おでかけ編8 ふにゃふにゃ
オペラは終わった。
正直に言う。
面白かった。
びっくりするくらい面白かった。
きらびやかな衣装を纏った歌手たちの圧倒的な歌声。
オーケストラが奏でる重厚な響き。
そして舞台上で繰り広げられる波乱万丈な愛憎劇。
場違いな空間への恐怖もいつの間にか忘れた。
私は完全にその世界へと引き込まれていたのだった。
◇◇◇
劇場に併設されたレストラン。
私達は向かい合って座っていた。
周囲は上品な会話ばかり。
たぶん。
「今夜のソプラノの、あの高音の伸びは実に見事でしたね」
とか。
「第二幕の解釈が」
とか。
そういう話をする場所だ。
「お肉美味しいですね」
言ってしまった。
だって美味しいのだ。
中佐さんがふわりと目元を緩めて笑った。
「美味しいですね」
同意された。
よかった。
マナー違反だと引かれなくて。
「オペラは面白かったです」
「ええ」
「授業で見たことはありましたけど」
「ああ」
「やっぱり全然違いますね」
「それは同感です」
中佐さんも頷く。
「私も似たようなものですよ」
「え?」
「まともに観劇したことなど、士官学校の授業くらいです」
なんだか親近感が湧いた。
会話は続く。
楽しい。
普通に楽しい。
でも。
ダメだ。
私は今日。
お肉を食べに来たんじゃない。
オペラの感想を語り合いに来たんじゃない。
言わなきゃ。
白百合の幻姫。
あの誤解。
解かなきゃ。
でも、どうやって?
『実は違うんです』
そう切り出すのは簡単だ。
その先は?
『私はそんな立派な人間じゃありません』
それを突然言われた相手はどう思うだろう。
『そうですか』
で終わる?
終わらない気がする。
私はフォークを置く。
中佐さんは気付いていない。
いや、気付いているかもしれない。
この人は案外よく見ている。
言わなきゃ。
今しかない。
言わなきゃ。言わなきゃ。言わなきゃ。
そして、私は負けた。
考えることに。
「私は白百合の幻姫なんて、大それた人間じゃありません」
気づけば、口にしていた。
ずっと胸につかえていた言葉だった。
中佐さんの手が止まる。
フォークを持ったまま、静かに私を見つめた。
しまった。
唐突すぎた。
そう思った時だった。
「……そうですか」
それだけ言って、小さく頷く。
否定も、驚きもない。
私は拍子抜けした。
「あの……」
慌てて言葉を継ぐ。
「少将夫人も、学院の皆さんも、何か勘違いしているんです」
私は堰を切ったように話し始めた。
「陰謀なんて分かりませんし」
「はい」
「派閥なんて難しい話も苦手です」
「はい」
「弟と妹の喧嘩も止められません」
「はい」
「洗濯もしますし、市場のおばさんと立ち話もします」
「はい」
全部言ってしまった。
もう後戻りはできない。
中佐さんは静かに聞いていた。
やがて少しだけ笑う。
「それは」
私は身構える。
「とても素敵なことだと思います」
「……え?」
思わず聞き返した。
「私は、最初からそういう方だと思っていました」
理解が追いつかない。
そんな私を見て、中佐さんは少し照れくさそうに笑う。
「自分も似たようなものですから」
「え?」
「砦です」
あ。
雪の砦。
英雄誕生。
あの話だ。
「私は、引きこもっていたら英雄になっていました」
思わず吹き出した。
「そんなわけありません」
「本当ですよ」
本人はいたって真面目だった。
「軍人になった頃は、退役する間際にお情けで大佐にしてもらえるくらいで大成功だと思っていました」
地方の貧乏貴族の次男としては、それだけでも十分に大出世なんだろう。
「英雄になる予定もありませんでした」
一拍置いて。
「歴史に名前が残る予定も」
さらに一拍。
「離婚する予定も」
私は思わず苦笑する。
「そこは返事に困ります」
「私も困っています」
その返しがおかしくて、二人で笑った。
笑いがおさまると、中佐さんは静かに続けた。
「人は、物語を作るんです」
「物語?」
「英雄がいる方が分かりやすい」
静かな声だった。
「ですが本人は、大抵そんな立派なことは考えていません」
私は息をのむ。
それは。
自分のことでもあった。
白百合の幻姫。
孤高の令嬢。
学院の伝説。
そんな人は、私も知らない。
でも。
砦の英雄。
不屈の名将。
軍の希望。
それもきっと。
中佐さん自身が知っている姿ではない。
「だから」
彼は穏やかに笑った。
「少将夫人のお話は聞きました」
「はい」
「ですが、それだけで決めるつもりはありませんでした」
私は顔を上げる。
「実際にお会いした方が早いと思ったんです」
その一言が。
胸の奥へ、すっと落ちた。
白百合の幻姫だからではない。
学院で有名だったからでもない。
私自身を見ようとしてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
中佐さんは少し照れたように続ける。
「正直に申し上げると」
「はい」
「少し怖かったんです」
「怖かった?」
「学院の伝説の令嬢ですから」
私は思わず額に手を当てた。
「またその話ですか……」
「いかなる時も動じない冷徹な美女が現れたらどうしよう、と」
私は吹き出す。
「違います!」
「ええ」
中佐さんも笑う。
「違いました」
その笑顔は、とても柔らかかった。
「思っていた以上に普通でした」
普通。
その言葉が、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
「普通に話してくださって」
「はい」
「普通に笑ってくださって」
「はい」
「弟さんや妹さんのお話を、本当に楽しそうにされていて」
私は少し照れる。
「それに」
一瞬だけ迷ってから。
「お肉を、とても美味しそうに召し上がる」
私はとうとう吹き出した。
「そこですか?」
「そこです」
真面目に返ってくる。
また笑ってしまう。
「ほっとしました」
その声は、とても静かだった。
「そして」
少しだけ視線を逸らして。
「楽しいです」
私は瞬きをした。
「こうしてお話ししていると」
彼は照れたように笑う。
「肩の力を抜いていられます」
そして、本当に何気なく。
「私は、そういう方が好きなんです」
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
今。
なんて言った?
好き?
好きと言った?
違う。
たぶん違う。
きっとそういう意味じゃない。
性格の話だ。
普通の人が好き。
そういう意味。
たぶん。きっと。絶対。
でも、嬉しい。
とても、嬉しい。
びっくりするくらい、嬉しい。
その一言だけで。
今日一日頑張って良かったと。
そう思ってしまった。
◇◇◇
その後、何を話したのか、あまり覚えていない。
ちゃんと返事はした。
……たぶん。そうであってほしい。
気づけば馬車に乗り、気づけば少将邸へ戻っていた。
「ただいま帰りました」
待っていてくれた母は、私の顔を見るなり動きを止めた。
じっと見つめ。
さらに一歩近づいてくる。
「……まさか」
嫌な予感がした。
「お酒、飲んだの?」
「飲んでません!」
即答だった。
「本当に?」
「本当です!」
「一滴も?」
「一滴も!」
母は腕を組んだまま首をかしげる。
「じゃあ、その顔は何?」
「顔?」
鏡を渡される。
恐る恐る覗き込んで。
私は固まった。
ふにゃふにゃだった。
そこに映っていたのは。
頬をほんのり赤く染め。
目尻をふわりと下げ。
今にも鼻歌でも歌い出しそうなほど幸せそうな私だった。
「ち、違います!」
母はため息交じりに笑った。
「何が違うの?」
私は答えられなかった。
ただ、今日一日を思い出すだけで。
胸の奥が少し温かくなる。
そんな自分がいることだけは。
なんとなく分かっていた。
第2章のおでかけデート編はここまでです。
リアンヌにもわかる初級軍事用語講座を含む内容でした。
続々登場する高級軍人さんたちですが、
リアンヌと同じように「そういう人たちがいるんだ」くらいの認識で十分です。
世界観の説明に使っただけで、今後そんなに出番は多くないです。
次回からは第3章たまたまデート編に入ります。




