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第54話 闇の中の声


ノアレでサンティスと過ごしていた日々が嘘のように、遠く感じられた。



あの日以来、少女は再び閉ざされた闇の中で、静かに息をしていた。

冷たい金属の天井で鈍く光る蛍光灯。

響くのは機械の低い唸りだけ。



アルファ・コア研究所。


ここは、国の中枢機関が直轄する、極秘のルクシミウム実験施設だった。



リアはその地下区画に、再び囚われていた。

膝を抱えて、薄暗い壁際にうずくまっていた。


拘束具を外された腕には、青い痣が残っている。


あの日から、何日経ったのかも、もう分からない。

夜も、朝も、区別がない世界。


ただ、記録と実験のスケジュールだけが、リアのすべてを支配していた。


彼女の目に映るものは、色を失い、音は遠く。


それでも、リアの胸の奥には、小さな光の種があった。



『私は君に、人として生きてほしい』


『君は、君らしく、生きていいんだ』


あの日のあの言葉たちが、リアの胸の奥で光を放つ。

その声だけは、どんな痛みの中でも、消えなかった。




扉が開く。


無機質な靴の音が、床を軋ませる。



「実験対象を搬送する」


白衣を着た助手が、リアの腕を無言で掴んだ。

彼女は抵抗しなかった。

されるがまま、歩かされる。


通されたのは、見慣れた実験室。


冷えた空気。

白い拘束台。

金属の匂い。



「さあ、今日も始めようか」


セリオの唇の端が、わずかに歪む。


「今日は新しいプロトコルを試す。前回の数値は良好だったが、まだ限界点には届いていない。今回は、直接的な神経接続を試す」


リアの首元に手が伸びる。

細いコードが、肌に触れた瞬間、コアがかすかに脈打つ。


「感情という曖昧な指標では、コアの制御は不安定すぎる。君が失ったそれを、わざわざ取り戻す必要はない。理性と数値で、完全な兵器に進化させる方が合理的だ」


そう語りながら、彼は静かにリアの頭部に装置を装着していく。


瞳を閉じる。

装置が作動する。

刺すような痛みが、また訪れる。



でも、怖くはなかった。


もう、何もかも、わからなくなっていた。

深い鈍さが、彼女の心を包んでいた。



「閾値超過。コアの反応、上昇中」


「感情抑制レベル、最大。反応持続確認」


助手の声が、遠くで響く。


リアは、ただ、耐えていた。

痛みにも、孤独にも。


ずっと。




その日々は、終わりのない螺旋のようだった。


訓練と称した実験。

食事は最低限。

会話は記録の読み上げだけ。

眠りの中でも、夢はなかった。


それでも。


リアは、生きていた。

あの声が、心の奥で、消えずにいたから。




地上では、季節がいくつ巡っただろうか。


研究所の主制御室で、セリオがひとり、データを眺めていた。



「……やはり限界がある。このままでは、コアの真価は引き出せない」


彼はゆっくりと立ち上がる。


「……君のルクシミウム・コアに、私自身が直接、同調を試みる」


それは、これまで禁じられてきた行為だった。

人の感情や記憶と直結するコアに、生身で接触することは、禁忌だった。


だが、セリオはその禁忌に触れてようとした。


「コアの中心を見なければ、本当の制御はできない。あの男……サンティスが恐れて逃げた領域に、私は踏み込む」


彼の声には確かな確信と、狂気が混じっていた。


リアは、わずかに眉を寄せた。

胸の奥がざわめく。


サンティスがいつか言っていた。



『ルクシミウムの力は、君の心そのものだ。暴かせてはいけない。誰にも』と。



「始める」


セリオは装置をリアの胸に装着した。

リアを一人部屋に残すと、セリオは分厚いガラスで隔てられた隣の部屋から装置のスイッチを押した。

ルクシミウム・コアがわずかに脈を打ち、淡い光が漏れる。


そして、次の瞬間、すべてが狂い始めた。



暴走音。警報。歪む空気。

リアの身体が、熱に包まれて浮かび上がる。


コアから伸びた光が、制御装置を一瞬にして焼き切った。


「……なに……っ!?」


セリオが叫ぶと同時に、火花が散る。

空間が波打ち、重力が狂ったかのように壁が軋む。


リアは声を上げなかった。

ただ、胸の奥が、強烈な熱に引き裂かれていた。


目を閉じて見えるのは、あたたかい日々。



パンケーキの香りに、焦げたバターの味。


サンティスの笑顔。


初めて、生きていてくれてありがとうと言われたこと。



それらが、次々と溶けていく。


ルクシミウムが、それをすべて吸い上げていく。


記憶と、感情と、想い。


その全てが、白く、眩い光に変わって、コアの中に、封じ込められた。




その瞬間、爆風が研究棟を突き破った。

リアの身体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。


天井が落ち、あちこちで火花が散り、兵士たちの声が遠ざかる。


そして、リアは身体中の痛みに耐えながら、走っていた。


とにかく、前へ。


すべてを失ったその瞬間、

リアの耳元で、誰かが、


「生きるんだ」


と、たしかに、ささやいた気がした。

手を引いてくれた気がした。


その祈りのような声が、彼女の足を動かした。

白い瓦礫の中を這い、炎の熱を背に。



初めて見る外の世界は暗く、どこへ向かえばいいのかも分からない。

身体の痛みの理由も、もう今のリアにはわからなかった。


けれど、確かに胸の奥で、小さな声が響いていた。


──逃げるんだ。

──生きろ。


それは、誰かの声。

誰かが、本当に大切にしてくれた気がする。


そんな、遠い記憶。




木々が風に揺れる、深い森。

雨に濡れ、冷たい空気に震えながら、リアは、それでも前へ進んでいた。


息を切らしながら、遠くへ。

空のある場所へ。

風の吹く場所へ。


あの人の祈りが届く場所へ。


夜の闇が、ゆっくりとほどけていく。

木々の隙間から、朝の光が差しはじめていた。


白んだ空が、静かに世界の輪郭を照らしていく。


森に射し込む光が、彼女の銀色の髪に触れた。



その瞬間、視界がぐらりと歪み、リアはその場に倒れ込んだ。


やわらかな落ち葉が、衝撃を受け止める。


静かな深い森。朝露で湿った土の匂い。

鳥の声が遠くで響き、木々の葉が風に揺れる。



彼女はそこにいた。

記憶も、感情も、何も持たずに。



遠く、誰かの足音が近づいてくる。



リアは、そこで、一人の少年に出会う。




それが、すべての始まりだった。



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