第八十六話 印旛の王と禍津喰羅
医務室に静寂が落ちる。
晴真たち一人ひとりの顔を見渡したミヅチは、小さく頷いた。
だが、その表情はすぐに引き締まる。
「ただし」
「これから話すことは、決して他言してはならぬ」
部屋の空気が張り詰める。
「もし禍津喰羅教に知られれば」
「狙われるのは晴真だけではない」
「裏佐倉そのものが危険にさらされる」
全員の表情が真剣になる。
正臣が静かに皆を見渡した。
「約束できますね」
「はい」
「約束します」
誰一人ためらうことなく頷いた。
それを確認すると、ミヅチは小さく息を吐き、ゆっくりと語り始める。
「晴真の血筋は――」
「古代、印旛國を治めた印旛国造」
「伊都許利命へとつながっておる」
⸻
太古の昔。
まだ表佐倉と裏佐倉が分かれていなかった時代。
印旛國を治めていた伊都許利命は、人々を深く愛する王だった。
争いも苦しみもない、誰もが笑って暮らせる国を築こうと願っていた。
その志を認めた太陽神・稚日霊命は、伊都許利命へ七つの神宝を授ける。
それが――
七宝玉。
七宝玉は、それぞれ異なる世界の理を司る神宝。
選ばれた者に、神眼と呼ばれる特別な陰陽眼を授ける力を持っていた。
伊都許利命は七宝玉の力で森を開き、川を整え、田畑を豊かにした。
人々の暮らしは豊かになり、後の佐倉は印旛國の中心として大きく栄えていく。
だが――。
どれほど豊かな国になっても、人の心から争いは消えなかった。
欲望。
嫉妬。
怒り。
憎しみ。
執着。
人の心には、消えることのない闇があった。
伊都許利命は願う。
「人々から苦しみを消したい」
「邪念のない世界を作りたい」
そして七宝玉と神眼の力を使い、人々の心から負の感情だけを取り除こうとした。
しかし、それは神でさえ予想できなかった結果を招く。
引き剥がされた闇は消えることなく集まり続け、一つの存在となった。
それが――
禍津喰羅。
巨大な鰐のような頭。
岩山のような甲羅。
人々の欲望や邪念を喰らい、際限なく成長し続ける怪物だった。
すべての原因が自分にある。
そう悟った伊都許利命は、静かに決意する。
「ならば」
「我が身を檻としよう」
七宝玉の力で禍津喰羅を自らの身体へ取り込み、人々を守るための器となった。
しかし、それだけでは封じきることはできなかった。
そこで降臨したのが、
稚日霊命。
そして稚産霊命。
二柱の神は世界を二つに分けた。
人々が暮らす世界――表佐倉。
禍津喰羅を封じる世界――裏佐倉。
さらに裏佐倉の霊脈へ、十六本の巨大な結界杭を打ち込む。
十六封杭。
十六本の封杭を結んだ巨大な封印陣。
その中心――
現在の佐倉城地下深くへ、伊都許利命ごと禍津喰羅は封じられた。
やがて時代が流れ、十六封杭の上には麻賀多神社が建てられる。
本宮と奥宮を除く十六社は、それぞれ一つずつ封杭を守る神社となった。
ミヅチは静かに続ける。
「もし複数の封杭が破壊されれば」
「佐倉城地下の封印は崩れ始める」
「禍津喰羅教の狙いは」
「十六封杭と七宝玉を利用し、禍津喰羅を復活させることじゃ」
誰も言葉を発することができなかった。
医務室は静まり返り、重苦しい空気だけが流れる。
やがてミヅチは、遠い昔を思い出すように静かに口を開いた。
「学園には古くから、こんな言葉が伝わっておる」
七つの宝玉集う時。
十六の封杭揺らぐ時。
印旛の王は目覚める。
されど目覚めるは英雄か。
あるいは、災厄か――。
その言葉が医務室に静かに響く。
誰も口を開かなかった。
晴真はそっと拳を握り締める。
自分が受け継いだ血。
自分が背負う運命。
その重さを、初めて知ったのだった。




