表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
41/49

英雄誕生編5 ……嫌、です

 少将夫人が、コホン、と小さく咳払いをした。

 その控えめな音だけで、応接室の空気がすっと引き締まる。


「――それで、本題なのだけれど」


 私は反射的に背筋を伸ばした。


 さっきまで、マリアンヌさんに「レオンは昔から面倒くさい男なのよ」と散々聞かされて、少しだけ肩の力が抜けていた。

 けれど、その一言で全部吹き飛ぶ。


 怖い。

 やっぱり、今日ここへ呼ばれた本当の理由は、それなのだ。


 少将夫人は静かに紅茶を置き、私をまっすぐ見た。


「実はね……」


 嫌な予感がした。

 今日一日で何度も味わった、あの胸が締め付けられるような感覚とは比べ物にならない。

 本日最高密度の、最悪な予感。


「――レオン少将に、もう一つ、別の縁談が舞い込んできているのよ」


 私は、その場で完全に固まった。


「……え?」

 耳がおかしくなったのだろうか。

 それとも、寝不足で頭が働いていないのだろうか。

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 けれど少将夫人は、そんな私の様子など気にすることなく、静かな口調で続ける。


「お隣のグランヴァール王国からよ」


 今度は聞き間違いではなかった。

 グランヴァール王国。

 つい先日まで戦争をしていた、あの隣国。


「現在進められている講和交渉の席でのことらしいわ」

「は、はい……」

「向こうから正式な打診があったの」


 少将夫人は一度言葉を区切る。

 まるで、その内容を私が受け止められるように。


「――『我が国の歴史的不覚を鮮やかに突いてみせた大英雄、レオン・ド・ヴァイス少将に、ぜひ我が国最高位の令嬢を嫁がせ、不戦の誓いとしたい』と」


 応接室が静まり返った。

 時計の針が進む音さえ聞こえそうだった。


 私はゆっくりと、その意味を理解していく。


 理解したくないのに。

 頭だけが勝手に理解してしまう。


 国。

 英雄。

 講和。

 そして――政略結婚。


 どれも、歴史書や騎士物語の中でしか見たことのない言葉だった。

 私には、一生関係のない世界の話だと思っていた。


 地方の小さな子爵家。

 畑を耕して、お茶屋さんへ行って、弟や妹と笑い合う。

 そんな毎日を送る私には、遠すぎる世界。


 その巨大な流れが今。

 私から、あの人を奪おうとしている。


 胸の奥が、すっと冷えていく。


 その時だった。

 正面に座るマリアンヌさんの肩が、小さく震え始めた。


「ふ……」

 笑っている。

「ふふ……」

 笑っているのに。

 その笑顔が、ものすごく怖い。

 美しい笑みなのに、瞳だけが全く笑っていない。


「あ、あの……マリアンヌさん?」


 恐る恐る声をかけた、その瞬間。

 彼女は勢いよく立ち上がった。


「――あのフニャチンの優柔不断男がぁぁぁぁーーーーーーっ!!」


「ひゃいっ!」

 私は思わずソファの上で飛び跳ねた。


 応接室の壁まで震えた気がする。

 しかし少将夫人だけは、慣れた様子でカップを押さえながら苦笑していた。


「マリアンヌ、落ち着きなさい」

「落ち着いていられるわけないでしょう、夫人!」


 バンッ!

 大理石のテーブルが鳴る。


「どうせ! どうせまた!」

 指を突きつけるように叫ぶ。

「あのバカ、自分の頭の上で国家規模の面倒くさい話が勝手に進んでるなんて、まったく知らないんでしょうけどね!?」


 その叫びに。

 少将夫人は、すっと目を逸らした。

 黙った。


 その沈黙だけで、答えは分かった。


 私は恐る恐る尋ねる。


「……し、知らないんですか?」

「たぶんね」

 即答だった。

 しかも、まだ目を逸らしたまま。


「ええっ!?」

「今頃どこかの会議室の隅で、『ここにサインしろ』と言われて、軍の書類を真面目に読んでいるんじゃないかしら」

「……」


 ありそうだった。

 ものすごく。

 信じられないくらい、ありそうだった。


 マリアンヌさんは額を押さえ、そのままソファへ崩れるように座り込む。


「……本当に、そういうところなのよ」

 深いため息。

「昔からそう」

 また一つ、ため息。

「結婚した時だってそうだったわ」

 静かな声だった。


「自分の人生で一番大事なことなのに」

 少しだけ目を伏せる。

「国のこと、軍のこと、部下のこと……」

 苦笑する。

「他人のことばっかり優先して、自分のことは全部後回し」


 私は何も言えなかった。


 否定できない。

 お見合いの時も。

 待命中も。

 あの人は、ずっとそうだった。


 だけど。

 本当に不謹慎で。

 情けないことだけれど。

 胸の奥では、小さく安堵している自分もいた。


 少なくとも。

 あの人が私を嫌いになって、新しい花嫁を探し始めた。

 そんな話ではなかったのだから。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて。

 マリアンヌさんが額から手を離し、ゆっくりと私を見つめる。


 その瞳は真っ直ぐだった。


 意地悪でもない。

 呆れでもない。

 一人の女性として、もう一人の女性へ向ける、本気の眼差し。


「――で」

「は、はい」

「リリアーヌさん」

 一呼吸置く。


「貴女は、どうしたいの?」


 私は息を呑んだ。


 少将夫人も何も言わない。

 二人とも、ただ静かに私を見つめている。

 逃げ道はなかった。


 窓は閉まっている。

 扉も閉じられている。

 何より、この問いから逃げる場所はどこにもない。


 私はゆっくりと俯いた。


 何ができるというのだろう。

 相手は国家。

 講和交渉。

 国と国を結ぶ話。

 そんなものに、地方子爵家の娘一人が逆らえるはずがない。


 身を引くべきなのかもしれない。

 「白百合の幻姫」らしく。

 静かに微笑んで。

 「お幸せに」と送り出すのが、大人なのかもしれない。


 だけど。

 胸の奥で。

 照れ笑いを浮かべたあの人が。

 黒塗りだらけの手紙の最後に、

 ――あなたとご家族の平穏を願っています。

 そう書いてくれたあの文字が。

 私の心を、何度も何度も揺さぶる。


 私は膝の上で、ドレスをぎゅっと握りしめた。


 震える声で。

 今にも消えそうなほど小さな声で。

 それでも、この部屋の誰にもはっきり届く声で。


「……嫌、です」


 その一言を口にした瞬間。

 胸の奥で、何かがほどけた。


 私はもう、「白百合の幻姫」ではなかった。

 身分差に怯えるだけの田舎の令嬢でもなかった。


 ただ一人の。

 不器用で、優しくて、誰よりも自分を後回しにしてしまう男の人に恋をした、ごく普通の女の子だった。


 生まれて初めて。

 私は、自分自身の本当の願いを、自分の口で、誰にも誤魔化さずに口にした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ