たまたま編8 お会いできて嬉しいです
湯飲みを両手で包み込み、私は静かにお茶をすすった。
もう何杯目だろう。
団子は二本食べた。
三本目に手を伸ばす勇気は、さすがになかった。
「まだかねえ」
誰かがぼやく。
「じれったいな」
「俺が連れてきてやる」
「やめときな。捕まるぞ」
店のあちこちから笑い声が上がる。
私は苦笑しながら、少し冷めたお茶を見つめた。
気づけば、日は西へ傾いていた。
長く伸びる影。
家路を急ぐ人たち。
店の前を行き交う旅人も、少しずつ減っていく。
私は小さく息をついた。
やっぱり。
"たまたま作戦"なんて、そうそううまくいくものじゃない。
中佐さんは仕事中。
私はただ、お茶を飲みに来た客。
それだけのことだ。
◇◇◇
その時だった。
ふっと、店の外が静かになった。
さっきまで聞こえていた笑い声が、不自然なくらいぴたりと止む。
私は顔を上げた。
店主さんが入口を見つめている。
八百屋のおじさんも。
魚屋のおばちゃんも。
みんな同じ方向を見ていた。
何だろう。
そう思って振り返る。
――そこにいた。
軍服姿。
けれど馬はいない。
護衛も部下もいない。
腰には剣を帯びているものの、その姿は先ほどまでの凛々しい護衛武官ではなく、一日の仕事を終えた一人の軍人だった。
レオン・ド・ヴァイス中佐。
彼もまた、私を見つけると一瞬だけ目を丸くした。
本当にいた。
そんな表情だった。
そして、その驚きはすぐに穏やかな笑みに変わる。
「こんにちは」
ただ、それだけ。
劇的な再会でもない。
運命的な演出もない。
ただ交わされた、何気ない挨拶。
それなのに。
私の心臓だけは、まるで暴れ馬のように言うことを聞いてくれなかった。
「こ……こんにちは」
見事に声が裏返る。
後ろで誰かが吹き出した。
振り返らなくても分かる。
たぶん、町のみんなだ。
店主さんは満足そうに腕を組み、
八百屋のおじさんは小さく拳を握り、
魚屋のおばちゃんは隣の人と目を合わせて何度もうなずいている。
お願いだから。
少しだけ放っておいてください。
私が心の中で悲鳴を上げていると、中佐さんが不思議そうに首を傾げた。
「何かありましたか?」
「い、いえ!」
何もありません。
町ぐるみの大作戦が成功しただけです。
◇◇◇
聞かれている。
絶対に聞かれている。
店主さんは湯飲みを拭くふり。
八百屋のおじさんは団子を食べるふり。
魚屋のおばちゃんは窓の外を眺めるふり。
誰一人こちらを見ていない。
なのに全員、耳だけはこちらを向いている気がした。
本当なら。
「お久しぶりです」
とか。
「お仕事、お疲れさまです」
とか。
そんな当たり障りのない言葉を選ぶべきだった。
そのはずだった。
けれど。
彼の顔を見た瞬間。
胸の奥に浮かんだ気持ちが、そのまま口からこぼれてしまった。
「……お会いできて、嬉しいです」
言ってしまった。
次の瞬間、自分で自分の言葉に固まる。
しまった。
頭の中が真っ白になる。
町まで静まり返ったような気がした。
穴があったら入りたい。
いや、この町には井戸しかない。
飛び込もうか。
そんなことまで考え始めた時だった。
中佐さんは少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。
「それは良かった」
その柔らかな声だけで、胸が大きく跳ねる。
そして彼は、少し照れたように視線を泳がせた。
「……自分も」
一呼吸置いて。
「お会いできて、嬉しかったです」
時間が止まった。
――ガタン。
店の奥で盛大な音が響く。
誰かが椅子から転げ落ちたらしい。
見なくても分かる。
たぶん八百屋のおじさんだ。
店主さんは口を押さえて肩を震わせ、
魚屋のおばちゃんは隣の人の腕をぎゅっと掴んでいる。
だから。
お願いだから、静かにしてください。
恥ずかしくてたまらない。
今すぐ逃げ出したい。
それなのに。
胸の奥は、驚くほど温かかった。
手紙をもらった時よりも。
オペラで笑い合った時よりも。
ずっと。
その時、ふと気づく。
中佐さんも、どこか落ち着かない様子だった。
視線が少し泳ぎ、
耳元が、ほんのり赤い。
その小さな変化を見つけた瞬間。
町中の視線なんて、もうどうでもよくなっていた。




