英雄誕生編7 自転車の英雄
ここから3話はレオン視点です。
ガルドン要塞の一室。
レオン・ド・ヴァイスは、椅子に深く腰を下ろしたまま、机に肘をついていた。
目の前には山のような書類。
その向こうでは、参謀たちが慌ただしく出入りしている。
――戦いは終わった。
新聞はそう書き立てている。
だが、実際には終わってなどいなかった。
ガルドン要塞は陥落したものの、敵軍は奪還を諦めていない。
昼夜を問わず各所で小競り合いが起き、そのたびに駆け回る羽目になる。
そもそも要塞というものは、攻め込まれることを前提に造られている。
道は入り組み、階段は多く、似たような廊下ばかりが延々と続く。
しかも。
その迷路を造ったのは敵だ。
当然、敵の方が詳しい。
味方は地図を片手に右往左往しながら走り回るしかない。
「敵襲!」
伝令の声が響く。
「どこだ!」
「西棟第三通路です!」
駆けつける。
途中で分岐が現れる。
「……西棟第三通路って、こっちだったか?」
一瞬止まる。
隣を走っていた士官も足を止めた。
「たぶん左です!」
「いや右じゃないか?」
「地図は!」
「さっき誰かが持っていきました!」
嫌な予感しかしない。
ようやく辿り着いた頃には、
「もう駄目だ!」
と覚悟した。
ところが。
敵兵たちも。
「出口はどっちだ!?」
「知らん!」
「さっきから同じ場所を回ってるぞ!」
と、盛大に迷子になっていた。
結局、鉢合わせした双方がしばらく顔を見合わせてから戦闘が始まるという、何とも締まらない戦いになった。
そんなことが、一度や二度ではない。
レオンは深く息を吐いた。
今、このガルドン要塞では講和会議の準備が進められている。
王国軍の大将、中将はもちろん。
敵国からも将軍や外交官が続々と集まり始めていた。
もし、この要塞で再び戦闘になれば。
軍首脳がまとめて危険に晒される。
絶対に、それだけは避けなければならない。
そのため、警備は通常の何倍もの厳重さになっていた。
昼も夜も関係ない。
交代で巡回し、配置を確認し、不審者がいないか目を光らせる。
戦争が終わったという実感は、まだどこにもなかった。
むしろ。
終戦処理の方が、本番より疲れるのではないか。
そんなことさえ思い始めていた。
◇◇◇
そんな時だった。
「少将閣下」
声を掛けられた。
レオンは顔を上げる。
誰のことだろう。
周囲を見回す。
誰もいない。
数秒考えてから、ようやく気付いた。
――自分か。
「ああ」
小さく返事をする。
未だに慣れない。
最近、日に何度も同じことを繰り返している。
少将閣下。
そう呼ばれても、反応が半拍遅れる。
思い返せば。
シュネーベルク峠砦の戦いでは、生きたまま二階級特進という前代未聞の話が持ち上がった。
だが、それでは前例が悪いということで。
一か月だけ少佐。
その後、中佐。
さらに。
気付けば大佐。
と思ったら、いつの間にか中佐へ戻され。
また大佐になったと思えば。
今度はすぐ少将だった。
自分でも何が何だか分からない。
軍歴を振り返れば、一番長かった階級は中佐である。
だから。
自分の中では、今でも中佐のままだった。
ふと。
脳裏に、一人の少女の声が蘇る。
『中佐さん』
そう呼ぶ声。
少将閣下ではない。
ヴァイス閣下でもない。
ただ。
『中佐さん』
その呼び方が、一番自然だった。
思い出しただけで、口元が少しだけ緩む。
「少将閣下」
もう一度呼ばれた。
現実へ引き戻される。
「クレルモン閣下がお呼びです」
「ああ、今行く」
立ち上がる。
少将になっても。
結局、呼びつけられる側なのは変わらない。
相手はクレルモン閣下。
実家の主君であり。
軍では上官でもある。
逆らえる相手ではなかった。
◇◇◇
「久しぶりだな、自転車の英雄」
「やめてください」
反射的に即答していた。
クレルモン閣下は豪快に笑う。
「そんな嫌そうな顔をするな」
「本当に勘弁してください」
レオンは頭を抱えた。
もう。
自転車という単語すら聞きたくない。
思い出すだけで胃が痛い。
あの日。
一万台もの自転車が、一斉に敵陣へ向かって走り出した。
止まれば後続に轢かれる。
転べば終わり。
しかも。
丸太を一本転がされるだけで全滅しかねない。
穴だらけ。
そんな言葉では済まない作戦だった。
敵が気付いたら。
誰かが転倒したら。
タイヤが外れたら。
そのたびに最悪の結末ばかりが頭をよぎる。
(頼む……)
(頼むから気付かないでくれ……)
それだけを祈りながら、必死にペダルを漕いでいた。
結果。
なぜか軍事史に残る歴史的大勝利になった。
まるで納得がいかない。
あんな幸運。
二度と再現できるわけがない。
「まあ、そう言うな」
クレルモン閣下は愉快そうに笑った。
「自転車作戦の最大の功労者は誰だと思う?」
「兵站部です」
「違う」
「工兵隊です」
「違う」
「補給部です」
「違う」
閣下は満面の笑みで、自分の胸を親指で叩いた。
「俺だ」
誇らしげだった。
レオンは静かに頭を抱えた。
始まった。
「一万台だぞ」
人差し指を一本立てる。
「一万台」
「……はい」
「敵に悟られず全国から集めた」
「存じています」
「王都で大流行しているという噂まで流した」
「存じています」
「雑誌にも載せた」
「存じています」
「貴族の坊ちゃん嬢ちゃんまで自転車を乗り回し始めた」
「それも存じています」
全部。
全部知っている。
そのせいで出征前の王都は、どこへ行っても自転車だらけだった。
クレルモン閣下は、胸元の階級章を得意げに叩いた。
「俺は大将だ」
「おめでとうございます」
「この作戦のおかげでな」
心底嬉しそうだった。
少し前まで中将。
今では軍の四人しかいない大将の一人である。
「終わったと思われていた俺が、軍の四番目だ」
胸を張る。
レオンは真顔で答えた。
「では今後は、『四番目閣下』とお呼びしましょうか」
一瞬。
クレルモン大将は目を丸くし。
次の瞬間、大声で笑い出した。
「はははは! それはいい!」
腹を抱えて笑っている。
「ロシュフォールが聞いたら悔しがるだろうな!」
自称『軍で四番目に偉い男』。
その称号を奪われた相手の顔を思い浮かべたらしい。
「では、お前は何だ?」
「自転車中佐です」
「少将だろう」
「できれば中佐でお願いします」
「無理だ」
即答だった。
クレルモン大将はまた笑う。
レオンも、つられて少し笑ってしまった。
戦争は終わった。
立場も変わった。
周囲の景色も変わった。
それでも。
この人だけは昔と何一つ変わらない。
そのことが、不思議と少しだけ嬉しかった。




