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たまたま編9 そして私は灰になった…

 町の人たちは、きっと今も聞き耳を立てている。

 たぶん。


 でも、不思議だった。

 さっきまであれほど気になっていた視線が、今はもうほとんど気にならない。


 向かいには中佐さんがいる。


 それだけで十分だった。


 湯飲みから立ちのぼる湯気。

 湯に映る淡い空。


 団子を一つ口に運び、とりとめのない話を交わす。

 そんな穏やかな時間が、ずっと続くものだと思っていた。


 けれど。

 どこか様子が違った。


 中佐さんは何度か口を開きかけては閉じ、言葉を選ぶように視線を落とす。


 私はそっと湯飲みを握りしめた。


 胸の奥がざわつく。

 理由は分からない。

 ただ、嫌な予感だけが少しずつ大きくなっていく。


 やがて彼は静かに口を開いた。


「直接お会いして、お伝えしたいことがありました」


 その一言で、胸がぎゅっと締めつけられた。


 やっぱり。

 そう思ってしまった。


 少将夫人の話。

 『白百合の幻姫』という噂。

 王都で勝手に作られた私という人物。

 本当の私を知って、やはり違うと思われたのではないか。

 そんな考えが、一瞬で頭を埋め尽くす。


 けれど。

 彼の口から出た言葉は、まったく違っていた。


「次の任務が決まりました」


 私は思わず瞬きをする。


 予想していた言葉ではなかった。


 けれど。

 もっと嫌だった。


「詳しくは軍機がありますので申し上げられません」


 その声は、行軍の列で見た軍人の声だった。


「前線勤務になります」


 胸の奥が、音もなく冷えていく。


 前線。


 軍のことは詳しくない。

 それでも、その言葉だけは知っている。


 危険な場所。

 命を落とす人がいる場所。


「しばらく、お会いできないと思います」


 世界から音が消えた気がした。

 町のざわめきも。

 湯の立つ音も。

 風が木々を揺らす音も。

 何も耳に入らない。


 ただ、その一言だけが胸に残る。


 ――会えない。


 たったそれだけのことが、こんなにも苦しい。


 昨日まで知らなかった。


 ただの知り合いなら、こんな気持ちにはならない。

 手紙を何度も読み返したりしない。

 軍服を見かけるたび、その姿を探したりしない。

 買い物へ行く途中で道に迷ったりもしない。


 私は湯飲みを強く握った。


 何か言わなくちゃ。

 そう思うのに、言葉が見つからない。


 ようやく唇からこぼれたのは、あまりにも幼い一言だった。


「……危ないんですか?」


 中佐さんは少しだけ困ったように笑った。


 きっと、

「任務ですから」

 とか。

「大丈夫です」

 とか。

 軍人らしい答えが返ってくるのだと思った。


 でも彼は少し考え、正直に答えた。


「……たぶん」


 その一言が、胸に深く刺さる。


 ごまかさない人なんだ。

 だからこそ、怖かった。


 初めて。

 本当に初めて。

 私は理解した。


 砦の英雄でも。

 王弟派閥の名将でもない。

 レオン・ド・ヴァイスという一人の人は、これから戦場へ向かうのだと。


◇◇◇


「手紙は書きます」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「本当ですか?」

「ええ」


 少しだけ、胸が軽くなる。


 けれど彼は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ただ、届かないこともあります」

「え……」

「軍の郵便ですから。検閲もありますし」


 検閲。

 聞いたことはある。


「届いても、黒塗りだらけで何を書いたのか分からないかもしれません」

 その言い方がおかしくて、思わず小さく笑ってしまった。

「……面白そうですね」


 彼もつられて笑う。

「その時は、許してください」

 その笑顔が、なぜだか少し切なかった。


 やがて別れの時間が来る。


 中佐さんは静かに立ち上がった。


 私は立ち上がれなかった。


 何か言わなければ。

 最後に何か。

 そう思うほど、言葉は遠ざかっていく。


 ようやく絞り出せたのは、どこにでもある挨拶だった。


「……お気をつけて」


 彼は穏やかにうなずいた。


「ありがとうございます」


 それだけ言って踵を返す。


 軍服の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 見えなくなるまで、私はただ、その背中を見送っていた。


◇◇◇


 どれほど時間が経ったのだろう。


 気がつくと、お茶屋は驚くほど静かだった。


 さっきまで騒いでいた町の人たちも、誰一人として茶化そうとはしない。


 店主さんが黙って新しいお茶を置いてくれる。

 湯気だけが静かに揺れていた。


「お嬢ちゃん」

 優しい声だった。

「大丈夫かい」


 大丈夫です。

 そう答えようとした。

 けれど、声にならなかった。


 胸の中が空っぽだった。


 まるで、自分が真っ白な灰になってしまったみたいだった。

 風が吹けば、そのままさらさらと飛んでいってしまいそうな。

 そんな心細さだけが残っている。


 ――会えなくなる。


 その事実が、こんなにも苦しい。


 その苦しさの正体を、私はもう知ってしまっていた。


たまたま編はここまでです。

全体としても折り返しを過ぎました。


前線に行ってしまった中佐さん。

しかし戦端が開かれるのはリアンヌの方でした。

次回からは元妻対決編に入ります。

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