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お見合い編6 普通の人でした

 約束の日が来てしまった。

 本当に来てしまった。

 来なくてもよかったのに。


 馬車の窓から流れていく街並みをぼんやり眺めながら、私は何度目か分からないため息をつく。


 緊張する。

 ものすごく緊張する。

 相手はレオン・ド・ヴァイス中佐。


 七年前、国を救った英雄。

 若くして異例の出世を果たした軍人。

 その後、権力争いに巻き込まれて失脚し、離婚まで経験した人。


 しかも――。


(私のことを『白百合の幻姫』だと信じているかもしれない人)


 それが一番怖かった。

 私は聖女でも幻姫でもない。

 本が好きで、お菓子が好きで、昼寝が好きなだけの、どこにでもいる貧乏子爵令嬢である。


「大丈夫よ」

 隣でお母様が優しく笑う。

「今日は顔を合わせるだけなんだから」

「本当でしょうか」

「……たぶん」


 また「たぶん」だった。

 安心材料が一つもない。


 向かいのお父様は腕を組んだまま目を閉じている。


「お父様」

「何だ」

「今からでも断れませんか?」

「断れん」

「体調が悪いことにして」

「顔色が良すぎる」

「昨日から熱が」

「元気に朝ご飯を三杯食べていただろう」

「……覚えてましたか」

「当たり前だ」


 逃げ道は完全に塞がれていた。


◇◇◇


 少将家へ到着すると、私はそのまま別室へ案内された。


「リリアーヌ様、こちらへ」


 侍女さんがにこやかに頭を下げる。

 どうやら少将夫人が準備してくれたらしい。


 部屋へ入ると、何人もの侍女さんが待っていた。

 嫌な予感しかしない。


「失礼いたします」


 それから三十分後。


「……誰でしょう」


 鏡の前で、私は真顔になった。

 知らない人がいた。


「リリアーヌ様です」

「違うと思います」


 本気でそう思う。


 いつもは適当にまとめている金色の髪が、ふわりと波打っている。

 薄く化粧を施された顔は、自分でも驚くほど印象が違った。

 白を基調にしたドレスには繊細な刺繍が入り、小さな宝石が光を受けてきらめいている。

 こんな服、一生縁がないと思っていた。


「綺麗……」

 後ろでお母様が小さく呟く。

 目が少し潤んでいた。


 お父様はというと、腕を組んだまま固まっていた。

「誰だ?」

 お母様の肘が綺麗にお父様の脇腹へ入った。

「娘です」

「ああ、そうだった」

 危なかった。

 本気で忘れられるところだった。


 私はもう一度鏡を見る。

 やっぱり知らない人だった。


 白百合のように白い肌。

 整った顔立ち。

 青い瞳。

 物語から抜け出してきたような令嬢。


 そして、ふと思い出す。


 ――白百合の幻姫 《ラ・ファンタジスタ・デュ・リ・ブラン》。


 学院で勝手につけられていた、あの恥ずかしい二つ名。


 なるほど。

 確かに見た目だけなら、それっぽく見えなくもない。

 でも。


「こんなの私じゃありません」


 侍女さんたちが一斉に笑った。


「元々のお顔立ちですよ」

「そんなはずありません」

「あります」

「ありません」

「あります」


 最後まで納得できなかった。


◇◇◇


 応接室へ戻ると、少将夫人が嬉しそうに微笑んだ。


「あら」

 嫌な予感。

「やっぱり白百合の幻姫じゃない」

「やめてください……」


 私は真っ赤になる。

 もうその名前だけで恥ずかしい。

 少将夫人は楽しそうに笑った。


「今日は特にそう見えるわ」

「見えなくていいです」

「残念」

 全然残念そうじゃない。


 そのときだった。

 夫人が壁の時計へ目を向ける。


「そろそろね」


 私は息を呑んだ。


 来る。

 本当に来る。

 ドレスの裾をぎゅっと握る。


 どうか。

 どうか普通の人でありますように。


 その願いと同時に。

 扉が静かに開いた。


◇◇◇


 一人の男性が入ってきた。

 私は反射的に姿勢を正す。


 その人を見る。


 そして――。


(普通だ)


 思った。


 何かあると思っていたのだ。

 物語みたいに。


 この人が運命の人だ。

 とか。

 絶対に無理。

 とか。


 会った瞬間に何か。

 心が跳ねたり。

 嫌な予感がしたり。

 そういうものが、何もなかった。


 もちろん普通ではない。


 背は高い。

 軍服は隙なく着こなされている。

 姿勢も真っ直ぐ。

 顔立ちも整っている。

 英雄と言われれば納得する。

 街を歩けば誰もが振り返るだろう。


 でも。

 英雄というより。

 仕事のできる、お店の店長さんみたい。


「あ」


 思わず声が漏れた。


 男性がこちらを見る。

 優しく会釈した。


「初めまして。レオン・ド・ヴァイスです」


 落ち着いた声だった。


 私は気づけば、口を開いていた。


「思ったより普通の人ですね」


 部屋が静まり返る。

 お父様が固まった。

 お母様が目を閉じた。

 少将夫人は口元を押さえている。


 しまった。

 また何か言ってしまったらしい。


 レオン中佐だけが少し考え込む。

「普通……ですか」

「はい」

「それは良い意味でしょうか」

「たぶん」


 二人で首を傾げた。


 沈黙。


「もっと」


 私は慌てて説明する。


「疲れ切った方かと思っていました」

「疲れ切った?」

「窓の外をぼんやり眺めて」

「見ませんね」

「休日は一人で雨を見て」

「雨の日は家にいます」

「昔はな……って」

「言いません」


 即答だった。

 私は安心した。


「違ったみたいです」

「違いますね」


 そこでレオン中佐が少し笑った。

 口元だけ。

 本当に少しだけ。


「誰からそういう話を?」

 私は正直に答える。

「私の想像です」


 一瞬の沈黙。


 そして。

 レオン中佐は初めて声を出して笑った。


「それは初めて言われました」


 笑った。

 英雄が。

 少しだけ。

 でも確かに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、不思議と胸の力が抜けた。


 怖い人ではない。

 少なくとも、私の失礼な発言で怒るような人ではないらしい。


「私も一つ、安心しました」


 中佐が言う。


「え?」

「白百合の幻姫という方ですから、もっと近寄り難い女性かと思っていました」


 今度は私が固まる番だった。


「……そんなふうに思われていたんですか?」

「はい」

「残念でしたね」

「いえ」


 レオン中佐は静かに首を横へ振る。


「思っていたより、お話ししやすそうです」


 その一言に。

 私は少しだけ笑ってしまった。


「私もです」


 それは、お世辞ではなかった。


 砦の英雄。

 白百合の幻姫。


 そんな大げさな肩書きを全部横へ置いてしまえば。

 目の前にいたのは。

 思っていたよりずっと普通で、思っていたよりずっと話しやすい人だった。


 少将夫人はそんな私たちを見て、小さく頷く。


「よかったわ」


 誰にも聞こえないくらい小さな声で。


「これなら案外、うまくいくかもしれないわね」


 その呟きは、誰の耳にも届かなかった。


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