英雄誕生編2 彼は遠い所に行ってしまった。
気がつけば、居間に重苦しい沈黙が落ちていた。
さっきまで自転車の話で笑い転げていたとは思えない。
ルシアンもクロエも、異様な空気を察したのだろう。
二人とも口を閉じ、不安そうに父と母の顔を見比べていた。
お父様は新聞を膝の上に置いたまま、深く息を吐く。
「……リアンヌ」
その声だけで、胸がざわついた。
「はい」
「少し、辛い話をする」
私は黙って頷いた。
お父様はしばらく言葉を探し、それから静かに口を開く。
「ヴァイス大佐は、おそらく少将になる」
「……はい」
それは、さっきも聞いた。
でも。
今度は、それだけでは終わらなかった。
「かつての砦の英雄とは比較にならない、真の英雄になった」
「……」
「国家が放っておく存在ではない」
私は黙って聞く。
「これから先、王宮も、軍部も、各派閥も、誰もが彼を味方につけようとする」
お父様は苦しそうに目を閉じた。
「そうなれば……婚姻も、個人の問題では済まなくなる」
私は、そこで初めて首を傾げた。
「婚姻……?」
「英雄は、英雄として扱われる」
静かな声だった。
「軍の功績だけではない。家柄も、人脈も、政治も、すべて含めて利用される」
私は、まだ理解できなかった。
利用?
誰を?
どうして?
お父様は続ける。
「今までなら、地方子爵家の娘との縁談でも、誰も気にしなかった」
胸がざわつく。
「だが、少将となれば話は違う」
私はゆっくり顔を上げた。
お父様は娘を見ることができず、新聞へ視線を落としたまま言う。
「……王侯に連なる家との縁談が持ち込まれても、不思議ではない」
その瞬間だった。
私の中で、ばらばらだった言葉が、一つにつながった。
少将。
英雄。
国家。
縁談。
そして。
私は。
地方子爵家の娘。
何もない。
何の取り柄もない。
「……え」
喉が震えた。
「じゃあ……」
誰も答えない。
「私……」
自分で続きを言えなかった。
お母様が顔を伏せる。
お父様だけが、小さく目を閉じた。
「最悪の場合だ」
それでも言った。
「まだ決まった話ではない」
でも。
その慰めは、ほとんど耳に入らなかった。
頭の中に浮かぶ。
お見合いの日。
「私なんかでよければ」
少し困ったように笑っていた人。
お茶屋さん。
黒塗りだらけの手紙。
『あなたとご家族の平穏を願っています』
あの一文。
あの人は。
私に届く場所にいた。
私が手を伸ばせば、届く場所に。
でも。
英雄になってしまったら。
少将になってしまったら。
国家の英雄になってしまったら。
もう。
私は。
「……いや」
ぽつりと漏れた。
「いや……」
涙が一粒、膝へ落ちる。
「いやだ……」
気づけば、手紙を胸へ抱き締めていた。
「少将になんて……ならなくてよかったのに……」
声が震える。
「大佐になんて……ならなくてよかったのに……」
お母様が目を潤ませる。
私は止まれなかった。
「英雄なんて……ならなくてよかったのに……!」
涙が次々と零れる。
「要塞なんて……落とさなくてよかったのに……!」
私は子どものように泣いた。
「ずっと……待命のままでよかったのに……!」
彼が生きていてくれた。
それだけで十分だった。
遠くから手紙を書いてくれる。
それだけで幸せだった。
なのに。
英雄になるということは。
私から、あの人を奪ってしまうことなのだと。
そう思った瞬間。
私は床に崩れ落ち、声を上げて泣き続けた。




