おでかけ編7 怖い人も中佐さんと一緒なら…
「ヴァイス中佐」
人混みの向こうから、低く落ち着いた声で呼びかけられた。
エスコートされていた中佐さんとともに、私もつられて振り返る。
老紳士だった。
まとっているのは軍服ではなく、じつに仕立ての良い仕立ての上品な夜会服。
でも。
中佐さんは反射的に敬礼した。
「お久しぶりです」
「もう辞めたんだから敬礼はなしだ」
老紳士は楽しそうに笑う。
「ですが」
「真面目だなあ」
どうやら知り合いらしい。
「元気か?」
「おかげさまで」
「そうかそうか」
老紳士は本当に嬉しそうだった。
反対に。
中佐さんは少し困っている。
あ。
この感じ。
親戚のおじさんだ。
久しぶりに会った時の。
私にも経験がある。
「大きくなったな!」
みたいな。
そんな空気。
「ところで」
老紳士が私を見る。
「そちらの令嬢は?」
「あ」
中佐さんがこちらを向く。
紹介される。
不意を突かれた私は、慌ててスカートを小さくつまんで頭を下げた。
「初めまして。モンテル子爵が長女、リリアーヌと申します」
「これはご丁寧に」
老紳士は細い目をさらに細める。
値踏みするような視線ではなく、慈しむような目だった。
それからまた何度も深く頷いた。
嫌な予感。もの凄く嫌な予感がする。
「なるほど」
うん。
「なるほどなるほど」
やめてください。
その前振り。
絶対ろくでもない。
その、すべてを察しましたと言わんばかりの深い「なるほど」。
絶対にろくでもない勘違いが加速している。
「噂通り」
ほら。
「若いのによくできた方だ」
私は固まった。
だから。
何の噂?
一体どこのどなたが、どんな尾ひれがついた噂を流しているのですか?
違う。
本当に、根本から色々と違うのだ。
私は今、この大劇場のロビーで「若いのによくできた、気品溢れる令嬢」として凛と佇んでいるわけではない。
ただ、どうすればいいのか分からないだけだ。
殿方同士が話している。
こういう時。
貴婦人は何をするのだろう。
微笑む?
黙る?
少し下がる?
話に入る?
全然分からない。
だから。
とりあえず。
邪魔にならないように固まっている。
それだけである。
しかし、老紳士はそんな私の限界状態を、さらに感心したように見つめて頷いた。
「実に見事に落ち着いておられる」
(違います。全身がフリーズして固まってるだけです)
「立ち姿にも一本、芯の通った気品があるのう」
(違います。貧乏ゆすりが出そうなほどの緊張を必死に抑えています)
「なるほど、これなら確かに……」
だから、その「なるほど」の後に続く言葉を誰か詳しく教えてほしい。
助けを求めて中佐さんを見る。
目が合った。
中佐さんも困った顔をしていた。
なんだろう。
少し安心した。
私だけじゃなかったらしい。
困っているのは。
◇◇◇
老紳士は楽しそうに笑った。
「そういえば名乗っておらなんだな」
そう言って軽く胸に手を当てる。
「オーギュスト・ド・サン=クレール」
聞いたことはない。
「予備役中将じゃ」
私は固まった。
予備役?
予備役。予備役。
つい先日、父に叩き込まれた軍隊用語だ。
頭の中で必死に検索する。
ええと。
軍を辞めた人。
でも完全には辞めていない人。
戦争。事故。病気。
人が足りなくなった。
困ったね、では済まない。
そういう時に呼び戻される人。
たしかそうだった。
私は改めて老紳士を見る。
穏やかな笑顔。
柔らかな物腰。
上品な身なり。
どこからどう見ても好々爺。
なのに、なぜだろう。
たぶん怖い人だ。
物語に出てくる。
「わしはもう隠居じゃよ」
とか言いながら。
実は裏から全部動かしてる人。
黒幕。大物。ラスボス。
そんな感じ。
すると、サン=クレール中将が笑った。
「わしはただの隠居じゃよ」
ホントに言った。
私は危うく声を出しそうになった。
その台詞。本当に言う人いるんだ。
隣を見る。
中佐さんが頭を抱えていた。
「閣下」
「何じゃ」
「その言い方は誤解を招きます」
「そうか?」
そうです。
絶対そうです。
「本当に、今はただの暇な老人じゃよ」
サン=クレール中将は、私の警戒を解くように言葉を続ける。
「毎日、屋敷の庭でこう、土をいじって庭いじりをしておるだけじゃ」
(怪しい。もの凄く怪しい。絶対にその土の下に何か埋まってるか、秘密の地下通路が繋がっている)
「最近は、可愛らしい花も育てとるぞ」
(怪しい。さらに怪しい。裏で国家の陰謀を巡らせている人ほど、温室で怪しい毒花とかレアな薔薇を育てていそう。偏見だけど、絶対にそう!)
すると、サン=クレール中将が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのじゃ?」
「本当に隠居ですか?」
聞いてしまった。
数秒の沈黙。
サン=クレール中将は大笑いした。
「はっはっはっ!」
周囲が振り返るほどだった。
「面白いお嬢さんじゃな」
私は青ざめた。
失礼だっただろうか。
隣では中佐さんがさらに頭を抱えている。
「安心せい。今の軍は若い者達の時代じゃ」
そう言って、ちらりと中佐さんを見る。
その視線だけ。
ほんの一瞬だったのに。
なぜか。
とても優しかった。
私は少しだけ思った。
この人。
たぶん。
中佐さんのことが好きなのだ。
だからこそ、こんなに嬉しそうに話しているのかもしれない。
サン=クレール中将は最後にもう一度、じつに上品に笑うと、
「では、若い者同士、邪魔者は退散するとしよう。ごゆっくりな」
そう言って、人混みの中へと優雅に去っていった。
◇◇◇
サン=クレール中将が人混みへ消えていくのを見送りながら、中佐さんが小さく息をついた。
「苦手なんです」
思わず横を見る。
「そうなんですか?」
「はい」
間髪入れず返ってきた。
「新人の頃から、よく怒られていました」
なんとなく想像できてしまう。
「何か失敗すると呼び出されるんです」
「それで?」
中佐さんは少しだけ声色を変えた。
「――ヴァイス君」
年配の紳士らしい穏やかな声。
「証拠は全部そろっとる」
私は吹き出しそうになる。
「おとなしくゲロしちゃえよ」
もう耐えられなかった。
「ふふっ……!」
思わず口元を押さえる。
「そんな言い方なんですか?」
「実際はもっと丁寧ですよ」
真顔で続ける。
「ですが、込められている意味と圧力は、だいたい同じです」
「怖い……」
「ええ。本当に」
砦の英雄と呼ばれる人が、心底困ったような顔で言うものだから、おかしくて仕方がない。
少し笑ってから、私は尋ねた。
「どれくらい偉い方なんですか?」
「サン=クレール閣下ですか?」
「はい」
父のおかげで、大将や中将という言葉は聞き慣れてしまった。
でも、正直もう感覚がおかしい。
中佐さんは少し考えてから答えた。
「今も軍に残っておられたら、大将になっていたかもしれません」
私は固まった。
「大将……」
やっぱり、とんでもない人だった。
「じゃあ……」
恐る恐る尋ねる。
「軍で四番目くらいに偉い人ですか?」
中佐さんが吹き出した。
「違います」
「あれ?」
「四番目は、もう埋まっています」
私は思い出した。
「あっ、『俺は軍で四番目に偉い』って言う人!」
「そうです」
私は笑いをこらえる。
「あれ、本当に言うんですね」
「言います」
「本当に?」
「本当に」
真面目な返事だった。
もう駄目だった。
「ふふっ……」
中佐さんも少し笑った。
「ですが」
「はい?」
「副長閣下は、総長閣下の前では絶対に言いません」
私は顔を上げた。
「え?」
「言った瞬間に」
少し間を置く。
「『シャルル。くだらないことを言っていないで仕事をしろ』」
「はい」
「そう言われて、書類で頭を叩かれます」
「やっぱりーーー!」
思わず声が大きくなる。
慌てて口を押さえた。
恥ずかしい。
でも。
笑いが止まらない。
ついさっきまで。
白百合の幻姫。
社交界。
みんなの誤解。
そんなことばかり考えていた。
なのに今は。
そんなことを忘れて笑っている。
不思議だった。
「リリアーヌ嬢」
笑いがおさまった頃。
中佐さんが静かに私を見た。
「はい?」
「――やっと、笑いましたね」
私は瞬きをする。
「劇場へ着いてからずっと、今にも泣き出してしまいそうなお顔をされていました」
優しい声だった。
責めるようでもなく。
問いただすようでもない。
ただ、安心したような声。
「少しでも緊張がほぐれたのなら……良かった」
その笑顔を見た瞬間。
私は言葉を失った。
この人も。
きっと、この場所は得意ではない。
軍服なら堂々としている人なのに。
華やかな劇場では、どこか少し居心地が悪そうで。
それでも。
ずっと。
私のことばかり気にかけてくれていた。
笑えるようになるまで。
何も聞かず。
何も急かさず。
ただ隣で話しかけ続けてくれていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
冬の日。
干したばかりの毛布を肩から掛けられたような。
そんな、やさしい温もりだった。
私は小さく笑って、そっと頷いた。
「……ありがとうございます」
その一言だけで精いっぱいだった。
中佐さんは何も言わず、穏やかに微笑み返した。
その沈黙が、不思議なくらい心地よかった。
中佐さんは少しだけ安心したように笑った。




