英雄誕生編11 想いの全てを…
「あの、中佐さん――」
そう呼びかけた瞬間、私ははっと口をつぐんだ。
違う。
もう中佐さんじゃない。
少将閣下だ。
どう呼べばいいのだろう。
急に目の前へ大きな壁ができてしまったようで、言葉が続かなかった。
そんな私を見て、あの人はふっと目元を和らげる。
「レオン、で構いません」
「え?」
「家族や親しい者は、そう呼んでいました」
レオン。
初めて口にする名前だった。
「あ……じゃあ」
喉が少し震える。
「レオンさん」
たったそれだけなのに。
胸がどくん、と大きく跳ねた。
◇◇◇
しばらくの間。
本当に、しばらくの間。
私たちは他愛もない話をしていた。
この町の近況。
王都の騒がしさ。
弟や妹たちのこと。
目の前のお団子の味。
話題はいくらでもあった。
けれど。
本当に聞きたいことだけは、どうしても口にできない。
向こうも同じなのかもしれない。
そんな気がしていた。
やがて、お茶のおかわりが運ばれてくる。
私は湯飲みから立ち上る白い湯気を、ぼんやりと見つめた。
また沈黙が落ちる。
その静けさを破るように、
「……何か、ありましたか」
レオンさんが静かに尋ねた。
優しい声だった。
あまりにも優しくて。
それが、いけなかった。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れそうになる。
私は思わず顔を上げた。
「あります」
即答だった。
自分でも驚くほど、強い声だった。
「ありますよ」
もう一度言う。
レオンさんが少しだけ姿勢を正した。
「……申し訳ありません」
反射的に謝られた。
なんでだろう。
その、とりあえず謝ってしまうところが。
少しだけ腹が立った。
「――そういうところです」
「……はい?」
困ったように眉を下げる。
その表情も、昔と何も変わっていない。
だから余計に腹が立つ。
「手紙」
私は言った。
「はい」
「来ませんでした」
「……申し訳ありません」
また謝った。
「一通も」
「はい」
「私……」
声が少し震える。
「すごく心配したんです」
レオンさんは何も言わない。
ただ黙って聞いてくれる。
だから、止まらなくなった。
「戦争が始まるって聞いて」
「はい」
「前線に行くって聞いて」
「はい」
「手紙を書きますって言ったのに」
「はい」
「全然来なくて」
私は俯いた。
自分でも子どもっぽいと思う。
でも。
ずっと言いたかった。
「新聞ばっかり読むようになったんです」
レオンさんが少し驚いた顔をした。
「戦闘が始まったとか」
「要塞がどうなったとか」
「停戦交渉が始まったとか」
「毎日、毎日見てました」
声が少しずつ小さくなる。
「今日も無事かなって」
「怪我してないかなって」
「そればっかり考えてました」
店の中は静かだった。
少し離れた席のお客さんたちも。
たぶん、みんな聞いている。
でも。
今はどうでも良かった。
「それなのに」
私は顔を上げる。
「気が付いたら少将閣下になってるし」
レオンさんが目を逸らした。
「敵国から縁談が来るし」
さらに逸らした。
「王都では婚約決定みたいな話になってるし」
今度は天井を見始めた。
「なんなんですか、もう!」
思わず叫んでしまう。
店内がしんと静まり返る。
やってしまった。
そう思った。
でも。
もう止められなかった。
「私は!」
言葉が溢れる。
「私は、ただ……」
喉が詰まる。
胸が苦しい。
「ただ……」
何と言えばいいんだろう。
ようやく出てきた言葉は。
思っていたよりも、ずっと情けなかった。
「置いていかれた気がしたんです」
静寂。
窓から吹き込む風だけが、静かに暖簾を揺らしていた。
私は俯く。
恥ずかしかった。
情けなかった。
でも。
これが本当の気持ちだった。
少将になったからじゃない。
英雄になったからじゃない。
敵国から縁談が来たからでもない。
違う。
「怖かったんです」
小さな声で言う。
「私の知らないところへ、行っちゃう気がして」
涙が滲む。
慌てて袖で目を擦った。
泣くつもりなんてなかった。
絶対に。
「私なんて」
笑おうとする。
でも、うまく笑えない。
「ただの田舎娘ですし」
「白百合の幻姫なんて言われても違いますし」
「別に凄くないし」
「特別でもないし」
言葉にするほど、自分が小さくなっていく気がした。
「だから……」
とうとう口にしてしまう。
一番言いたくなかったことを。
「いつか……少将閣下に相応しい人が現れたら」
胸が痛い。
ずっと考えないようにしてきたことだった。
「そっちへ行っちゃうんじゃないかって」
静寂。
私は顔を上げられなかった。
きっと困っている。
きっと呆れている。
こんな面倒なことを言われて。
そう思った。
しかし。
しばらくして聞こえたのは。
「……はぁ」
大きな。
本当に大きな。
ため息だった。
思わず顔を上げる。
レオンさんが額を押さえていた。
そんな表情は初めて見る。
「……どうしたんですか?」
恐る恐る尋ねる。
彼はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと私を見て。
「――そうですか」
と、小さく言った。
その声は。
呆れているものではなかった。
どこか。
長い間胸につかえていたものが、ようやく落ちたような。
そんな、安堵の響きを帯びていた。




