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おでかけ編6 言わなきゃ・・・

「お待たせしました」


 穏やかな声がした。


 振り返る。

 レオン・ド・ヴァイス中佐が、こちらへ歩いてきた。


 私の姿を認めた、その瞬間だった。

 ほんの一瞬だけ。

 彼の目が、わずかに見開かれる。


 あ。

 びっくりした。

 やっぱり。


 私は少しだけ肩の力が抜けた。

 その反応が、妙に嬉しかった。

 前回みたいに平然としていたらどうしよう、と少しだけ思っていたのだ。


 でも違った。

 ちゃんと驚いてくれた。

 普通の反応だった。

 だから安心した。


 けれど。

 次の瞬間には、その表情はきれいに消えていた。

 軍人らしく背筋を伸ばし、落ち着いた笑みを浮かべる。


「本日はお招きいただき、光栄です」

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


 私も慌てて一礼する。


 型どおり。

 教本どおり。

 完璧な社交辞令。


 ……の、はずだった。


「それと」

 中佐さんが静かに続ける。


「今日もお美しいですね」


 心臓が跳ねた。


「え……」


 危うく変な声が出るところだった。


 きっと社交辞令だ。

 貴族同士の挨拶。

 大人の礼儀。

 そういうもの。


 分かっている。

 分かっているのに。


 どうしてこんなに心臓が忙しいのだろう。


 その後も、中佐さんはいつもと変わらなかった。


 穏やかで。

 自然で。


 だからこそ、私は困ってしまう。


 今日は決めていたのだ。


 白百合の幻姫。

 その話をする、と。

 私はそんな立派な人間ではありません、と。

 誤解なんです、と。

 ちゃんと伝えようと思っていた。


 なのに。

 言葉が出てこない。


 だって。

 何て言えばいいんだろう。


『今日もお美しいですね』


 そう言われて。


『実は違うんです』


 ……何が違うのだろう。


 今日の私は、ちゃんと私だ。

 侍女さんたちに髪を結ってもらって。

 少しだけお化粧をして。

 綺麗なドレスを着ているけれど。

 鏡の中にいるのは、間違いなく私だった。


 なら。

 何が違うのだろう。


 違う。

 そうじゃない。


 私が言いたいのは、そこじゃない。


 白百合の幻姫。

 学院中の人間関係を見抜く策士。

 誰にも動じない聖女。

 近寄り難い孤高の令嬢。


 そんな人ではない。

 本当の私は。

 弟と妹の喧嘩を止めるのにも苦労して。

 洗濯物を干して。

 市場のおばさんと立ち話をして。

 夕飯のおかずを考えて。

 お財布と相談する。

 そんな、ごく普通の人間だ。


 言わなきゃ。


 そう思う。


 でも。


 隣を見る。


 中佐さんは穏やかな横顔で、劇場を見渡していた。


 少しだけ疲れたような目。

 少しだけ不器用そうな笑み。

 それでも今日は、どこか楽しそうだった。


 そんな顔を見ていると。

 言葉が喉で止まってしまう。


「どうかなさいましたか?」


 気付かれてしまった。


「い、いえ」

「そうですか」


 それ以上は聞かない。

 きっと、気を遣ってくれたのだ。

 本当に優しい人だ。

 だから。

 余計に困る。


 言わなきゃ。


 でも、何を? 


 私は白百合の幻姫ではありません。


 それは言える。


 その先は?


 ――本当の私は。


 そこで言葉が止まる。


 貧乏子爵家の娘。

 町娘みたいな令嬢。

 弟妹のお姉ちゃん。


 どれも本当だ。


 でも。

 それだけでもない気がした。


 さっき会った同級生たち。

 少将夫人。

 みんな、本気だった。


 私の中に何かを見ていた。


 私自身が知らない何かを。


 もし、それが全部勘違いだったとしても。

 どうして、みんな同じ勘違いをしたのだろう。

 私は、本当に何も持っていない人間なのだろうか。

 その答えが、自分でも分からなかった。


「リリアーヌ嬢?」


 優しい声に、我に返る。


「本当に大丈夫ですか?」

「は、はい!」


 反射的に返事をする。


 全然、大丈夫じゃない。

 頭の中がぐるぐるしている。


 その時だった。


 ふと、一つの考えが胸をよぎる。


 もし。

 もし中佐さんが。

 白百合の幻姫ではない、本当の私を知ったら。


 がっかりするだろうか。


 その瞬間。

 自分で、自分に驚いた。


 違う。


 私が怖かったのは。

 誤解されることじゃない。

 がっかりされることだった。


 その事実に気付いた途端、胸の奥が熱くなる。


 私は慌てて視線を逸らした。


 王立歌劇場の大きなシャンデリアが、やけに眩しく見えた。


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