第百十二話 瘴気の種
豪斎を救出してから、しばらく後。
草笛の丘には、ようやく静けさが戻っていた。
野生の霊馬たちも少しずつ草原へ戻り始めている。
晴真たちは大きな木の下に集まり、銀花から怪我の確認を受けていた。
「大きな怪我をした方はいませんね」
「よかったです」
「俺は全然平気!」
刀也が元気よく腕を上げる。
銀花が笑顔のまま振り返る。
「刀也様」
「はい」
「あとでもう一度診ます」
「……はい」
その様子に皆が笑った。
少し離れた場所では――
土浮丸。
ミヅチ。
チヨヒメ。
沙羅。
そして銀花。
五人が集まっていた。
その中心には――
金色の桜に封じられた黒い種が置かれている。
瘴気の種。
銀花も晴真たちの治療を終えると、そこへ加わった。
先ほどまでの穏やかな空気とは違う。
全員の表情が険しい。
最初に口を開いたのは沙羅だった。
「で」
しゃがみ込み、瘴気の種を睨む。
「こいつは何なんだ?」
ミヅチが扇子を開く。
「直弥は『瘴気の種』と呼んでおったの」
「それは聞いてた」
沙羅が顔をしかめる。
「聞きてぇのは なんであいつがこんなもん持ってんのかってことだ」
「それはわらわにも分からぬ」
チヨヒメが静かに答える。
そして瘴気の種を見る。
「ただ……」
「この瘴気」
その表情が険しくなる。
「間違いありません」
「禍津喰羅のものです」
沈黙が落ちた。
土浮丸が低い声で呟く。
「やはりか」
ミヅチも頷いた。
「わしも同じように感じた」
「四百年前と同じじゃ」
沙羅が腕を組む。
「四百年前……」
その言葉に銀花が反応する。
「瘴気の種を使った災厄ですね」
「ああ」
ミヅチの声が低くなる。
かつて――
禍津喰羅の分体が裏佐倉各地へ瘴気の種を撒いた。
種は生き物や土地に根を張り。
人々の負の感情を喰らい。
瘴気を広げた。
龍姫。
夜叉丸。
そして神の眷属たちによって浄化され、封じられた――四百年前の災厄。
「じゃが……」
ミヅチが目を細める。
「当時のものとは少し違う」
「違う?」
沙羅が尋ねる。
「あの頃の瘴気の種は 土地へ根を張るものが多かった」
チヨヒメも頷く。
「ですが今回は――」
全員が豪斎を見る。
巨大な大猪は、銀花の治癒術を受けながら静かに眠っている。
「生きた者へ直接 埋め込まれていました」
土浮丸の拳が強く握られる。
「……」
怒りを押し殺している。
ミヅチが尋ねた。
「土浮丸様」
「豪斎に変わった様子はなかったのですか?」
「なかった」
土浮丸は即答した。
「昨日まではいつもの豪斎じゃった」
「森を歩き 山を見回り 何も変わったところはなかった」
「では かなり最近……」
銀花が呟く。
「おそらくな」
土浮丸は眠る豪斎を見つめる。
「豪斎はそこらの妖や霊獣とは違う」
「長きにわたり内郷を守ってきた 大地の力を持つ大猪じゃ」
声に悔しさが滲む。
「その豪斎が……」
「わしに何も知らせることすらできず 瘴気に呑まれた」
沙羅の表情が険しくなる。
「そこなんだよな」
「直弥が豪斎を力ずくでどうにかできるとは思えねぇ」
土浮丸も頷く。
「豪斎もただ黙って種を埋め込まれるような者ではない」
チヨヒメが考え込む。
「何か別の方法があるのでしょうか」
「あるいは……」
銀花が瘴気の種を見る。
「種そのものに宿主へ取り付く力があるのかもしれません」
ミヅチが扇子を閉じる。
「いずれにせよ厄介じゃな」
その時――
土浮丸が尋ねる。
「直弥という男」
「あやつは何者じゃ」
沙羅が答える。
「元・裏佐倉公安部」
土浮丸が目を細めた。
「公安?」
「ああ」
「私や正臣の先輩だった男だ」
沙羅は忌々しそうに舌打ちする。
「今は裏佐倉を裏切って 禍津喰羅教にいる」
「しかもあいつ一人じゃねぇ」
ミヅチが続ける。
「宮小路町で晴真たちを襲った者たちもおる」
土浮丸はしばらく黙っていた。
そして――
「禍津喰羅教が再び動き始めた」
静かな声だった。
誰も否定しない。
四百年前。
裏佐倉を滅亡寸前まで追い込んだ災厄。
その名を掲げる者たちが――
今。
瘴気の種を手にしている。
「……」
沙羅が子どもたちを見る。
晴真たちは少し離れた場所で、摩季と銀花が作った弁当を広げ始めていた。
先ほどまで戦っていたとは思えないほど賑やかだ。
刀也が何かを取ろうとして凛に怒られ。
迅が笑い。
道満が呆れ。
小夜たちも楽しそうにしている。
沙羅は小さく息を吐いた。
「ったく」
「せっかく遊びに来たってのによ」
チヨヒメが微笑む。
「だからこそ私たちが考えなくてはいけません」
子どもたちに背負わせる話ではない。
土浮丸も晴真たちを眺める。
「……未来の種か」
先ほど自分が口にした言葉を繰り返す。
「なるほどのぉ」
その視線が晴真へ向かう。
「金の桜を咲かす童」
そして――
凛。
道満。
「銀の光を宿し始めた童たち」
ミヅチとチヨヒメの表情が変わった。
沙羅も土浮丸を見る。
「やっぱり見えましたか」
「わしを誰じゃと思っておる」
土浮丸は笑った。
「一瞬じゃったが確かに見えた」
「二人の陰陽眼が銀色に光った」
チヨヒメが凛と道満を見る。
「銀桜眼……」
「まだ咲いてはおらぬ」
土浮丸が言う。
「蕾にも届いておらんじゃろう」
「じゃが――」
目を細める。
「芽は出た」
ミヅチが扇子で口元を隠す。
「金桜が咲く時 銀桜が咲き誇る……か」
古くから伝わる言葉。
金桜眼が現れる時。
その時代には必ず――
その者を支え、導く銀桜眼が現れる。
沙羅は頭を掻いた。
「よりによって二人かよ」
「まだ決まったわけではありません」
銀花が言う。
「一時的な発現という可能性もあります」
「そうじゃな」
チヨヒメも頷く。
「今は見守りましょう」
そして――
土浮丸は再び瘴気の種を見る。
「問題はこちらじゃ」
空気が戻る。
土浮丸の表情から笑みが消えた。
「四百年前と同じものが動き始めたのなら」
「今回の豪斎だけで終わるとは思えぬ」
ミヅチも同意する。
「すでに他の場所へ撒かれておる可能性もある」
沙羅が顔をしかめる。
「最悪だな」
「公安に持ち帰って調べる」
「正臣や若陽にも報告だ」
「待て」
土浮丸が止めた。
「なんですか?」
土浮丸は金桜に封じられた種を指差す。
「持ち帰るならそのままでは駄目じゃ」
「禍津喰羅の瘴気を甘く見るでない」
ミヅチも頷く。
「わしらで二重 三重に封を施そう」
「晴真の金桜縛は強力じゃが あの子はまだ一年生」
「いつまで封印が保つか分からぬ」
チヨヒメが種の前へ座る。
「私も封印を重ねます」
銀花も頷く。
「では私は瘴気が漏れていないか確認します」
「決まりだな」
沙羅が立ち上がる。
だが――
土浮丸だけは動かなかった。
眠る豪斎を見つめている。
「土浮丸様?」
ミヅチが呼ぶ。
「……すまぬ」
土浮丸は豪斎の鼻先を撫でる。
「わしはもう少し こやつのそばにおる」
ミヅチは何も言わなかった。
チヨヒメも。
沙羅も。
銀花も。
誰も止めない。
「豪斎」
土浮丸が静かに語りかける。
「お主が守ってきた内郷は無事じゃ」
眠る大猪の耳が、ほんの少し動いた。
土浮丸は優しく笑った。
「それに――」
晴真たちを見る。
「面白い童たちも育っておる」
草原から笑い声が聞こえる。
「だから今はゆっくり眠れ」
「目を覚ましたら――」
土浮丸は一本の草を摘み取った。
「また一緒に内郷を歩こうぞ」
そして――
ヒュルルル――
静かな草笛の音が響く。
豪斎の呼吸が、少しだけ穏やかになった。
その優しい音色の向こうで――
金色の桜に封じられた黒い種だけが。
不気味なほど静かに、そこに残されていた。




