためのものにすべきだ」
「先生、またそんなことを……。それは、幻想です。戦争は、そんな甘いものじゃない。家族を殺したのは、兵器を使った誰かじゃなかった。止められなかった、この世界そのものなんです」
「……」
「僕は、世界に抗えない弱い人間が、誰からも、何も、奪われない世界をつくりたい」
セリオは繰り返しそう語った。
力がなければ守れない。
圧倒的な技術で敵を圧倒すれば、誰も奪えやしない。
戦争を終わらせるのは、祈りではない。
「……君は何かを勘違いしている」
サンティスはそう言った。
「力が人を変えるのではない。人が力を選ぶんだ。選び方を誤れば、必ず災いを呼ぶ」
その言葉は、セリオにとって、ただの綺麗事にしか聞こえなかった。
そしていつしか、二人の心は交わらなくなっていった。
なぜなら、セリオは、誰よりも知っていたからだ。
失う痛みを。
あの夜、家族が、大切な場所が焼かれていく匂いと音を、忘れたことはなかった。
だからこそ、完全な力を求めた。
誰も、自分のような痛みに堕ちないように。
例えそれが、神の光と恐れられようと、それでも。
それが希望になると、信じたかった。
──そして今、ノアレの広場に立つ彼の目に、あの日の少年の影はなかった。
だが、今もあの匂いが彼の鼻をかすめる。
あの日のすべてが、彼という人間を作った。
セリオ・ヴァイス。
それは、戦火に生まれ、痛みの上に立つ男の名。
その背を少しずつ傾き始めた陽の光が照らしていた。
長く伸びる影が、乾いた大地を這うように広がっていく。
まるで、残酷な世界の行く末を見届けるように。




