第51話 あの日の手
リアの体に、まばゆい光と共に流れてくる過去の記憶──
どこかで、ぽたりと水滴が落ちるような音がした。
それが現実なのか、
夢なのか、
わからなかった。
まぶたが重い。
呼吸のしかたを忘れてしまったかのように、
全身が水の底に沈んでいるかのように、
身体は言うことを聞かない。
それでも。
「……リア」
低く、優しい男の声が、遠くから呼びかけてきた。
「……聞こえるかい?」
生きるために、呼吸をひとつ。
胸の奥で、かすかに不思議な音がした。
やがて、ゆっくりと、瞼が持ち上がっていく。
滲んだ光の中で、最初に見えたのは、ぼやけた白い天井だった。
「……あ……」
喉が、からからに乾いていた。
声が出せない。
身体を動かそうとしても、突き刺すような痛みが全身を走り、目線を動かすので精一杯だった。
視界の端で、何かが揺れる。
白衣。
その影がゆっくりとこちらに近づいてくる。
椅子のきしむ音。
そして、目の前に現れたのは、やせた頬と、深く刻まれた疲れの面影を持つ中年の男だった。
「……意識が戻ったんだね」
その言葉とともに、リアの額にそっと触れた手は、どこかぎこちなく、それでも、たしかに温かかった。
「大丈夫だ。もう、何も君を傷つけたりはしない」
リアの視線が、ようやく彼の顔をとらえた。
だが見知らぬその人の名は、どれだけ探しても浮かんでこなかった。
「……ここ……は……」
それだけで精いっぱいだった。
自分の声が、まるで他人のもののように遠い。
男はほんの少し、眉尻を下げて言った。
「ここは、アルメリアという街にある研究所だ。アルファ・コア研究所という」
リアは微かに眉をひそめる。
言葉の意味が頭に入ってこない。
けれど、男の声だけが、不思議なほど静かに心に届いた。
「君は……ノアレという町で、命を落としかけていたんだ」
その言葉に、リアの瞳が小さく揺れる。
ノアレ。
その名に、心のどこかが微かに反応するような、そんな感覚だった。
「私は……サンティスという。君の命を繋いだ。……ルクシミウムを使って」
彼の声は淡々としていた。
だがその奥に、言葉にならない痛みがにじんでいた。
「でも……その代償に、君がこれまで生きてきた証を、奪ってしまった……」
リアはまた、男を見た。
証。
それが何を指しているのか、わからなかった。
「……記憶と、感情だ」
まるで罪を告白するように、男は言った。
「……君の中にかすかに灯っていた命の火を、私はどうにか繋ぎとめた。でも……それには、君の記憶と感情を……エネルギーとして差し出さねばならなかったんだ」
リアは淡々と聞いていた。
「……私は、それが正しかったのか、今でも分からない。けれど……」
男は言葉を切り、顔を伏せる。
肩がほんの僅かに震えているように見えた。
「それでも……私は君に、“人として”生きてほしいと思ったんだ」
リアは、ただ黙ってその姿を見つめる。
「この世界は……君にとって、あまりにも不条理だ。正しさは捻じ曲げられ、命の価値は不安定だ。君のような存在は、理解されず、利用されるかもしれない……」
一言一言が、まるで吐き出すように紡がれていく。
「けれど……」
ゆっくりと彼は顔を上げた。
瞳の奥で、かすかに揺れる祈りのような光。
「それでも……私は君に、笑っていてほしいと思ったんだ。楽しいときには笑って、嬉しいときには微笑んで……悲しいときには、泣いてほしい。誰かを思う気持ちが生まれたときは……その心を、大切にしてほしい」
男の手が、リアの手に触れた。
その瞬間、胸の奥で、かすかに光がまたたいた。
青く、小さく、息をするように。
「君が、生きていてくれてよかった。本当に……ありがとう、リア」
その言葉が、胸の奥にそっと落ちる。
まだ理解できなくても、その言葉だけはゆっくりとリアの心に染み込んできた。
リアは、ゆっくりと瞼を閉じる。
すると突然、後ろの扉が開く音がして、誰かの足音が駆け込んでくる。
「博士……! 成功したんですね!」
声の主は、若い男だった。
ヘーゼルの瞳が、歓喜に震えている。
リアを見て、その目はさらに輝きを増した。
「これは……すばらしい……! やはりルクシミウムは世界を変えられる! これで、ヴァストラ帝国との戦いにも終止符が打てるかもしれない……!」
あまりに興奮気味に語るその様子に、リアは無言のまま見つめ返した。
「自己紹介が遅れたな。私はセリオ・ヴァイス。サンティス博士のもとで、ルクシミウムの応用研究をしている」
そう言って、彼はリアに手を差し出す。
「君は我々にとって特別な存在だ。ここ、アルメリアのアルファ・コア研究所は、国家直属の施設だ。最先端の設備が整っている。安心してくれていい」
リアは表情ひとつ変えず、差し出されたその手をじっと見つめた。
握ることはなかった。
セリオは気にも留めず、むしろその無反応に満足したように微笑む。
「……完璧だ! 感情の揺らぎが一切ない。この静けさこそ、戦争を終わらせる兵器にふさわしい」
そのささやきに、サンティスがわずかに顔を曇らせた。
「……セリオ。あまり急ぐな。彼女の身体はまだ……」
「ご安心を。私は提案書をまとめて、すぐに本部へ提出します。博士も、お身体をお労りください。かなりお疲れのようですから」
それだけを言い残し、セリオは足早に部屋を出ていった。
彼が去った後、部屋には静寂だけが残る。
サンティスは、リアの手を優しく握ったまま、小さく吐息をこぼした。
「……リア……すまない……」
その言葉の意味を、リアはまだ知らなかった。




