おでかけ編1 ある日の兄妹喧嘩
その日は朝から居間が騒がしかった。
「だから、それじゃ駄目だって!」
「駄目じゃないもん!」
元気な声が廊下まで響いてくる。
私は本を閉じて、深いため息をついた。
「また始まった……」
勢いよく居間の扉を開ける。
「こらー!」
二人が同時に振り向いた。
「お姉ちゃん!」
弟のルシアン、十歳。
妹のクロエ、八歳。
普段は仲良しなのに、たまにこうして大喧嘩になる。
「何があったの?」
二人は同時に相手を指差した。
「ルシアンが!」
「クロエが!」
「はい、順番」
二人ともぴたりと止まる。
「まずルシアン」
ルシアンは頬を膨らませた。
「クロエがお小遣いを使うって言うんだ」
「使うものじゃないの?」
「違う!」
思った以上に強い否定だった。
「ちゃんと約束したんだ!」
「約束?」
今度はクロエが慌てて口を開く。
「でも、お母さん最近疲れてそうなんだもん!」
その一言で、空気が変わった。
「だから元気になるものを買いたいの!」
私は少しだけ微笑む。
なるほど。
そういうことだったのか。
クロエらしい。
「でも!」
ルシアンも負けない。
「そのお金は別のために貯めるって決めたじゃないか!」
クロエが黙る。
どうやら本当に二人で約束していたらしい。
「途中で使うのは約束破りだ!」
「でもお母さんが喜ぶなら!」
「それでも駄目!」
また言い合いになる。
私は腕を組んだ。
困った。
本当に困った。
クロエは優しい。
お母さんを笑顔にしたい。
ルシアンも優しい。
二人で決めた約束を守りたい。
どちらも間違っていない。
だから、どちらも叱れない。
(……どうしよう)
自然と、先日のことを思い出した。
グラーベン会戦。
敵が来る。
勝てない。
だから逃げる。
防御陣地まで下がる。
また戦う。
また下がる。
真正面からぶつからず、別の道を探す。
(中佐さんなら、どうするんだろう)
そんなことを考えてしまった自分に驚く。
私は苦笑した。
戦争と兄妹喧嘩を一緒にしてどうする。
でも。
真正面から「どっちが正しい」と決める必要はないのかもしれない。
「ねえ」
二人がこちらを見る。
「二人とも優しいね」
照れくさそうに俯く二人。
可愛い。
本当に可愛い。
「クロエはお母さんを喜ばせたい」
「うん」
「ルシアンは約束を守りたい」
「うん」
「じゃあ」
二人の真ん中に手を置く。
「プレゼント代は私も出そうか」
二人とも目を丸くする。
「その代わり」
私は笑った。
「二人のお小遣いは約束どおり残しておこう」
一瞬の静寂。
それから。
「それだ!」
「それだね!」
二人は顔を見合わせて笑った。
さっきまでの喧嘩が嘘みたいだった。
私は胸を撫で下ろす。
その様子を眺めながら、少しだけ笑ってしまう。
きっと少将夫人なら、こう言う。
『双方の主張を尊重しつつ第三案を提示する、見事な調停術ね』
違う。
そんな立派な話じゃない。
私はただ。
二人とも泣いてほしくなかっただけだ。
「お姉ちゃん」
ルシアンが笑う。
「ありがとう」
「ありがとう!」
クロエも満面の笑顔だった。
「どういたしまして」
その笑顔を見ているだけで、私も嬉しくなる。
――その時だった。
ふと、あの人の顔が浮かんだ。
戦場の話をするときの穏やかな横顔。
褒められて困ったように笑う表情。
「……」
別に、何というわけではない。
ただ。
今度お会いしたら。
今日あったことを話してみてもいいかもしれない。
兄妹喧嘩の話なんて、英雄には退屈だろうか。
そんなことを考えて。
私は少しだけ、自分で自分がおかしくなった。




