英雄誕生編5 ……嫌、です
少将夫人が、コホン、と小さく咳払いをした。
その控えめな音だけで、応接室の空気がすっと引き締まる。
「――それで、本題なのだけれど」
私は反射的に背筋を伸ばした。
さっきまで、マリアンヌさんに「レオンは昔から面倒くさい男なのよ」と散々聞かされて、少しだけ肩の力が抜けていた。
けれど、その一言で全部吹き飛ぶ。
怖い。
やっぱり、今日ここへ呼ばれた本当の理由は、それなのだ。
少将夫人は静かに紅茶を置き、私をまっすぐ見た。
「実はね……」
嫌な予感がした。
今日一日で何度も味わった、あの胸が締め付けられるような感覚とは比べ物にならない。
本日最高密度の、最悪な予感。
「――レオン少将に、もう一つ、別の縁談が舞い込んできているのよ」
私は、その場で完全に固まった。
「……え?」
耳がおかしくなったのだろうか。
それとも、寝不足で頭が働いていないのだろうか。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
けれど少将夫人は、そんな私の様子など気にすることなく、静かな口調で続ける。
「お隣のグランヴァール王国からよ」
今度は聞き間違いではなかった。
グランヴァール王国。
つい先日まで戦争をしていた、あの隣国。
「現在進められている講和交渉の席でのことらしいわ」
「は、はい……」
「向こうから正式な打診があったの」
少将夫人は一度言葉を区切る。
まるで、その内容を私が受け止められるように。
「――『我が国の歴史的不覚を鮮やかに突いてみせた大英雄、レオン・ド・ヴァイス少将に、ぜひ我が国最高位の令嬢を嫁がせ、不戦の誓いとしたい』と」
応接室が静まり返った。
時計の針が進む音さえ聞こえそうだった。
私はゆっくりと、その意味を理解していく。
理解したくないのに。
頭だけが勝手に理解してしまう。
国。
英雄。
講和。
そして――政略結婚。
どれも、歴史書や騎士物語の中でしか見たことのない言葉だった。
私には、一生関係のない世界の話だと思っていた。
地方の小さな子爵家。
畑を耕して、お茶屋さんへ行って、弟や妹と笑い合う。
そんな毎日を送る私には、遠すぎる世界。
その巨大な流れが今。
私から、あの人を奪おうとしている。
胸の奥が、すっと冷えていく。
その時だった。
正面に座るマリアンヌさんの肩が、小さく震え始めた。
「ふ……」
笑っている。
「ふふ……」
笑っているのに。
その笑顔が、ものすごく怖い。
美しい笑みなのに、瞳だけが全く笑っていない。
「あ、あの……マリアンヌさん?」
恐る恐る声をかけた、その瞬間。
彼女は勢いよく立ち上がった。
「――あのフニャチンの優柔不断男がぁぁぁぁーーーーーーっ!!」
「ひゃいっ!」
私は思わずソファの上で飛び跳ねた。
応接室の壁まで震えた気がする。
しかし少将夫人だけは、慣れた様子でカップを押さえながら苦笑していた。
「マリアンヌ、落ち着きなさい」
「落ち着いていられるわけないでしょう、夫人!」
バンッ!
大理石のテーブルが鳴る。
「どうせ! どうせまた!」
指を突きつけるように叫ぶ。
「あのバカ、自分の頭の上で国家規模の面倒くさい話が勝手に進んでるなんて、まったく知らないんでしょうけどね!?」
その叫びに。
少将夫人は、すっと目を逸らした。
黙った。
その沈黙だけで、答えは分かった。
私は恐る恐る尋ねる。
「……し、知らないんですか?」
「たぶんね」
即答だった。
しかも、まだ目を逸らしたまま。
「ええっ!?」
「今頃どこかの会議室の隅で、『ここにサインしろ』と言われて、軍の書類を真面目に読んでいるんじゃないかしら」
「……」
ありそうだった。
ものすごく。
信じられないくらい、ありそうだった。
マリアンヌさんは額を押さえ、そのままソファへ崩れるように座り込む。
「……本当に、そういうところなのよ」
深いため息。
「昔からそう」
また一つ、ため息。
「結婚した時だってそうだったわ」
静かな声だった。
「自分の人生で一番大事なことなのに」
少しだけ目を伏せる。
「国のこと、軍のこと、部下のこと……」
苦笑する。
「他人のことばっかり優先して、自分のことは全部後回し」
私は何も言えなかった。
否定できない。
お見合いの時も。
待命中も。
あの人は、ずっとそうだった。
だけど。
本当に不謹慎で。
情けないことだけれど。
胸の奥では、小さく安堵している自分もいた。
少なくとも。
あの人が私を嫌いになって、新しい花嫁を探し始めた。
そんな話ではなかったのだから。
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
マリアンヌさんが額から手を離し、ゆっくりと私を見つめる。
その瞳は真っ直ぐだった。
意地悪でもない。
呆れでもない。
一人の女性として、もう一人の女性へ向ける、本気の眼差し。
「――で」
「は、はい」
「リリアーヌさん」
一呼吸置く。
「貴女は、どうしたいの?」
私は息を呑んだ。
少将夫人も何も言わない。
二人とも、ただ静かに私を見つめている。
逃げ道はなかった。
窓は閉まっている。
扉も閉じられている。
何より、この問いから逃げる場所はどこにもない。
私はゆっくりと俯いた。
何ができるというのだろう。
相手は国家。
講和交渉。
国と国を結ぶ話。
そんなものに、地方子爵家の娘一人が逆らえるはずがない。
身を引くべきなのかもしれない。
「白百合の幻姫」らしく。
静かに微笑んで。
「お幸せに」と送り出すのが、大人なのかもしれない。
だけど。
胸の奥で。
照れ笑いを浮かべたあの人が。
黒塗りだらけの手紙の最後に、
――あなたとご家族の平穏を願っています。
そう書いてくれたあの文字が。
私の心を、何度も何度も揺さぶる。
私は膝の上で、ドレスをぎゅっと握りしめた。
震える声で。
今にも消えそうなほど小さな声で。
それでも、この部屋の誰にもはっきり届く声で。
「……嫌、です」
その一言を口にした瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた。
私はもう、「白百合の幻姫」ではなかった。
身分差に怯えるだけの田舎の令嬢でもなかった。
ただ一人の。
不器用で、優しくて、誰よりも自分を後回しにしてしまう男の人に恋をした、ごく普通の女の子だった。
生まれて初めて。
私は、自分自身の本当の願いを、自分の口で、誰にも誤魔化さずに口にした。




