英雄誕生編4 元妻ふたたび
王都――モンフォール少将夫人のお屋敷。
豪奢な応接室には、午後の柔らかな陽射しが差し込み、銀のティーセットが静かに輝いていた。
私は、ふかふかのソファに腰掛けながらも、落ち着かない気持ちで何度もカップの取っ手を撫でていた。
少将夫人だけは、そんな私とは正反対だ。
紅茶を一口含み、いつも通り優雅に微笑む。
「もう一人呼んでいるから、本題はその方が来てからにしましょう」
「……本題」
思わずその言葉を繰り返す。
怖い。
ものすごく怖い。
電報一本で「スグキタレ」と呼び出されるような本題なんて、ろくな話であるはずがない。
胸の鼓動ばかりが大きくなる。
このまま待っていたら、ますます怖くなるだけだ。
私は意を決して口を開いた。
「あの……」
「なあに?」
「やっぱり……」
そこで声が小さくなる。
「身分違い、なんでしょうか」
少将夫人が止まった。
本当にぴたりと。
ティーカップを持ったまま、私を見つめている。
目をぱちぱちと瞬かせる。
数秒。
そして。
「……ふふっ」
吹き出した。
「そんなことを気にしていたの?」
「気にします!」
思わず立ち上がる勢いで答えてしまう。
「だって少将閣下ですよ!」
「ええ」
「国中の英雄ですよ!」
「そうねえ」
「私は田舎の子爵令嬢です!」
少将夫人はとうとう肩を震わせ始めた。
「そんなの、どうとでもなるわよ」
「……え?」
どうとでもなる?
私は目を丸くした。
「あなた、れっきとした子爵令嬢でしょう?」
「はい」
「なら十分よ」
「でも……」
まだ納得できない。
少将夫人は肩をすくめた。
「どうしても気になるなら、うちの養女になればいいじゃない」
「……はい?」
頭の中が止まる。
養女?
「そういうものよ」
まるで、
「今日は雨だから傘を使いましょう」
くらいの気軽さで言われた。
「家格が少し足りないなら、その間に格上の家が入る。それで解決」
「……そんな簡単なんですか」
「珍しい話じゃないわ」
貴族社会とは、私が思っているよりずっと現実的らしい。
少将夫人は紅茶を一口飲み、
「あとはクレルモン中将閣下の養女という手もあるわね」
と、さらりと付け加えた。
私は即座に首を振った。
「やめてください」
「どうして?」
「怖すぎます」
即答だった。
「毎日胃薬が必要になります」
少将夫人は声を上げて笑う。
「大丈夫よ」
「全然大丈夫な気がしません」
私は本気だった。
けれど。
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけていく。
少なくとも。
「身分が違うから終わり」
そういう話ではないらしい。
だったら。
本当の問題は何なのだろう。
そう思った時だった。
廊下から、規則正しい足音が近付いてきた。
少将夫人が微笑む。
「来たわね」
扉が静かに開く。
私は思わず立ち上がった。
入ってきた女性を見て、目を見開く。
「あ……」
向こうも私に気付いた。
「あら」
口元が柔らかく緩む。
「久しぶりね」
「マリアンヌさん!」
思わず頭を下げる。
「お久しぶりです」
「こんなに早くまた会うとは思わなかったわ」
以前と何一つ変わらない。
思ったことを、そのまま口にする。
その飾らなさに、少しだけ安心した。
「二人とも知り合いだものね」
少将夫人が楽しそうに笑う。
「ええ」
マリアンヌさんは私の向かいへ腰掛け。る
じっと私の顔を見つめ始めた。
……怖い。
服がおかしい?
髪?
化粧?
何か失礼があった?
不安ばかりが膨らむ。
やがて彼女は口を開いた。
「目の下、隈ができてるわよ」
「えっ?」
慌てて目元を触る。
「寝てないでしょう」
図星だった。
「……少しだけです」
「少しじゃない顔してるわ」
少将夫人まで頷く。
「確かに」
味方がいない。
私は肩を落とした。
「だって……」
小さく呟く。
「手紙が来ないんです」
応接室が静かになった。
マリアンヌさんが天井を見上げる。
少将夫人も天井を見上げる。
……なんで?
私は勇気を振り絞って聞いた。
「やっぱり……白紙撤回なんでしょうか」
今度は二人とも動きを止めた。
数秒。
顔を見合わせる。
そして。
「ないわね」
マリアンヌさんが即答した。
「え?」
「絶対ない」
迷いが一切ない。
少将夫人も苦笑しながら頷く。
「ええ。ないわね」
二対一だった。
私は目をぱちぱちさせる。
「なんでそんなに言い切れるんですか?」
マリアンヌさんは呆れたように笑った。
「あなた」
「はい」
「まだ分かってないの?」
「……何をですか?」
彼女は少し考えてから、
ため息混じりに言った。
「レオンが、どれだけ面倒くさい男か」
「ああ、それね」
少将夫人が即座に頷く。
ものすごく息が合っていた。
「任務中は手紙なんて後回し」
「そうね」
「自分のことはもっと後回し」
「そうね」
「恋愛なんて一番最後」
「そうね」
私は段々嫌な予感がしてきた。
「まさか……」
「まさかよ」
マリアンヌさんは紅茶を一口飲んでから言った。
「たぶん今頃、自分がどれだけ周りを心配させてるか、まったく気付いてないわ」
私は両手で顔を覆った。
ありそう。
ものすごくありそうだった。
「昔からなのよ」
「全然変わらないわね」
少将夫人とマリアンヌさんは、まるで長年の戦友のように同時にため息をつく。
私はその二人を交互に見比べながら、心の底から不思議に思った。
……元妻と、仲人になろうとしている人。
普通なら、もっとこう、火花が散るような関係ではないのだろうか。
なのに目の前の二人は、レオン・ド・ヴァイスという一人の不器用な男を前にした瞬間だけ、不思議なくらい息がぴったり合うのだった。




