第52話 決意
次の日、リアは無言のまま、白い廊下を歩かされていた。
手首には冷たい拘束具。
足取りは重いのに、背後の兵士たちは急かすように押しやってくる。
やがて、扉の前にたどり着いた。
無機質な金属のドアが、音もなく左右に開く。
「対象、搬送完了しました」
誰かの声とともに、明るすぎる白色灯が視界にしみる。
それは、実験室と呼ばれる場所だった。
壁も天井もすべて白。
何の温もりもないその空間には、無数の機械装置と、
リアのためだけに用意された拘束台が鎮座していた。
「さあ、始めようか」
セリオの声が響く。
彼は白衣に身を包み、グローブをはめながら、感情のない声で言った。
「今日は、君の反応閾値を調べたい。どの程度の刺激で、ルクシミウムが活性化するか」
リアは押し倒されるように台に乗せられ、手足を金属の拘束具で固定されていく。
目を伏せても、機械の音と、誰かの足音だけがどこまでも響いてくる。
その時、ドアの脇に控えていた人たちの中で、一瞬だけ目を引く姿があった。
白衣の下に軍服が見える。
他の人たちが無表情で観察を続けるのに、
ただ一人、彼だけがリアの姿に目を見張り、唇をかすかに引き結んでいた。
やがて、細い電極が何本も肌に当てられ、ルクシミウム・コアの測定装置が稼働を始めた。
「痛み。恐怖。混乱。感情の高まり。それらがコアを呼び起こす。だとすれば、どこまで感情を追い込めば発動するか。その臨界点を知ることが、次の段階に必要なんだ」
セリオは機械のパネルを操作しながら、淡々と話し続ける。
「君にとっては苦痛かもしれないが、これは君自身の制御権を取り戻すための訓練でもある。そう考えてくれ」
リアは何も返さなかった。
ただ、眉を寄せて小さく息を呑んだ。
低周波の電流が流れると、彼女の細い腕が小さく跳ねた。
肌が焼けるように熱くなる。
背中が反射的にこわばる。
微かな焦げた匂いが、機械の熱とともに鼻を突いた。
「……反応なし。閾値、上げろ」
その瞬間だった。
あの男が一歩前に踏み出し、思わず声を上げた。
「やめろ! まだ子どもだぞ、こんなのは──!」
その声の主を取り囲むように、兵士たちは一斉に動き、男の肩を掴んで押さえつける。
男は必死に抵抗しながら、なおもリアを見つめた。
「これが本当に平和を作る方法なのか!? こんなやり方で……!」
うめくようなその声が、リアの耳に届いた。
「連れ出せ。二度と現場に入れるな」
セリオが命じると、男は力ずくで廊下の奥へと連れ去られていった。
「続けよう」
セリオの低い声が響くと、再び全身に痛みが走る。
リアは、ただ耐えていた。
言葉も、表情もないまま。
泣くことさえ、知らなかった。
痛みは、次第に感覚を超えて、身体の奥にじわりと染み込んでいった。
やがて、首に装着されたセンサーが青く点滅する。
「……反応あり。コア、微弱ながら活性化」
セリオの口元がわずかに歪む。
「いいぞ、コアは応えている。……もっと見せてくれ。君ならできる、そう信じているんだ」
リアの瞳に、青い光が走る。
それはきっとまだ、悲しみではない。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ、何かが、かすかに彼女の胸の奥で小さく揺らめいていた。
「終了。記録を残せ。次回は、刺激装置Bへ移行する」
無表情な助手の声とともに、拘束が外される。
リアは、ゆっくりと身を起こす。
手足は震えていたが、口を開くことはなかった。
何の言葉も知らなかった。
そのまままた、白い廊下を歩く。
どこへ行くのかもわからないまま。
リアは、それが当然なんだと、思っていた。
何日が経ったのか、もう分からなかった。
白い部屋。
白い天井。
機械の音。
誰の感情もない声。
自分の声も、感覚も、どこか遠くに置いてきたまま。
リアは、ただ生かされていた。
その日も、いつもと変わらぬ実験の日々が続くと思っていた。
小さな部屋の片隅で、リアは膝を抱えて座っていた。
実験の開始時間になるまで待つよう言われたのだった。
そこに、小さな靴の音が届いた。
振り向かずとも、その音だけで誰かが分かった。
彼女の記憶の中で、たった一人、違う温度を持つ人間。
サンティスだった。
彼は、少し痩せたように見えた。
長くのびた白衣の裾を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
目の下には相変わらず濃い影。
けれどその瞳には、決して消えない意志の光があった。
「リア」
名を呼ばれたのは、どれくらいぶりだっただろう。
サンティスはしゃがみ込み、彼女と視線の高さを合わせた。
彼女の身体中の傷を見て、サンティスは顔を歪ませた。
「……準備が遅くなってしまって、本当にすまない」
声は少しかすれていた。
リアは、黙って彼を見上げた。
「行こう。ここを出るんだ」
「……?」
「君には、生きる資格がある。誰がなんと言おうと、私はそう思う。君が何も知らなくても、記憶や感情をなくしていても……それでも君は、ここにいる。今も、ちゃんと生きている」
リアの瞳が、わずかに揺れた。
「リア。君は一人の人間だ。実験体でも、兵器でもない。痛みに耐えるために生まれてきたわけじゃない。君は、君らしく、生きていいんだ」
声が震えていた。
それでも、サンティスの目はまっすぐだった。
リアは、少しだけ俯いて、胸に手を当てた。
そこには、かすかに脈打つコアの音。
不思議と、その音は、
目の前のこの人といる時だけ、ほんの少し静かになる気がした。
この力に、運命に、抗ってもいいのだろうか。
リアはサンティスを見つめて、小さく、こくりと頷いた。
「ありがとう、リア」
彼は、そっとリアの手を握った。
「さあ、行こう。ここから、遠くへ。誰も君を傷つけない場所へ」
リアは立ち上がる。
足は少し震えていたけれど、その目はまっすぐだった。
彼女の足音が、はじめて、自分の意思で踏み出した音を刻んだ。
そしてふたりは、アルファ・コアの研究棟を抜けて、古い搬送路を使い、外へ出た。
向かう先は、ノアレ。
あのルクシミウムの事故で廃墟と化した町の、さらに地下深くに隠された、もうひとつの研究所。
シェルハイム研究所。
静かに、その扉が開かれた瞬間、リアの新たな日々が始まった。




