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第39話 記憶の影へ


通路に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


肌にまとわりつくのは、長く閉ざされていた空間が作り出す冷たい重さ。

あたりには瓦礫が散乱し、足元には微かな埃が舞う。

天井には壊れかけた照明が、細く瞬いていた。


風は届かない。

音すらも沈んでゆく。


光があるのに、影のほうが濃く感じる。


壁をなぞるように歩く自分の足音が、まるで他人のもののように耳に響いた。


ふと横を見ると、半ば崩れかけた通路の奥に、鉄扉のようなものがうっすらと見えた。

だが、その先は、崩れた瓦礫に塞がれていた。



──私、本当に来たことがあるの……?


思い出せない。

なのに、心のどこかがざわつく。


遠い場所で感じたような音、匂い、光。


記憶のかけらが何かを訴えているのに、

それを言葉にできないもどかしさだけが残っていた。



セリオは隣で無言のまま歩いている。

けれどリアは、彼の視線が何度か自分に向けられているのを感じていた。


──この人は……私のこと、私のここでの時間を、どれほど知っているのだろうか……


問いただせば、きっと何かを答えるだろう。

でも、自分の過去を、自分の手で知りたかった。



通路の突き当たりでセリオが立ち止まる。


重い鉄扉が軋みながら開いた先には、静まり返った小さな部屋があった。


薄い暗い照明が天井から吊るされていて、部屋全体に灰色がかった光を落としていた。

壁にはいくつかのモニターがあり、中央には使い古された操作台も見える。

そして、傍らには、色褪せた大きな椅子が置かれていた。


壁の焦げ跡。

剥き出しの配線。

溶けたようなコード。


そして、床の隅には、誰かが残した、擦れた靴跡。


──ここで……誰かが、生きていた



リアの喉がきゅっと細くなる。

自分もここにいたはずなのに。


セリオが操作台の端に手をかざす。


「……残っていればいいが、保存状態は悪い。君がここを去る時、この研究所は軍に狙われ、多くの記録が失われた」


セリオがいくつかのスイッチを操作すると、モニターのひとつが瞬き、ジジッというノイズと共に古い映像が再生された。



そこに映っていたのは、ひとりの男だった。

痩せた体に白い髭。


白衣を着た男は、優しげな目をしていたが、目の奥には強い意思が宿っていた。


リアは、思わず一歩前に出る。


映像の中の男は、真っ直ぐにカメラを見て話し始めた。



『……リア、もし君がこれを見ているのなら──』



その声に呼ばれた自分の名に、リアの身体が小さく跳ねる。


けれど、次の瞬間。


ザザ……ッ ザザッ……ピー……ッ……!


画面が崩れ、音声もノイズに飲まれた。

目の前の人物は消え、再びモニターは闇に沈んだ。


「……!」


リアはモニターの前で立ち尽くしたまま、胸に手を当てる。


──誰なの? 

覚えていない……


──でも、知っている──


言葉にならない想いが、喉元までこみ上げてくる。

目の奥が熱くなる。


「……これが、サンティス、博士…?」


絞るような声で問うと、セリオが一拍置いて、静かに頷いた。


「君を救い、ここで共に過ごした人物だ」


共に過ごした、その言葉が、痛みのように胸に突き刺さる。

リアには、その記憶が、なかった。

ここで誰かと共にいたという実感も、ぬくもりも。なにも。


──私の時間が、私の知らないところにある……

どうして忘れてしまったんだろう……大切なものだったはずなのに──


セリオは、再び操作を止めた。


「焦る必要はない。この研究所にさえ入れたのなら、いくらだって時間はある」


リアは何も返せなかった。

気持ちだけが焦る。


沈黙のなか、リアは部屋の奥にぽつんと置かれた、色褪せた椅子へと近づいた。

手を伸ばし、その椅子を回転させると、背もたれの布は焦げて破れ、肘置きは曲がっていた。


だが、なぜかその椅子には、温かさが残っている気がした。


誰かが、ここに座っていた。

何度も、何日も。


その隣に、きっと、自分もいたのだ。


リアは、指先で椅子のひび割れをなぞった。



──思い出したい。

自分の過去を──



リアはただ、そこにあった誰かの暮らしの名残を、手のひらで確かめるように見つめていた。




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