たまたま編6 彼は知っているけど知らない人
王弟殿下が来る。
その事実は町中を大騒ぎにした。
「何人来るんだろうねぇ」
ルシアンとクロエが盛り上がっている。
私は父を見る。
「何人くらいなんですか?」
「千人くらいかもしれん」
私は固まった。
我が町の人口と比較してはいけない気がした。
「どこに泊まるんです?」
「泊まれん」
父は即答した。
そうだろう。
この町には宿が三軒しかない。
しかも、王族が泊まるような高級宿。
そんなもの存在しない。
「じゃあどうするんです?」
「野営だな」
野営。
野宿?
王族が?
意味が分からない。
そして、翌日。
意味が分かった。
先発隊がやって来た。
その日の昼。
何もなかった草地。
夕方。
そこには町が出来ていた。
私はぽかんと口を開けた。
天幕。
柵。
見張り台。
炊事場。
馬の囲い。
全部ある。
何これ。
軍隊って凄い。
私はしばらく呆然と眺めていた。
そして、ふと思う。
今なら、会えるかもしれない。
中佐さん。
私ははっとした。
いや。
会いに行くって何。
仕事中だ。
でも、近くにいるかもしれない。
少しくらい。
私はこっそり陣地へ向かった。
◇◇◇
結果。
無理だった。
「立ち入り禁止です」
入口で止められた。
終わり。
私はとぼとぼ帰る。
考えてみれば当然だ。
王弟殿下が来る。
軍隊も来る。
知らない娘が来た。
通す訳がない。
私は溜息をついた。
じゃあ。
貴族として挨拶は?
ご機嫌伺い。
そういうのあるのでは?
帰宅してお父様に聞いてみた。
「子爵家としてご挨拶は?」
お父様は私を見た。
それから一言。
「子爵風情が王族に?」
終わった。
私は机に突っ伏した。
「そうですよね……」
私は考える。
会いに行けない。
呼ばれない。
挨拶も無理。
どうすればいいんだろう。
母が紅茶を飲みながら言った。
「だから言ったでしょう?」
嫌な予感。
「こういう時は、たまたま作戦よ」
私は頭を抱えた。
どうやら、貴族の恋というものは。
戦争より難しいらしかった。
◇◇◇
そして次の日。
「お姉ちゃん!」
ルシアンが駆け寄ってきた。
「軍隊!」
外から歓声が聞こえる。
町中の人が集まっていた。
「ほら、お姉ちゃんも早く! 行進が通っちゃう!」
「え? 行進?」
「そうだよ、見に行こう!」
きらきらと目を輝かせるルシアン。
引っ張られて、私に断る理由もなかった。
私は普段着に着替える。
町娘同然の服。
いつもの靴。
いつもの髪型。
ルシアンとクロエの手を引いて家を出た。
途中で少し考える。
もし。
本当に中佐さんが来ていたとして。
この格好なら。
絶対に気付かれない。
しかも子連れ。
完璧だ。
そう思って。
少しだけむなしくなった。
なんで私は。
気付かれないことを前提にしてるんだろう。
自分でもよく分からなかった。
◇◇◇
人垣の向こうから軍楽隊が見える。
太鼓。
ラッパ。
旗。
ルシアンが目を輝かせる。
「すげー!」
確かに凄かった。
隊列は乱れない。
歩幅も揃っている。
まるで一つの生き物みたいだった。
そして。
私は見つけてしまった。
いた。
本当にいた。
立派な馬車。
そのすぐ近く。
見事な軍馬に跨る、一人の凛とした人影。
レオン・ド・ヴァイス中佐。
間違いない。
でも。
何かが、決定的に違っていた。
私は思わず息を呑む。
軍服姿。
当然だ。
知っている。
最初に会った時も軍服だった。
でも、違った。
まるで、私の知らない別人だった。
表情は厳しい。
視線は絶えず周囲を見ている。
背筋は真っ直ぐ。
馬上の姿にも無駄がない。
私が知っている人は。
「草むしりしてます」
とか。
「残業です」
とか。
そんなことを言っていた人だ。
なのに。
今そこにいるのは。
軍人だった。
本物の。 戦場を生き抜いてきた、本物の軍人。
王弟殿下の馬車を守る。
軍の中でも特別な任務についている人。
お父様が言っていた。
軍で五十番目から百番目くらいに偉い人。
その言葉の、本当の重みと意味を。
私はこの瞬間、初めて肌で理解した気がした。
中佐さん。
そう呼ぶのは簡単だ。
でも今見ているのは。
私が知っている中佐さんであり。
私の知らない中佐さんでもあった。
少しだけ。
遠い人に見えた。
胸がきゅっとなる。
◇◇◇
王弟殿下の一行は、ゆっくりと町の大通りを進んでいく。
沿道の人々は歓声を上げ、子どもたちは旗を振り、大人たちは深々と頭を下げていた。
その時だった。
彼の視線が、ゆっくりとこちらへ流れてきた。
どきり、と胸が鳴る。
私は反射的にルシアンの後ろへ身を引いた。
ばか。
何を隠れてるの。
私は町娘みたいな格好をしてるんだから、分かるわけないじゃない。
そう自分に言い聞かせる。
それでも鼓動は止まらない。
恐る恐る、もう一度だけ顔を出した。
中佐さんは――こちらを見ていた。
いや。
違う。
正確には、この辺りを警戒しているだけだ。
そう。
仕事中なのだから。
町の安全を確認しているだけ。
私なんて見えているはずがない。
そう思った、その瞬間。
彼の目が、ほんのわずかに細められた気がした。
私は息を止める。
まさか。
気付いた?
いや、そんなはずは――。
次の瞬間には、その視線はもう前方へ戻っていた。
王弟殿下の馬車が交差点へ差しかかる。
中佐さんは手綱を軽く引き、護衛の位置を整えながら、何事もなかったように行列とともに去っていく。
私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
「お姉ちゃん!」
クロエが袖を引っ張る。
「すごかったね!」
「……うん」
それしか言えなかった。
本当にすごかった。
英雄だったからじゃない。
軍人だったからでもない。
私が知っている優しい人と。
あの凛々しい軍人が。
同じ人なのだと知ってしまったから。
行列が見えなくなっても、私はしばらくその場を動けなかった。
胸の奥だけが、さっきからずっと、静かに熱を帯び続けていた。




