英雄誕生編3 スグキタレ
今日も、あの人からの手紙は来なかった。
朝になるたび、私は窓辺へ向かう。
郵便屋さんが家の前の坂道を上ってくる時間は、もうすっかり覚えてしまった。
――今日は。
そう願いながら玄関へ飛び出す。
けれど。
郵便屋さんは申し訳なさそうに笑って、また次の家へ向かってしまう。
「……ありがとうございました」
そう返事をする頃には、胸の中に広がった期待は、もう静かにしぼんでいた。
そんな日が、一日。
二日。
三日。
気付けば何度も繰り返されていた。
私は窓辺に立ち、初夏の青空をぼんやりと見上げる。
白い雲が、ゆっくり流れていく。
口から漏れるのは、今日もため息だった。
「……少将閣下、か」
小さく呟いてみる。
違和感しかない。
私の中では、今でもあの人は"ヴァイス中佐"だった。
お茶屋さんでお団子を頬張りながら、
「私は引きこもりです」
なんて真顔で言っていた、あの少し困ったような笑顔の人。
けれど新聞は違う。
『国民的英雄』
『歴史を変えた男』
『レオンハルト・ド・ヴァイス少将』
どの新聞も同じような見出しを躍らせている。
もう誰も、中佐とは呼ばない。
国中が、あの人を「少将閣下」と呼んでいた。
そのたびに。
私だけが置いていかれているような気がした。
ガルドン要塞陥落。
停戦交渉開始。
新聞は毎日、似たような記事ばかり載せている。
どの記事にも、あの人の名前がある。
でも。
私のところへだけは、何も届かない。
机の引き出しを開ける。
一番上には、最後にもらった手紙。
黒塗りだらけの手紙だった。
何度読み返しただろう。
紙の端は少し柔らかくなり、折り目も少し擦り切れている。
指先で、最後の一文をそっとなぞった。
『あなたとご家族の平穏を願っています』
その文字だけは、何度見ても温かかった。
でも。
その続きを待っている私には、もう何日も新しい便りは届かない。
戦闘は終わったという。
講和交渉が始まった。
要塞の戦後処理だって、少しは落ち着いた頃のはずだ。
少将になったのなら、なおさら事務仕事も増えただろう。
それでも。
一筆くらいなら書けるはずじゃないだろうか。
……それとも。
書けない理由があるのだろうか。
考えてはいけない。
そう思うほど、頭の中では最悪の想像ばかりが膨らんでいく。
『婚約の件ですが、白紙撤回させてください』
そこから先は考えられなかった。
私はぎゅっと目を閉じる。
そんな手紙。
読みたくない。
絶対に読みたくない。
でも。
もし国家が決めたことなら。
少将閣下になったあの人には逆らえないかもしれない。
私はただの子爵家の娘。
釣り合わないのは、どう考えても私の方だった。
◇◇◇
「……リアンヌ!」
階下からお母様の声が聞こえる。
返事をする気力もなく、私は机に突っ伏した。
階段を駆け上がってくる足音。
勢いよく扉が開いた。
「リアンヌ!」
飛び込んできたのは、お母様だった。
肩で息をしている。
顔色まで変わっていた。
私は椅子から飛び上がる。
「お、お母様?」
「電報よ!」
その一言で。
私の心臓は、嫌な音を立てた。
電報。
急を要する知らせ。
つまり。
普通ではない。
震える手で差し出された紙を受け取る。
まず目に入ったのは差出人だった。
――少将夫人。
「……!」
頭の中が真っ白になる。
少将夫人が。
わざわざ電報を使う。
それだけで、嫌な予感しかしなかった。
恐る恐る本文を見る。
たった一行。
『スグキタレ』
それだけ。
短い。
短すぎる。
だからこそ恐ろしかった。
「な……何があったんですか……?」
自分でも驚くほど震えた声が出た。
もちろん、お母様も首を横に振る。
「分からないの……」
居間へ降りると、お父様も電報を何度も読み返していた。
難しい顔。
重苦しい沈黙。
誰も何も言えない。
『スグキタレ』
その文字だけが、部屋中を支配していた。
少将夫人が。
理由も書かず。
ただ「すぐ来い」とだけ命じる。
そんな事態が、ろくなものであるはずがない。
私も。
お父様も。
お母様も。
三人とも、完全に青ざめていた。
その静寂を破ったのは。
今まで黙って電報を眺めていたクロエだった。
まだ幼い妹は、何の悪気もなく首を傾げる。
「……もしかして」
その一言だけで、私の心臓は跳ねた。
「中佐さんの……」
お願い。
その先は言わないで。
「べつのひととの、こんやく?」
世界から音が消えた。
頭の中が真っ白になる。
心臓だけが、大きく、大きく鳴っていた。
――その考えだけは、一度も口にしてはいけないと思っていた。
だからこそ。
幼い妹の無邪気な一言は、誰よりも鋭く、私の胸を貫いた。




