第六話 式神バス
リン――
リン――
どこからともなく、澄んだ鈴の音が響く。朝の冷た
い空気が肌を撫で、遠くで鳥のさえずりがかすかに混
じる。
刀斎がゆっくりと空を見上げた。薄く流れる雲の隙間から、柔らかな陽光が差し込んでいる。
「来たな」
その言葉と同時に。
ヒヨドリ坂の上から黒い霧が静かに流れ込んできた。湿った土の匂いがふわりと漂う。
ざわり。
空気が揺れる。肌にまとわりつくような重さが広がる。
そして――
霧の中から姿を現したのは、一台のボンネットバスだった。
「おお…」
晴真が思わず声を漏らす。思わず息を呑むほどの存在感だった。
漆黒の車体。
そこには金色の桜と蛇を模した美しい紋様が描かれ、陽の光を受けて神々しく輝いている。光が反射して、まるで生きているかのように揺らめいた。
まるで美術工芸品のような美しさだった。
「かっけぇ!!」
刀也が目を輝かせて叫ぶ。興奮で声が少し上ずっている。
「落ち着け」
ゴツン。
刀斎の拳骨が容赦なく落ちた。乾いた音が静かな空気に響く。
「いてっ!」
頭を押さえる刀也を見て、凛は呆れたようにため息をつく。春風が彼女の髪を揺らした。
「だから落ち着いてって言ったのに」
「だって格好いいじゃん!」
「気持ちは分かるけど……」
その時だった。
プシューッ
バスの扉がゆっくりと開く。蒸気のような白い息が足元に広がる。
運転席から降りてきたのは――
御堂沙羅だった。
黒い制服に身を包み、長い黒髪を風になびかせながら周囲を見渡す。靴音が石畳に軽く響いた。
「お待たせ」
その佇まいは城址公園で会った時よりも制服姿のせいか、凛とした格好良さを感じさせた。
その背後、誰にも気づかれぬまま、いつの間にか晴臣たちのすぐそばに一つの気配が現れていた。
札が光る。
バス停のベンチには赤い毛氈が掛かり、和傘が開く。
茶釜から湯気が立ちのぼり、バス停はたちまち茶屋のような雰囲気に包まれた。
「ほほほ」
ミヅチがお茶を飲みながら優雅にくつろいでいた。湯気がほのかに立ち上り、香ばしい香りが漂う。
まるで幽玄な貴婦人である。
「……お前、相変わらず自由だなぁ」
晴臣が呆れた声を漏らす。
「当然じゃ」
即答だった。
「縛られるのは性に合わん」
「……」
刀斎はその姿を認めるや否や、すっと背筋を伸ばした。普段の豪放さを抑え、ゆっくりと歩み寄る。
「ミヅチ様」
深く頭を下げる。その所作には一切の乱れがなく、心からの敬意が滲んでいた。
「ご無沙汰しております」
ミヅチは湯呑みを口元から離し、くすりと笑う。
「おお、刀斎か」
その声音はどこか柔らかく、懐かしむようだった。
「息災か」
「日々の孫の成長を眺めながら、静かに息災の日々を重ねております」
刀斎は顔を上げるが、その表情にはわずかな照れが混じる。
ミヅチは目を細めた。
「昔はわしの後ろをちょこちょこと付いて回っておったのに」
「ええ、あの頃が懐かしいですね
こうして今もお話しできることを嬉しく思っております」
「ほほほ、あいかわらず真面目よな」
まるで孫を見るような優しい眼差しだった。
刀斎は苦笑しながらも、どこか嬉しそうに頭をかいた。
「未熟者ゆえ」
「よいよい」
ミヅチは軽く手を振る。
「そのままでよい」
その言葉に、刀斎は静かに頷いた。
沙羅は刀斎に向き直り刀斎の前へ歩み寄る。
「刀斎様」
ぺこりと頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
刀斎は豪快に笑う。低く響く笑い声が周囲に広がる。
「おう、沙羅か」
「元気そうじゃな」
「はい」
「刀斎様もお元気そうで何よりです」
刀斎は満足そうに頷いた。
「お前も立派になった」
「ありがとうございます」
そして刀斎は晴真と凛へ目を向ける。鋭い視線が二人を見据える。
「しかし今年の新入生は面白い」
「ほう?」
「金桜眼の坊主に、銀の芽を持つ娘」
刀斎は楽しそうに笑う。
◇
続いて沙羅は道清へ向き直る。
「麻賀多道清殿」
「ご無沙汰しております」
道清も静かに頭を下げる。衣擦れの音がかすかに響く。
「こちらこそ」
「沙羅殿」
二人は礼儀正しく挨拶を交わした。
そして――
沙羅は晴臣を見る。
「よう」
「よう」
それで終わりだった。
「あれっ!?」
晴真が思わず声を上げる。
「それだけ!?」
「それだけだ」
「それだけだ」
二人とも平然としている。
刀斎が豪快に笑った。
「昔からこんなもんじゃ」
道清も苦笑する。
「変わらんな」
◇
すると晴臣が少しだけ真面目な表情になった。風が止み、空気がわずかに張り詰める。
「沙羅」
「ん?」
「ありがとうな」
「何が?」
「親父達を説得してくれて」
沙羅は少しだけ目を細める。
「別に大したことじゃない」
「いや」
晴臣は静かに頭を下げた。
「助かった」
そう言って晴真の肩へ手を置く。温もりが伝わる。
「それと」
「?」
「こいつを頼む」
晴真は驚いたように父を見る。
沙羅は優しく笑った。
「任せろ」
短い一言。
それだけで十分頼もしかった。
◇
沙羅が乗車の準備を始める。制服の裾が風に揺れる。
その時
晴真は「あっ」と小さく声を上げた。
鞄を開き、大切そうに包みを取り出す。
紙の擦れる音がする。
「そうだ。」
母から預かっていたお土産だった。
「ミヅチ!」
「ん?」
ミヅチが振り向く。
「これ」
「ほう?」
「お土産」
包みを開いた瞬間。
ミヅチの目が輝いた。甘い香りがふわりと広がる。
「蔵六餅じゃ!!」
歓喜である。
「覚えておったか!」
「好きそうだったから」
「好きじゃ!」
即答だった。
満面の笑みで蔵六餅を頬張る。もちもちとした食感に頬が緩む。
「晴真、おぬし良い子じゃな」
「そんなに?」
「そんなにじゃ」
その様子を見ていた銀花が、呆れたようにため息をついた。
「また朝から甘味ですか、ミヅチ様。」
いつの間にか幼い少女の姿をした禿――銀花が現れていた。
振り分け髪を揺らし、小柄で愛らしい姿。足元で砂利が小さく鳴る。
だが、その物腰には長い年月を生きた者だけが持つ落ち着きがあった。
晴真は思わず目を瞬かせる。
銀花は柔らかく頭を下げた。
「初めまして。銀花と申します」
「あ、桜晴真です」
晴真も慌てて頭を下げる。
「お話は伺っております」
「こちらこそよろしくお願いします」
穏やかな挨拶だった。
銀花はミヅチに仕える眷属。
その正体は銀蛇であり、長い年月をミヅチの傍で過ごしてきた存在だった。
だが次の瞬間。
「ミヅチ様」
「なんじゃ」
「朝からお菓子ばかり食べてはいけません」
「一つくらい良いではないか」
「先ほどから三つ目です」
「む」
「昨日も夕食前に甘味を召し上がって、夕飯を残しましたよね」
「それは……」
「先週も――」
「もうよい!」
ミヅチは顔を背ける。
完全に叱られている子どもだった。
晴臣が吹き出す。
「相変わらずだな」
「うるさい」
銀花はさらにじろりと見る。
「後で朝食もきちんと召し上がってください」
「……わかった」
しぶしぶ頷くミヅチに、晴真は思わず笑ってしまう。
◇
晴真は蔵六餅をもう一つ取り出した。
「銀花さんもどうぞ」
「え?」
「美味しいですよ」
優しい笑顔。
誰にでも分け隔てなく差し出すその姿に、銀花は一瞬だけ目を見開く。
――龍姫様
遠い昔の面影が重なった。
誰にでも優しく、自然と手を差し伸べる姿。
あまりにもよく似ていた。
銀花は静かに微笑む。
「ありがとうございます」
そう言って蔵六餅を受け取る。
その様子を見たミヅチが笑う。
「銀花も食べるではないか」
「私は一つだけです」
「ずるい」
「ずるくありません」
即座に返され、ミヅチはむっとした。
そのやり取りに周囲から笑いが漏れる。空気が少し和らぐ。
◇
「相変わらずだな」
晴臣が呟く。
「誰がじゃ」
「食い意地が」
「おぬしに言われたくない」
「俺はそこまでじゃない」
ミヅチがにやりと笑った。
「学生時代、牡丹餅を十個食べて腹を壊したのは誰じゃ?」
晴臣が固まる。
「……」
「え?」
晴真が振り向く。
「父さん?」
「聞くな」
「本当なの?」
「本当じゃ」
ミヅチは楽しそうに続ける。
「しかも道清と道継を巻き込んだ」
道清は静かに目を逸らした。
「否定しないんだ」
凛がぽつりと言う。
「否定できん」
「なんで巻き込まれたんですか?」
「晴臣が競争しようと言い出した」
「なんで!?」
「知らん」
凛は頭を抱えた。
「お父さん……」
さらにミヅチが笑う。
「他にもあるぞ」
「やめろ」
「佐倉城の石段をソリで滑り降りようとして、そのまま池へ飛び込んだ」
「やめろって!」
周囲は大爆笑だった。笑い声が坂に響き渡る。
刀也は腹を抱えて笑う。
「晴真のお父さん面白すぎる!」
「笑うな!」
「無理!」
凛も口元を押さえて肩を震わせる。
晴真は信じられない表情だった。
「父さんって監督生だったんだよね?」
沙羅が苦笑する。
「成績は優秀だった」
少し間を置いて付け加える。
「それ以外が問題だった」
「誰のせいで監督生にさせられたと思ってるんだ」
晴臣が睨む。
沙羅は真顔で答えた。
「私か」
即答だった。
再び笑いが起こる。
◇
やがて笑い声は少しずつ静まり、春風が桜を揺らした。花びらがひらひらと舞い落ちる。
沙羅は腕時計へ目を落とす。
「さて」
その一言で空気が変わる。
笑っていた子どもたちも、保護者たちも自然と表情を引き締めた。
「そろそろ出発だ」
晴真は父と母を見る。
美咲は優しく微笑み、大きく頷いた。目元が少し潤んでいる。
晴臣も静かに笑う。
「行ってこい」
「うん!」
晴真は力強く頷く。
凛も。
刀也も。
それぞれ家族へ最後に手を振る。風に乗って声がかすかに届く。
三人は式神バスへ乗り込んだ。
プシューッ
扉が静かに閉まる。金属音が小さく響く。
リン――
再び鈴の音が響く。
黒い霧がゆっくりと車体を包み込み、ボンネットバスは静かにヒヨドリ坂を登り始めた。霧の中で車体がぼんやりと揺らめく。
表佐倉から裏佐倉へ
その先に待つのは――
佐倉陰陽学園
新たな仲間
新たな試練
そして
金桜眼の少年の物語が、いよいよ幕を開ける。




