第七話 井野の七辻
ヒヨドリ坂のバス停
そこは表佐倉にありながら、表と裏の境界に位置する場所だった。
ボンネットバスが静かに発車する。
晴真は窓から身を乗り出し、父と母へ大きく手を振った。
二人の姿が少しずつ遠ざかる。
そして――
次の瞬間だった。
ふわりと景色が揺らいだ。
「え?」
晴真は目を見開く
窓の外の景色が水面の映像のように歪み、溶けるように消えていく。
代わりに現れたのは異世界だった。
紫と藍が溶け合う空
青白く輝く桜並木
空に浮かぶ巨岩
遥か彼方にそびえる巨大な鳥居
幻想と現実の境界が曖昧になるような光景だった。
「うわぁ……」
晴真が思わず声を漏らすと、隣に座っていた男子も目を輝かせた。
その少年は短く切りそろえた黒髪に琥珀色の陰陽眼を持つ風間琥太郎だった。
あ
どこか人懐っこい雰囲気のある彼は、窓の外へ顔を向けながら感嘆の声を上げる。
「すげぇ……」
だが刀也だけは平然としていた。
「今日はよく見えるな」
「え?」
「天気がいいからか?」
「刀也、驚かないの?」
「なんで?」
刀也は不思議そうに首を傾げる
「俺、裏佐倉生まれだぞ?」
「あ……」
言われてみればその通りだった。
凛も苦笑する
「私も何度か来たことあるから」
「ええっ!?」
晴真と琥太郎だけが純粋な初体験だった。
その様子を見て銀花が微笑む
振り分け髪の幼い少女
表佐倉のゆるキャラ・カムロちゃんによく似た姿をしている。
しかしその正体は、裏佐倉を治める三階池の主ミヅチに仕える古き銀蛇であり、晴真たちの案内役でもあった。
銀花は晴真を見る
初めて会った時からどこか懐かしい気配を感じていた。
遠い昔に見た龍姫の面影
だからだろう
自然と世話を焼きたくなる
「晴真様、窓からあまり身を乗り出してはいけませんよ」
「あ、ごめん」
晴真が慌てて身体を引っ込める
銀花は満足そうに頷いた。
「裏の道は不思議が多いですから。何か飛んできても危ないですし」
「そんなの飛んでくるの?」
「たまに飛んできます」
「たまに!?」
晴真が目を丸くすると、銀花はくすりと笑った
「ですから、ちゃんと座っていてくださいね」
「うん」
素直に返事をする晴真に、銀花はどこか安心したような表情を見せた。
「晴真様、もう少しするとくらやみ坂に入りますよ」
「くらやみ坂?」
「はい」
銀花が前方を指差した
遥か先
巨大な坂道が見える
漆黒だった
まるで夜そのものを切り取ったような坂だ
「表佐倉にも同じ名前の坂があります」
「うん」
「ですがこちらのくらやみ坂は、とても危険です」
ボンネットバスは暗闇坂へと入っていく
途端に世界が変わった
空も桜も鳥居も消える
残ったのは闇だけ
窓の外には無数の光が流れていた。
星にも蛍にも、魂の灯火にも見える光
黒い霧の中をバスが進むたび、それらは尾を引いて流れていく
まるで夜空の川を走っているようだった。
エンジン音だけが静かに響く
晴真は息を呑んだ
こんな景色は見たことがない
「すごい……」
「だろ?」
刀也は少し得意げだった
その頃
車内後方ではミヅチが蔵六餅を頬張っていた
「うむ。美味い」
「それ、晴真様のお土産ですよ。食べすぎないでください」
銀花が呆れる
「細かいことは気にするな」
「気にしてください」
そう言いながら銀花は、晴真の膝に置かれた荷物が揺れていることに気づいた。
「晴真様、それはこちらへ」
「え?」
「重いでしょう」
銀花はひょいと荷物を持ち上げ、自分の席の横へ置く
「ありがとうございます」
「気にしないでください」
礼を言われると、銀花は少しだけ照れたように視線を逸らした。
一方で晴真は琥太郎と話していた。
「風間くん、この景色すごいね?」
「本当にすごい景色だな、桜くん」
琥太郎が笑う
そこへ刀也が割り込む
「そうそう! せっかく友達になったんだから下の名前で呼ぼうぜ!」
刀也がにやりと笑う
「俺は刀也、こっちは晴真、そんで琥太郎!」
「勢いで決めるなよ」
晴真が苦笑する
「じゃあ晴真で」
琥太郎が素直に言うと、晴真も少し照れながら頷いた。
「じゃあ俺も琥太郎って呼ぶ」
「おう!」
「晴真」
刀也が満足そうに呼ぶ
「なんでお前まで確認みたいに呼ぶんだよ」
「うるさい!」
車内に小さな笑いが広がった。
「そういえば風間琥太郎ってさ」
「ん?」
「風魔の小太郎みたいな名前だよね」
「あー」
琥太郎が苦笑する
「実はご先祖様なんだ」
「ええっ!?」
晴真が驚く
その声にミヅチが反応した
「あやつの子孫か」
ミヅチは琥太郎を眺める。
「よう似ておる」
「知ってるの?」
「知っておるとも」
ミヅチは懐かしそうに笑った。
「子供の頃から悪童でな」
「風魔小太郎が?」
「そうだ」
「なんか想像できる」
刀也が頷く
「しかも表の世界のどこぞの殿様に惚れ込み」
「殿様?」
「そのまま表の世界で暮らしたとか」
琥太郎はぽかんとした
「初耳なんだけど」
「琥珀色の陰陽眼もそっくりだ」
ミヅチは満足そうに頷いた。
その頃
凛は麻賀多葵と麻賀多楓と仲良く話していた。
父親の仕事の都合で表佐倉に住んでいる双子姉妹である。
三人はすっかり打ち解けていた。
しかし
「刀也くん!」
凛が立ち上がる
「はい!」
「車内では静かにしてください!」
「すみません!」
「晴真くんも!」
「えっ!?」
「琥太郎くんもです!」
「なんで!?」
「一緒に騒いでたからです!」
葵と楓が吹き出した
「凛ちゃん真面目ー」
「学級委員みたい」
そんな平和な空気の中
ミヅチだけが急に嫌そうな顔をした。
「む……」
「どうしました?」
銀花が尋ねる
「嫌な気配がする」
その時だった
「ほう?」
聞き覚えのない男の声が響いた
全員が振り返る
そこには一人の男が座っていた
誰も乗ってきたところを見ていない
黒い和装
長い銀髪
穏やかな笑み
掴みどころのない飄々とした雰囲気
だが
ミヅチ
沙羅
銀花
三人の表情が一変した
「井野丸様」
沙羅が頭を下げる
銀花も深々と礼をする
ミヅチだけは露骨に顔をしかめた
「出ましたか……」
「相変わらずだなぁ、ミヅチ」
男は楽しそうに笑う
「久しぶりではないか」
「久しぶりで十分です」
「冷たいな」
井野丸は肩をすくめた。
「何百年も前は、わしのところへ遊びに来ておったではないか」
「子供の頃の話です」
ミヅチは即座に切り返す
「それに井野丸様は、会うたびに昔話を持ち出しますから」
「面白いからな」
「面白がらないでください」
井野丸はくつくつと笑い、ミヅチはますます不機嫌そうに眉をひそめた。
車内に笑いが広がる
だが誰もが分かっていた
この男はただ者ではない
辻守大神・井野丸
稚日霊命第二の眷属であり、裏佐倉の要衝「井野の七辻」を守護する大神
その本体は山よりも巨大な大蛇神で、印旛大龍王とも古くから並び称される存在だった。
井野の七辻は、表と裏を結ぶ七つの道が交わる境界の要
悪しきものが裏佐倉へ入り込まぬように
そして裏佐倉から外へ出て災いを広げぬように
井野丸は古来より、その辻に座して見張り続けてきたのである。
やがてくらやみ坂を抜ける
その先には七つの道が交わる巨大な辻
井野の七辻
中央には古びた御堂が建っていた。
本来なら井野丸はそこにいる
しかし今日は違った
井野丸はゆっくりと視線を動かす
そして
桜晴真を見る
車内の空気が変わる
飄々とした笑みが消えた
大神の眼になる
静かに
じっと
晴真を見つめる
まるで心の奥まで見透かすように
そして
井野丸は小さく微笑んだ。
「なるほど」
その一言だけだった
だがミヅチも
沙羅も
銀花も
その意味を理解した
普段は人間にも神にも興味を示さない井野丸が
金桜眼の少年に興味を持ったのだった。




