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たまたま編5 ホントに来るらしい

 町の広場では、今日もいつものように井戸端会議が開かれていた。


 洗濯物を干し終えたおばさん達。

 買い物帰りのお姉さん達。

 そして、なぜかその輪に混ざっている私。


「聞いた?」

「聞いた聞いた」

「王弟殿下がいらっしゃるんだって」


 その言葉に、私は思わず耳をそばだてた。


 王弟殿下。

 王国軍最高司令長官。

 軍を束ねる、この国でも指折りの大人物だ。


「視察らしいよ」

「へぇ」

「お偉いさんは大変だねぇ」


 私は首を傾げる。


「でも、この町は通るだけですよね?」

「そうそう」

 おばさんが頷いた。

「この先まで行くらしいよ」


 この先。

 山があって、海がある。

 山の幸はおいしい。

 海の幸もおいしい。

 それ以外は、特に何もない。


 軍隊が何をしに行くのだろう。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。


 ――『近々、仕事でヴァレブランへ伺うことになりそうです』


 手紙の一文がよみがえる。


 王弟殿下。

 この町を通る。

 中佐さん。

 近々、仕事で来る。


 私は口をぱくぱくと動かした。


「え……」


 思わず声が漏れる。


 おばさん達が一斉にこちらを見た。

「どうしたの?」

「顔、赤いよ?」

「な、何でもありません!」

 私は慌てて首を振った。


 もし。

 もし、本当にそうだとしたら。


 中佐さんは王弟殿下の随員として、この町へ来る。


 そして、万が一。

 本当に万が一だけれど。

 行軍の途中で私を見つけて――


『殿下。こちらが以前、オペラへご一緒したモンテル家のご令嬢です』


 なんて紹介でもされたら。


 ぎゃあああああっ。


 心の中だけで盛大な悲鳴を上げた。


 いやいや。

 落ち着こう。

 まだ何も決まっていない。

 仕事で来る。

 ただ、それだけだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 それでも。

 また、あの人に会えるかもしれない。


 その可能性に気付いてしまった瞬間から、胸はさっきよりもずっと騒がしかった。


 偉い人が来るなんて怖い。

 何が起こるのか分からなくて不安だ。

 それなのに。

 あの人の姿を、もう一度見られるかもしれない。


 そう思うだけで、心が弾んでしまう自分がいた。


◇◇◇


 夕食の席で、私は昼間聞いた話を切り出した。

「王弟殿下が来られるそうです」


 お父様が頷く。

「らしいな」


 私は少し迷ってから続けた。


「中佐さんも来られるんでしょうか」


 父と母が顔を見合わせる。


「可能性はある」

 お父様はそう答えた。

「でも待命中ですよね?」

「そうだな」

「どうして随員になるんでしょう」


 お父様は少し考え込み、それからあっさりと言った。

「暇だからかもしれん」


 私はぽかんとした。


「そんな理由ですか?」

「軍隊だぞ」

 真顔で返される。

「人手が余っていれば使う」


 ……ひどい。


 思わず苦笑しかけた、その時だった。


「もしかすると」

 お母様が意味ありげに笑う。


 嫌な予感がした。

 その目は、少将夫人と話している時と同じだ。

 何か楽しい妄想を始める時の目。


「待命中というのは表向きで――」

 お父様まで乗ってきた。

「なるほど」

 腕を組み、もっともらしく頷く。

「お気に入りの部下を、手元に置いておくための口実か」

「あら、それ素敵じゃない」

 お母様が嬉しそうに手を叩く。

「気に入られてるのねぇ」


 二人は楽しそうに笑っていた。


 いつもの調子だ。


 なのに。

 私は笑えなかった。


 胸の奥が、すうっと冷えていく。

 気付けば、スプーンをぎゅっと握り締めていた。


「……やめて」


 ぽつり。

 自分でも驚くほど静かで、低い声だった。


 二人の笑い声がぴたりと止まる。


 お父様も、お母様も、同時にこちらを見た。


 私自身も、自分の声に驚いていた。


 どうして。

 どうして今、こんな言い方をしたんだろう。


「リアンヌ?」


 お母様が戸惑ったように名前を呼ぶ。


 私は視線を落とした。

「だって……」


 言葉を探す。


「中佐さん」


 砦の英雄。

 王都中が知る軍人。

 そんな人じゃない。


 私が知っているのは。

 草むしりをして。

 書類の山に埋もれて。

 笑うと少し照れくさそうで。

 普通に話して。

 普通に笑う人。


「勝手に話を作られるの」


 少将夫人。

 学園の噂。

 英雄譚。

 いろいろな話が頭をよぎる。


「嫌だって……言ってました」


 静かな食卓に、その声だけが落ちる。


 「だから」


 私は小さく首を振った。


「そういうふうに言うのは、かわいそうです」


 しん、と静まり返る。


 お父様も、お母様も、何も言わなかった。


 私は急に不安になる。

 変なことを言っただろうか。

 空気を悪くしてしまっただろうか。


 しばらくして。

 お父様が、ふっと笑った。

「そうだな」

 穏やかな声だった。

「わしらが悪かった」


 お母様も優しく頷く。

「ごめんなさいね」


 張り詰めていた肩の力が抜ける。

 私はようやく、小さく笑い返すことができた。


 その様子を見ながら、お父様とお母様はそっと目を合わせる。


 言葉はない。

 けれど、お互いに同じことを思っていた。


 ――この子、本当にあの人のことが好きになり始めている。


 そのことに。

 当の自分だけが、まだ気付いていなかった。


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